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【日本史7】鎌倉史備忘録41

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①幕府滅亡後に後醍醐が天皇となり建武の新政が行われた。しかし北条氏一門の残党が各地で反乱を起こした。

②関東申次として朝廷側の立場から朝廷と幕府間の調整に活躍した西園寺公宗は北条時興(泰家)をかくまって後醍醐への反乱計画を企てていたと云われる。

③これらの反乱と計画は建武政権によって鎮圧された。

政権の脅威となったのは北条高時(執権14代目)の遺児である時行による中先代の乱である。

④時行は幕府滅亡から2年後の1335年(建武2年)に信濃国(長野県)で挙兵して鎌倉へと侵攻した。

しかし時行は6歳であり北条氏再興の神輿であった。後醍醐天皇は鎌倉に尊氏の弟である足利直義を送り込んだ。

⑤時行軍は小手指原や府中で敵軍を破って鎌倉を奪還した。直義は敵の旗印となる可能性のあった護良親王を鎌倉で倒した。西へと敗走した。ここに鎌倉幕府は復活するかに思われた。

⑥京から攻め上ってきた尊氏軍に連敗し鎌倉支配はできず時行は落ち延びた。20日ほど鎌倉を奪還したこの戦いは中先代の乱と云われる。鎌倉幕府の再興はできなかった。

⑦再興に失敗した時行は後に南北朝期になると後醍醐から朝敵の認定を解除されて北畠顕家ら南朝の武将らとともに鎌倉を奪還した。

⑧北朝支配の教徒奪還を目指して鎌倉から進撃したが途中の戦いで大敗した。

その後時行は1352年(文和元年・正平2年)に観応の擾乱で尊氏・直義兄弟が対立するとその隙に南朝方の挙兵に参加した。

⑨3度目の鎌倉奪還に成功したがまたも尊氏に敗北した。北条時行は捕らえられて処刑された。

⑩北条氏の御内人による政治腐敗、モンゴル襲来による御家人の困窮、政治不安による悪党の出現などが滅亡理由と云われていたが、貨幣経済の発展による御家人の困窮、気候寒冷化による食糧不足への対処不能、西国や九州統治の失敗などの理由が付加された。

⑪元々鎌倉幕府は東国の御家人たちの政権だった。

それを承久の乱以後に畿内を中心とした西国をモンゴル襲来により九州までを支配する全国的なものへと拡大した。

⑫ただ幕府の組織や制度はその変化についていけなかった。安達泰守の改革が否定された事などからは幕府内に根強い保守派がいた事も指摘される。最終的には西国や九州の人々だけでなく東国の御家人の支持も失ってしまった。

それが壊滅を生んだと云える。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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