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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 34

「あんたが急にNG出すなんて、垢舐めちゃんと、一体なんかあったわけ?」

 深夜、本日の勤務を終え、タイムカードを押そうと、同じマンションの別の階にある事務所に寄ると、ちょうどパソコンの前で、女の子の出勤状況を更新していたらしい店長が、帰ろうとするわたしに引き止め、そう訊いてくる。

 とつぜん話しかけられ、「へ?」と、振り返ると、心配してくれているのか、ただの興味本位なのか、さっきまでパソコンの画面に向けていた顔を、こちらに向け、悪い女の顔をしていた。

「あー、えーと。まぁ、いろいろとありまして……」

 垢舐めの名誉のために、言葉を濁したつもりが、それが不服だったようで、

「なによ。いろいろとってぇ……」と、舌打ち混じりに、露骨に嫌な顔をする。

「あんたまでNGにするもんだから、うちの店で垢舐めちゃんが呼べる娘、ほんとに居なくなっちゃったじゃない! その上、『ななこちゃんの予定、まだ空いてますか?』って、ほぼ、毎日のようにかかって来てるんだから! 断るこっちの身が持たないわよ……。毎回毎回、体調不良を言い訳に断るわけにもいかないし……」

 ほんとにうんざりしているようで、自分の携帯に残っている垢舐めからの着信履歴を、「ほら、これ見てよぉ〜……」と、これ見よがしに見せつけてくる。

「あ〜……」

 なんと言っていいの判らず、てきとうに相づちを打っていると、それに勘づいた店長が、

「『あ〜……』とはなによ! 『あ〜……』とは! あんたねぇ〜、他人事だと思ってるでしょ!」と、口角に泡を飛ばして、突っかかってくる。

「ちょっ、ちょっと……! 店長っ! ツっ! 唾が飛んでますって!」

「唾くらいなによっ!」

「ちょ、汚いですって!」

 憤慨する店長に抗議すると、逆ギレした店長が、

「きっ……、汚いとはなによ! あんたの唾も大して変わらないじゃない!」と、罵声を発しながら、口に含んだ唾を、大袈裟に吹きかけてくる。

「こ、これでも喰らえ!」

「ちょ、汚っ……、や、やめてくださいよっ……!」

 子供染みた彼(彼女?)の行動に、全力でからだを仰け反らせ、ドン引きする。それを見た店長が、逃げるわたしに腹を立て、追い打ちをかけるように、毒霧攻撃を仕かけてくる。

「逃げるんじゃないわよ! ブーーーーっ! ブっ、ブーーーっ!」

「きゃーーー!」

 深夜の中州のマンションの一室で、何をやっているのか、気がつくと、店長とふたり、狭い事務所のなかを、応接用のガラステーブルを挟んで、はしゃぎながら走り回っていた。

 逃げ惑いながら、ふと考えた。文句を言いながらも、わたしたちのことを、ちゃんと守ってくれている店長に、軽蔑と尊敬の念を込めて、

「いつも、ありがとう。店長……」

 と、心のなかで、そっと呟いた。

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