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【歴史概要105】三角貿易・アヘン流行・自由貿易交渉

①中国とヨーロッパの間で絹や香料に留まらず
陶磁器やお茶なども行き来するようになった。

②ヨーロッパではマイセンなどの工房が生まれただけでなく
イギリス市民の生活は紅茶によって変わった。

③産業革命以後に大量に生まれた労働者たちにとって砂糖とミルクを併用して紅茶を飲む事は生活習慣となった。

④イギリスはインドのアヘンに目をつけた。アヘンの原料のケシの栽培はBC3000年頃のメソポタミアから始まっておりイスラーム商人を媒介としてインドでも栽培が始まった。

⑤医薬用の使用が大半だったが清朝の中国では吸引によって得られる快楽のために需要ができた。

⑥中国貿易の輸入超過で財政逼迫していた東インド会社はインド産のアヘンを中国にもたらす事で銀を回収した。これがイギリス産業革命のための資本となった。

⑦産業革命で生産された安価な木綿はインドの伝統的な農村綿工業を破壊した。ゆえにアヘン戦争の17年後にインドで対英大戦争としてスィパーヒーの乱が起こる。

⑧清の朝貢鎖国体制にイギリス政府は不満を持っていた。

乾隆帝政権の1793年に外交官マカートニーを派遣し自由貿易の交渉を始めた。

⑨皇帝に対する三跪九叩頭は免除されたが交渉は進展しなかった。1816年にアマーストが謁見を求め、1834年にはネーピアが3度自由貿易を求める交渉をしたが上手くいかなかった。

⑩中国側はアヘンの流入量が増えていきイギリスへの反感が高まった。アヘン中毒者が増加するだけでなく支払いが銀で行われたので国庫窮乏となった。当時の中国は地丁銀制であり地税や人頭税などの税金は銀支払いだった。

⑪アヘンは政府高官にまで及んでいたが危機感はなかった。アヘン貿易公認派は存在したが道光帝(8代目)は批判した。アヘンの厳格な対応を説いた林則徐を欽差大臣(特命全権大使)に登用した。

⑫1839年に広東を訪問した林則徐はイギリス商人に厳格な対応をした。

保有していたアヘンを没収し消石灰と海水で分解処理した。商人にアヘン持ち込みは死罪を認めるという誓約書へのサインを要求した。

⑬イギリスの貿易監察官チャールズ・エリオットはイギリス人をマカオに撤去させた。

林則徐はマカオを包囲したのでエリオットはイギリス船舶で避難した。そこに東インド艦隊の軍艦が到着し清国海軍を攻撃した。アヘン戦争はイギリス本国の決定がないまま始まった。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社

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