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【日本史7】鎌倉史備忘録5

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①前天皇が院政を行った時代では
天皇家内部と摂関家内部で対立が目立った。

②白河法皇は成長した鳥羽天皇と対立した。
白河法皇の死後に法皇となった鳥羽法皇は崇徳天皇と対立した。

③藤原忠通と頼長兄弟が対立し父である忠実は氏長者の地位を忠通から奪って頼長に与えるなどして抗争が激化した。

④鳥羽天皇・後白河法皇と崇徳上皇の衝突のきっかけは
若くして亡くなった近衛天皇の後継者問題だった。

⑤崇徳上皇は息子の重仁(しげひと)親王の即位、自らの重祚を期待していたが、鳥羽法皇はそれを認めず後白河天皇の即位を決定した。鳥羽法皇・後白河天皇側には平清盛や源義朝らが結集した。

後白河天皇は参謀に信西(藤原通憲)を起用し鳥羽・後白河陣営のサポートをした。崇徳上皇側は頼長が義朝の父である源為義や清盛の叔父である平忠正らを結集させた。

⑥1156年(保元元年)に鳥羽法皇の死をきっかけに後白河天皇と崇徳上皇の間で合戦が開始されたが後白河天皇が勝利した。これが保元の乱である。摂関家と天皇家の権威衰退が進行していった。

⑧鳥羽院の院近臣である信西が政治的に影響力を持つようになるが他の院近臣たちの不満は高まっていった。藤原忠隆の息子・藤原信頼がその顕著な例である。

⑨保元の乱の後は、平清盛と源義朝は武家の棟梁として貴族社会で地位を得たが義朝は清盛と対立するようになった。また反信西連合(義朝・信頼)を生み出していく。

⑩後白河院政の開始から朝廷内は藤原信頼・義朝と信西・平清盛の2派へと分裂していった。

⑪1159年(平治元年)に清盛が熊野詣(和歌山県)へ出かけた隙をついて反信西派は挙兵をして後白河上皇の御所である三条殿を襲撃した。上皇とその周囲の人々を幽閉した。信西は山城国田原(京都府宇治田原町)で発見され倒された。これが平治の乱である。

⑫清盛は熊野詣からの帰路で豪族たちの加勢を得ることで戦闘体制を整えた。義朝の軍事基盤は東国であって京都近郊にはほぼ家臣がいなかった。中立だった内大臣・藤原公教が武力による信西の討伐・信頼の専横に反発した。

⑬清盛と公教は協力し上皇・天皇を奪還し義朝らを賊軍とした。義朝軍は孤立し六波羅(京都市東山区)へ向かう途中で大敗した。

⑭義朝の息子たちの末路は散々であった。そのなかで頼朝だけが生き残る。清盛は頼朝を殺さず伊豆(静岡県)へ流罪とした。理由は不明だが一族がほぼ壊滅した頼朝が脅威になる事はないと判断した可能性が高い事などを学びました。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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