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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 37

 ワンピースの裾から飛び出した素足を、波打ち際の海面に足先だけつける。思ったよりも海水は温かく、秋口の潮風で冷たくなった足を、ほんのりと温めてくれる。

「意外と、温ったかいですよ!」

 その光景を後ろで見守る彼に、ふり返りながら伝える。

「へー、そうなんだ……」

 そう言って、徐に革靴を脱ぎ始めた彼が、ズボンの裾をたくし上げる。さざ波の打ち寄せる砂浜に、彼が片足をつけると、その部分だけが彼の重みで沈み込み、遠浅の砂浜に、くっきりと彼の足跡だけが刻まれる。粒子の細かい砂だけに、一度固まるとなかなか形が崩れず、次の波が来るまでのあいだ、足の形がそのままになっている。

「そー言えば、マサキさんって、全然、方言とか出ませんよね? いったい、どこの人なんですか?」

 これまで何度も会っているのに、訊いたことがなかったことに気がつき、それとなく尋ねてみる。

「あ、おれ?」

 自分のことを指差し、彼がそう訊いてくる。

 何も言わずに頷き、彼の返事を待った。

「あー、おれのウチ、転勤族でさぁ〜。あっちこち行ってたから、どこの土地の人なのかって聞かれると、スゲー答えるのに困るんだよね。おれ自身、あまりよく分かってないからなぁ〜……」

 ひとまず彼がそう答え、自分の足元に居た小さなカニに気づき、「あ、カニ……」と、その場に屈み込んで捕まえる。

「ほら、ななこちゃん。カニ!」

 と、自分の捕まえたカニを自慢するように、彼が見せびらかし、

「あ、ほんとだ〜!」

 と、彼の掲げるカニに近づき、わたしが驚く。

「こんなとこにも、カニっているんですね?」

 マサキさんの手のなかで、カニが藻搔きながら、必死に抜け出そうとしている。だんだんとそれがかわいそうに思え、

「そろそろ、逃して上げましょうか?」と提案すると、彼もそれに同調し、

「ああ、なんか、かわいそうになってきたね……」と、波の引いた濡れた砂浜に、カニを逃す。

 一目散に逃げていくカニを目で追いかけながら、「早っ!」と、思わずふたり声を揃える。

「すごい! カニ歩きで逃げて行きましたよ!」

 逃げるカニを指差し、わたしが当たり前のことを言って笑う。

 その声に、「あ、ほんとだ!」と、彼も同じように、逃げるカニを指差して相づちを打つ。

「ああ、もう見えなくなっちゃいましたね……」

 その行方を目で追いながら、寂しさそうにわたしが声を漏らすと、その呟きに共感するように、「ほんとだね……」と彼が頷く。

「ななこちゃん……」

 思いがけず、そう呼ばれ、「へ?」と、こちらがきょとんとしていると、

「おれ、出身だけだったら〝長崎〟だよ……」

 と、思い出したようにマサキさんが、さっきの質問に答える。

 あまりに唐突すぎて、一瞬、こちらがなんて返事をしていいのか判らず、黙り込んでいると、とつぜん遠くの浜辺で、サックスを吹く音が、風に乗って聴こえてくる。

 そのメロディにしばらく耳を傾けていると、マサキさんが、不意に、「あ、フランク・チャーチルの『Some Day My Prince Will Come』だ!」と声を上げる。

「え? なんですか?」

 よく聞き取れず、そう訊き返すと、

「あ、いや、ほら、映画白雪姫の挿入歌になってる曲で、邦題が、えーっと、なんだっけ?あ、『いつか王子様が』!」と、説明してくれる。

「ああ、なんか聴いたことあるような……」

 曲だけは聴き覚えがあったので、そう曖昧に知ったかぶりをしつつ、「キレイな曲ですね……」と、つけ加えると、横でその音色に聴き入っていた彼が、「ああ、名曲だね……」と目を閉じながら共感する。

 そのサックスの音色のするほうへ視線を向けると、一人の女の子が砂浜に設営された茅葺き屋根のテントの下で、サックスを吹いているのが見え、

「あ、マサキさん! ほら、あそこからですよ!」

 と、彼女のほうを指差し、彼に報告する。

「あ、ほんとだ。あんな若いのに、すごい上手だね……」

 遠くからでも、そんなことまで判るのか、彼がそう感心しするように呟き、「行ってみようか?」と、唐突にわたしを誘う。思いがけないマサキさんからの提案に、

「え? 行くんですか?」と、躊躇いながら二の足を踏んでいると、すでに先に走り出していた彼が、「ほら! ななこちゃんも! 早くぅ!」と、ふり返ってわたしを呼ぶ。

「いやいや! きっと迷惑ですって……!」

 彼を呼び止めようと、とっさに彼に背中に叫ぶが、すでに数十メートル離れてしまっているせいで、その声が虚しく波音に掻き消させる。

 仕方なくトボトボと歩き出すわたしを、マサキさんが、「早くおいでよ!」とでも言うように、何度もこちらをふり返りながら、嬉しそうに手招きする。

 そのあまりに無邪気な表情に、「まったく、仕方ないなぁ〜……」と、わたしは呆れながら、渋々、彼のあとを追いかける。

 完全に夕陽の沈んだ空には、ほんのりと光を帯びた、白く霞んだ半円の月が浮かんでいた。

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