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「書体とは〇〇である」って、言えない

「書体とは声である」

太いゴシック体が与える印象を〈重厚〉〈大声〉〈力強い〉などと説明されて大多数の人が共感できるのは、文字のデザインに関心がなくとも、無数に存在する書体それぞれの特徴を手がかりに声色を想像できる感受性を、誰しも持ち合わせているからだ。

「書体とは声である」という言葉は、書体デザイナーやグラフィックデザイナーが、一般の方に書体の存在意義を伝える際の常套句だ。映画監督が作品に合った俳優をキャスティングするように、書体もテキストの内容にあわせて使い分けるべき、というような意味を含んでいる。

怒鳴るテロップ

昨年のM-1グランプリで準優勝に輝いたお笑いユニット、おいでやすこがのおいでやす小田さん(以下、小田)は、全ボケ芸人がいま最もツッコまれたいツッコミ芸人である。と、どこかで聞いた。喉が心配になる程の怒声は、世の状況も相まって、聞いていてスカッとする。テレビ番組やYoutubeの動画で共演するボケ芸人は、それを引き出すために小田に向かってひたすらにボケを投じる。

2020年2月現在チャンネル登録者数220万人を誇る人気Youtuber、カジサックの動画に小田がゲスト出演している。この動画では演者の発言はロゴGで組まれるが、小田のツッコミだけ851チカラヅヨクになっている。それだけでも他と十分に差別化され、強調されているが、さらに文字を小刻みに振動させることで、テロップが怒鳴る。

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出典:【神回】M-1準優勝 おいでやす小田さんにボケ続けたら神回になりました  https://www.youtube.com/watch?v=KQ1TSChDqIs

この他にも小田の出演する番組を何本か確認したが、どの番組も小田のツッコミをテロップとして仕上げるための工夫を惜しまない。いくつか例を挙げてみる。

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色やエフェクトによる濃い味付けで文字本来の形が見えにくくなっているが、京円は線が細く軽快なタッチの毛筆書体なので、怒鳴っている感じはそんなにしない。

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DC籠文字は江戸時代の職人による洗練された手描き文字を元にした書体。千社札や提灯に使われる、声というよりは顔としての文字。

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バサころはキツめのツッコミを適度に中和して、愛嬌を持たせている。筆の掠れが叫び声の掠れと重なる。文字の色が黒ではなく、墨のようなテクスチャになっているというこだわりよう。

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コミックレゲエ、Popフューリはいずれもトゲトゲしい形をしていて、まさにツッコミという感じ。Popフューリには筆のニュアンスがあり、ややマイルド。

他の発言と書体を変え、色を変え、エフェクトをかけてまでツッコミのテロップを作り込むのは、話者の声色を文字のデザインによって正確に表現するためだ。手間暇かけて作られた文字は見ていて飽きないけれど、そもそも声と表情と動きと間で完璧に演出されたお笑いに、音声の再現としての文字が入り込む余地はあるのだろうか。

漫画タイポグラフィの観察

そういった意味では漫画には音だけがないから、キャラクターの声色を書体によって再現しようとする試みは真っ当といえる。アニメーションにおいては声優がキャラクターに命を吹き込むというけれど、書体にもそれに近いことができるかもしれない。

日本の漫画において、ふきだしの中のテキストは基本的にゴシック体の漢字とアンチック体の仮名を組み合わせた「アンチゴチ」で組まれる。絵本の本文や辞書の見出しでも使われるアンチック体は、明朝体の柔らかい骨格を持ちながら線の抑揚が乏しく、太いウエイトのものはゴシック体に劣らない強さをもつ。

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出典:鳥山明『ドラゴンボール』

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モリサワのアンチックと、骨格の近い明朝体を比較。アンチックは線の抑揚が乏しい。そのため、小サイズでも線がつぶれない。

この特徴的な組み合わせが漫画の組版に定着した理由は不明だが、『アイデア』2011年9月号に掲載された記事「祖父江慎デザイン放談:アンチゴチのむこうに」では、アンチゴチが生まれた経緯が以下のように推測されている。

●大正・昭和初期の子供向け絵本や雑誌において、絵の上にノセて印刷される文字が細く弱々しいと、印刷の粗さもあいまって可読性に難があったのではないか。●そのため仮名書き主体の幼年向け媒体でまずアンチック体が採用され(基本的に、アンチック体には漢字がない)、後からその強さに合うゴシック体の漢字を組み合わせたのではないか。

漫画の紙面は書体のるつぼである。ピッコロ大魔王は淡古印で怪しい呪文を唱える。浦飯幽助は大蘭明朝体で殺気を露わにする。岸辺露伴はゴナで敵の提案を断る。吹き出しの基本となるアンチゴチが声色のニュアンスをもたないからこそ、物語の印象的な場面でこれらの書体が読者に響く。

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不気味演出の定番。出典:鳥山明『ドラゴンボール』

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声に出さない強い殺気。出典:冨樫義博『幽☆遊☆白書』

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絶体絶命の場面でも折れない負けん気。出典:荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』

書体に注目しながらジャンプ漫画を観察すると、書体の選択がある程度パターン化されていることがわかる。大きな野太い声で、強い意志をもって主張する台詞はゴナ。静かでありながら力強く、感情を露わにして語りかける台詞は大蘭明朝体。呪文やモンスターの声など不気味な台詞は淡古印(※1)。他にも心中台詞で使われるナール、おどけた感じの台詞で使われるゴカール、ツッコミの台詞で使われるイナブラシュなど挙げるとキリがないが、これらの書体で組まれたテキストを読んだ時、私たちの脳内にはおそらくジャンプ編集部の意図通りの声が再生される。冒頭で述べた書体に声色を見いだす感受性は、漫画によって培われたのではないか。

(※1)『ハンターハンター』に登場する念能力者アベンガネや『地獄先生ぬ〜べ〜』の主人公、鵺野鳴介が唱える呪文は曽蘭隷書体。呪文がすべて淡印体というわけでもない。厳格なルールが設定されているのではなく、状況に応じて柔軟に書体を選択しているようだ。

なお、例に挙げた書体はすべて写研のもので、デジタルフォント化されていない。現在のジャンプではゴナを新ゴに、大蘭明朝体をマティスに、淡古印を万葉古印ラージに、というように現在使用できるデジタルフォントに置き換えて漫画の紙面を作っている……のだが、モリサワの発表によると、2024年より写研の書体をデジタルフォントとして順次リリースするとのこと。一部のグラフィックデザイナーが歓喜したこのニュースを、漫画編集者はどう見ているのだろう。

「書体はレンガである」

映像や漫画とは異なり文字を中心に構成される書籍の本文中において、書体の使い分けはどのような効果をもたらすのだろうか。

第164回芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』の本文書体は筑紫明朝だが、作中で4度挿入される主人公「あかり」のブログ記事は例外で、ヒラギノ角ゴになっている。筑紫明朝とヒラギノ角ゴという全く異なる性質を持った2つの書体によるコントラストがブログを浮き立たせ、本書の構造を可視化している。

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ヒラギノ角ゴはiOSの標準フォントでもあるため、実際に携帯でブログを読んでいるような生々しさがある。出典:宇佐美りん『推し・燃ゆ』

以前、京極夏彦さんの組版について書いた記事(※2)で紹介した『豆腐小僧双六道中ふりだし』の本文書体は、最初から最後まで一貫してヒラギノ明朝体+游築五号かなの合成フォントである。随所に会話文が散りばめられているが、話者の感情に沿って書体を変えるようなことはしない。もちろんサイズも一定。物語のテンションに左右されずに、本文書体は(著者自身による読みやすい組版のための文章の調整もあり)淡々と並ぶのみである。

(※2)「タイピングからタイポグラフィへ」https://note.com/tsugumiarai/n/n596d9cc36f40

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見出しは游築見出し明朝体。本文とサイズを変え、書体にも変化をつけることで上下関係を可視化している。游築五号かなは活版印刷において本文用として使われていた五号活字を、游築見出し明朝体は同じく見出し用として使われていた36ポイント活字をベースにデザインされたもの。金属活字系の書体でまとめることで、作品の時代設定に合った古風な雰囲気を演出している。出典:京極夏彦『豆腐小僧双六道中ふりだし』

UniversやAvenirなど数多くの欧文書体をデザインしたアドリアン・フルティガーは、書体を使ってデザインに取り組むグラフィックデザイナーが建築家だとしたら、書体デザイナーはレンガ職人だという。書体を最小の構成要素として紙面を組み立てる書籍のデザインにおいては、たしかに書体はレンガのようである。テキストはそれ自体が構造を持つが、グラフィックデザイナーは書体を使い分けることで構造を可視化する。

透明な書体

ヒラギノや游ゴシック、游明朝のデザインで知られる書体設計士の鳥海修さんは「水のような、空気のような」書体づくりを目指しているという。水や空気は透明で、言葉に色をつけない。匂いも音も手触りも加えない。言葉はそれ自体が受け手の五感に訴える力を持っているのだから、書体はただ正確に言葉を表記すればよい。というのは、拡大解釈だろうか。

カネコアヤノの楽曲『爛漫』の、〈お前は知るのか 季節の終わりに散る椿の美しさを 身体が火照るような赤、赤、赤い色 ぼくの心の様〉という歌詞が好き。この言葉に触れるたび、これまでに見たことのないような、圧倒的に美しい赤い色で満たされた景色を想像する。この感動を人に伝えたいので、例えば椿の花のフォルムから着想を得た書体を自作して、この詞を組んでみる。色のイメージを正確に伝えたいから、その書体をC10/M95/Y85の赤色にする。……たぶん、受け手の想像力は閉ざされる。

言葉にできない絵があるように、絵にできない言葉もある。そんな言葉を一点の曇りもなく伝えたいのだけど、言葉は、音声か活字にしなければ他者に伝わらないのが悩ましい。書体はどうしても言葉に色をつけてしまうから、混じり気のないピュアな言葉は、私たちの頭の中で浮遊している言葉だけである。

「書体とは〇〇である」

さまざまなメディアで書体が果たす役割を見てきたが、「声である」という説明では、書体の持つ多面的な性質を言い表せていないように思う。「レンガである」は書籍においてはそうだけど、お笑い番組の画面は文字によって組み立てられてはいない。「水や空気」からはかけ離れた書体が漫画の紙面を彩っている。考えれば考えるほど「書体とは〇〇である」って、言えない。

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