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【日本史7】鎌倉史備忘録34

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①2度のモンゴル襲来を防いだが平和は到来しなかった。3度目のモンゴル襲来に備えた防御態勢の継続と強化が行われた。引き続き異国警固番役を御家人に課した。

②鎌倉幕府は朝鮮へ攻め入ることも計画したが実行に移さなかった。元は国内の統治で逼迫しており1294年にはフビライハンが亡くなって国内は混乱していた。ゆえに3度目の襲来はなかった。

③国内の御家人は幕府から恩賞が得られなかった。幕府には十分な財産がなかったのだ。御家人たちと寺社は相応の恩賞や報賽を要求した。

④1284年(弘安7年)に北条時宗が亡くなった。9代目執権は当時14歳であった息子の北条貞時であった。政治主導が困難なため実権は肥後国(熊本県)守護の安達泰守が担った。

⑤安達泰守は弘安徳政という大改革を実施した。1つ目の目的はモンゴル襲来で活躍した九州を中心とする武士や寺社に正当な恩賞を与える事。2つ目は彼らを幕府に服従させる事だった。

⑥泰守は恩賞奉行となって武士に対する恩賞判断を行った。新しく土地を与える代わりに現実的に支配不能だった土地を支配できるよに名主識安堵令を出した。

⑦九州の御家人を支配権回復の対象とした。御家人でなかった武士も御家人しようと試みた。しかし優遇されていた御家人は反発したと云われている。

⑧神社には神領興行法を出した。以前に他人に売却された九州などの主要神社の所領を不当として旧所有者の神社に返す事を命じた。神社は社領を取り戻すために動きだしたが神社・御家人・一般の人々に対立が生まれた。

⑨得宗家に仕えていた得宗御内人は一連の改革に反発した。既存の御家人と得宗御内人は反安達康盛で団結した。

⑩得宗御内人の頂点内管領の平頼綱らは挙兵して安達泰守以下の安達一族を滅ぼした。

これが1285年(弘安8年)の11月に起きた霜月騒動である。

⑪平頼綱は実権を握るが名主識安堵令や神領興行法などはともに撤回した。現状維持の方向を打ち出した。家格が低かった頼綱は御内人に引付衆の監視権を与えた。

⑫朝廷に接近して息子の飯沼資宗の官位を上昇させた。自身の立場を補強して幕府内の存在感を高めた。息子の引付衆・評定衆への就任を考えていた。

⑬9代目執権北条貞時は勢力を拡大する平頼綱を警戒した。1293年(正応6年)に貞時は頼綱と資宗を滅ぼした。これが平禅門の乱である。そして得宗専制政の確立を根ざしていく。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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