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【歴史概要76】南朝・華北統一・高句麗・百済・新羅・倭

①4世紀の中国は華北に五胡十六国、江南には西晋の一族、
司馬睿が建国した東晋があった。南北に大きく分かれていた。

②五胡十六国の一つである前秦は一時的に華北を統一した。苻堅(ふけん)が南下して東晋と戦ったが淝水(ひすい)で敗れた。東晋は体制を維持したが軍人が台頭していく。

③5世紀初頭に劉裕が宋を建国した。

これ以降斉・梁・陳と王朝が続く。これをまとめて南朝と云う。宋の記録『宋書』に日本の「倭の五王」といわれる諸王が朝貢した記録が残っている。

④江南に展開した王朝をまとめて六朝という。西晋から南朝の時代に貴族文化が生まれた。王義之や顧愷之の作品や梁の昭明太子が古今名分を集めて編纂した『文選』が有名である。

⑤前秦が東晋に敗れて弱体化した386年に鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)が北魏を建国した。

北魏の3代目である太武帝が439年に華北を統一した。

⑥4世紀の朝鮮半島では大きな動きが見られた。半島南部で馬韓、弁韓、辰韓の三韓がそれぞれ統一の動きを見せた。313年に楽浪郡は高句麗や馬韓の攻撃でなくなり土地は両者が併合した。

⑦この情勢のなかで馬韓の地にあった小国がまとめられて百済となった。辰韓の地では新羅が成立した。半島南部の中央部、弁韓には伽羅諸国があった。日本名では任那である。この地域は鉄鉱山があり倭にとってこの鉄が不可欠な物資であった。

⑧4世紀の末に高句麗に出た好太王(広開土王/19代目)は南方への拡大を精力的に行った。このプロセスで半島南部の鉄資源を求める倭との戦いが勃発した。

⑨好太王碑文はその解釈をめぐって諸説が対立している。また倭は高句麗との戦いで騎馬戦術を始めとする多くの事を学んだ。5世紀になって古墳に馬具が埋葬されるようになったのはその影響である。

⑩5世紀になると倭に出た讃・珍・済・興・武の5人の王は南朝の宋に朝貢して朝鮮半島での立場を有利にするように要請した。

⑪宋は百済に対してはそれを認めなかった。それは宋にとって直接の脅威である北魏に対して北方から牽制する勢力として百済を考えていたからと解釈されている。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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