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生活の拠点を移すということ

 仕事の都合で、今住んでいる持ち家はそのままにして、生活拠点を移すことになった。この家に住んでから十数年、モンゴルから帰国してから二十数年、二年間ほど北関東にいた時以外は、基本的に地元に住んでいた。
 物が増えすぎてしまい、もう引っ越しはしたくないということと、周囲に家がすくないところなので、好きな音楽を大きな音で聴いていても近所迷惑にならない。また山間なので冬は雪が多くて大変だが、暑がり汗かき体質のわたしにとって、真夏でも夜はほとんどエアコンをつけずに寝られる環境がとても合っていた。
 しかし、冬の除雪作業に費やす時間を考えると、この先、独身の一人暮らしの身では、遅かれ早かれ限界が来るだろうと考えていた。
 特に、父親が亡くなって、母親が兄の家族とともに暮らすようになって、実家も取り壊してしまったら、わたしが地元にいる意味もだんだん薄れてくるように感じていた。

 そうは言っても地元は地元で、離れるからにはそれなりに理由が必要になるという考え方もあるだろう。生活の基盤を作る収入を得る手段が地元にあるのなら、それも自然な考え方かもしれない。
 しかし、わたしは電気系エンジニアで、その仕事でいわゆる定年後の年齢でもそれまでと同様の収入を確保する仕事を見つけることは、地元では不可能だった。それは、個人事業主ないしは起業したとしても、状況は変わらない。
 であれば、首都圏やその近郊に拠点を移すタイミングは、今を逃すとこの先厳しくなるだろうと考えた。

 結果的には、年齢に関係なく待遇が固定の契約社員の仕事を、首都圏で得ることができた。それに合わせてとりあえず拠点を移し、この持ち家に関しては将来的に手放す方向で、今動いている。今回は、とりあえず必要な物だけ持って行き、時々こちらに戻って不要なものを断捨離して行くつもりである。
 家具家電付き賃貸が2年契約なので、契約更新のタイミングで、断捨離も終えて今回移せないものも含めた移動もできるようにしたい、というのが長期的な展望だ。
 ただ、次の引っ越しが終の棲家というか最後の拠点になるかどうかはわからない。買った家が終の棲家にならない可能性が高い状況が発生したことを考えると、必要に応じて拠点を移せる身軽さが必要ではないか、という思いもある。

 固定した拠点から移れない、移る訳にはいかないという人も多いだろう。当然ながら、そういう人の生き方を否定するものでは、全くない。必要に応じて拠点を移せる身軽さが必要だと思うのは、わたし自身の能力や性格面から考えた暫定的な結論である。またこの先、状況が変わればもう拠点を移さないということも起こりうるし、逆にもっと大規模な移動が発生するかもしれない。その可能性を否定してしまわない柔軟性があった方がいいだろうというのは、自分の生き方に関する自分自身の答えに過ぎない。

 モンゴルにいた3年間で、田舎で暮らす牧民の生活を見る機会が多くあった。彼らは最低限、夏と冬でゲルの場所を大きく変えている。場合によっては、夏のゲルと冬のゲルの間の移動距離が100キロ単位になることもあるらしい。そのため、移動に邪魔になるような大きな装飾物や家財などはほとんど持たない。
 牧民の豊かさの証は家畜の多さであり、家畜が多いということは、牧畜の能力によるものなので、それが豊かさの証だ。

 モンゴルの牧畜民は、夏冬のゲルの移動に加えて、「オトル」というゲルを移動せずに家畜とともに数日とか数週間の単位で移動するという習慣がある。その時の気候により草の生育や水場の状況が変わるため、居場所を固定することを目的・目標にすることはない。内モンゴルでは国家主導の定住化政策が進んだが、モンゴル国においては定住化政策は採られていない。家を固定化した定住化を進めても、家畜を育てるための移動を避けることはできないのだ。

「ノマド・ワーク」などと言うことがもてはやされたりする。パソコン1台あればどこにいても仕事ができるから、常に遊牧民のように移動しながら仕事をすることを指している。そして、ノマド・ワークができる人は、極めて限定的な職業・立場の人に限られている。インターネットと接続されたパソコン1台で全ての仕事が完結する人でなければ無理な仕事だ。さらに言えば、「ノマド・ワーク」も仕事の必要に迫られて移動しているとも限らない。
 そのため、わたし自身はノマド・ワーカーにはなれないし、ノマド・ワーカーになることが良いことだとはあまり思わない。

 わたしが考えているのは、仕事の必要に迫られれば、拠点を移すことも積極的に考えるという、どちらかというとモンゴルの牧民の生き方に近いのではないかと勝手に思っている。
 仕事を得るチャンスを逃すくらいなら、自分の拠点を移すことを厭わない、という方向性を考えている。
 そして必要に応じて拠点を移動できる体勢にしておくためには、身辺を身軽にしておく必要性がある、という話に繋がる。

 幸いにして、音楽や映画などのコンテンツは、サブスクという「持たない」消費が可能になっている。
 同様に、書籍に関しても電子書籍を利用することは、移動時の負担を減らせるようになる。ただし、全てを電子書籍に置き換えることは、わたしの場合は困難であり、電子と物理メディアの併用になるだろう。技術の進歩がライフスタイルによい変化をもたらしているといえる。

 とはいえ、ミニマリストやシンプルライフを目指すものでものない。ミニマリストであることはあくまで手段であるべきで、目標としてしまうのはわたしが目指すべきところではない。生活にはそれなりに「遊び」が必要であり、ストイックにものを減らしてしまうことはどこかに無理が生じてしまうように思える。
 わたしの場合に関して言えば、物理メディアとして紙の書籍を持つことがそれにあたる。紙の書籍なら著者にサインを貰うこともできる。またその書籍が手元に常にあることがもたらす「何か」が確実にあると思う。
 同様に、サブスクで音楽や映像の全てを網羅できない以上、物理メディアを持つことも否定しない。サブスクでは利用できないコンテンツも多くあるのも現実であり、その状況はこの先も大きく変わらないだろう。
 ただ、モンゴルの遊牧民の生活から何かを学んだつもりになっていたが、帰国して以降、徐々に何かを忘れていって、だんだん身軽さを失ってしまっていたことに気づいた。気づいたのなら、行動に移すしかない。

 日本からモンゴルへ、モンゴルから日本へ、という大きな移動をした時以来の大きな移動である。モンゴルに拠点を移したことと比較すれば移動距離は小さいが、それでも移動することによって得るものは多くあるはずだ。
 人生とはすなわち旅である。

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