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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 42

「どうした? 芳枝から電話してくるなんて、珍しいやないや……」

 生休で帰って以来、ほんの数日会ってないだけなのに、父の声がえらく懐かしく感じられた。

「あ、あのね……」

「な、なんや。急に畏まって……」

 わたしの緊張感が伝わったのか、いつもと違う娘の様子につられ、父が電話の向こうで、戸惑っているのが、こちらまで伝わってきた。

「わ、わたしね……」

 父が無言のまま頷いているのが、見えなくてもなんとなく伝わった。それは、なかなか本題を切り出さないわたしの次の言葉を待っているようでもあり、娘からの思わぬ告白に備え、心の準備をしているようにも思えた。

「わたし、パティシエになるから……」

「……」

 わたしのとつぜんの告白というには、あまりに身勝手な、ただの宣言に、父が思わず言葉を失う。父は否定も肯定もせず、ただ黙ったまま、わたしの話を聴いていた。

「それで今はね。高校の卒業資格を取得するために、まずは高校認定試験に向けて勉強してるの……」

 勝手に話すわたしの言葉が、自分の耳元に遅れて届く。

「それが十一月に試験で、それが終わったら、東京のパティシエの専門学校に通おうと思ってる……」

「……」

 これまで親の期待や世間体ばかりを気にして、何一つ自分の意思で決めて来なかった想いが、溢れ出るようだった。

「それでね……」

 静まり返った室内に、「それでね……」と口にしたわたしの声だけが反響する。

 ふだんは寄りつきもしないくせに、こんなときだけ、エサを強請って、サワコがわたしの足首に、からだを擦りつけてくる。

「ちょ、ちょっと、もう、後にしてって!」とサワコを足で押し退け、「あ、ご、ゴメン。な、なんでもない……」と、慌てて訂正した。

 が、まだ気になるらしく、「なんや? ど、どうかしたとや?」と、父がしつこく尋ねてくる。

「いや、違くて……。猫が足に……」と短く説明し、

「それでね……」と、脱線しかけた話を、改めて本題に戻した。

「お、おお……」

 すでにわたしが何を言おうとしているのか伝わったらしく、父はそれだけ言うと場所を移しているのか、「ちょ、ちょっと待って……」と言い残し、背後に雑音のしない場所へと移動すると、「い、いいぞ……」と、合図を送る。

 逆に言い出しづらくなり、「え、えっと、どこまで言ったっけ……?」と、自分の言おうとしたことを見失う。

「東京の専門学校がどうとかって……」

 父にそのヒントを頼りに、「ああ、そうそう」と思い出し、

「それでね……。わ、わたし……」と、改めて切り出した。勿体ぶるようなわたしの口調に、父はただ、「うん……」と頷いた。無言で次の言葉を待っていた。

「わ、わたしね……。い、今……、デ、デリヘルで働いてるの……」

 慎重に言葉を選びながら話した。父はやはり何も言わずに聴いていたが、その無言が、はたして怒っている無言なのか、驚いている無言なのか、まったく判らなかった。表情の見えない父の顔を想像しながら、気がつくと夢中で話していた。

「お金が必要だったの……。親を頼ったり、誰かに甘えたりするんじゃなくて、自分の意思で決めたことだから、自分の力だけでなんとかしたいって、初めて思えたの……。でも、昼の仕事だけじゃ、今の生活をしていくのが精一杯だったし、なにか特別な資格があるわけでもなかったから、この仕事しかないって、そう思った……。来年には専門学校に行くお金と引越し資金が貯まるから、そしたらこの仕事から、キレイさっぱり足を洗おうと思ってる。『こんな仕事して、親戚になんて説明すればいいとや!』とか、『世間に顔向けできんめーが!』とか、色々思うことはあるとは思うけど、今はまだ待ってほしいの……。この仕事をすることに、後ろめたい気持ちがないって言うと嘘になるけど、今のわたしには、どうしても必要なことなの……。だから、少しだけ待ってほしい……。お金が貯まったら、必ず辞めるから!」

 そう一息で告げた。

 父は咎めるわけでもなく、同意するわけでもなく、ただ、「そうか……」とだけ口にした。

 その言い方に棘はなく、どこか娘の口から直接真実を聞けたことに対する安心感から出た、そんな口ぶりだった。

「母さんは知っとーとや?」

「うん……」

 問われた質問に、なんの脚色もせず、「知ってる」と正直に伝えた。

「芽衣子は?」

 同じように、「知ってる」と、即答した。

「そうや……」

 たとえ薄々勘づいていたとしても、自分にだけ話してくれていなかったことに対するショックからか、父が悲しそうにそう声を漏らし、まるでなにか考え事でもするように、電話の向こうで沈黙する。

「ご、ごめん……」

 沈黙に堪えられず、思わず謝ると、「なんで、お前が謝るとや……」と、とつぜん父の口調が変わる。

「ご、ごめんな……。正直、とつぜんのことで、今、お前になんて言葉をかけたらいいのか、おれもよう分からん……。母さんからなんも聞いとらんかったし、お前の仕事のこととか、将来のこととか、いっちょん話題に出らんかったけん、触れちゃいけんことなんやろうと勝手に思っとって、おれからも敢えて話題には出さんかった……。ああ、そうやったんか……。ああ、そういうことか……。ずっとモヤモヤしとったもんが、ようやく腑に落ちたわ……。今まで気づいてやれんで、ごめんな……。お前が一人で、そんな想いをしとったとはなぁ……」

 ため息混じりに、そこまで言い終えた父が、「ほんと、申し訳ない……」と、娘のわたしに対し、躊躇うことなく頭を下げる。

 このことに関して、父の落ち度は、まったくと言っていいほどない。どちらかと言えば、そこまで真剣に思ってくれる父のことを、最初に信用せず、家族のなかで一人だけ話していなかったわたしのほうに、落ち度があるはずなのに、父はそんなことは一切気にせず、「申し訳ない……」と、自分のほうから謝ってくれた。

 てっきり怒られるとばかり思い、これまでひた隠しにしていた自分に腹が立つと同時に、そんな父の優しさに胸が痛んだ。

 謝りたいのはわたしだった……。

「それで、母さんは、なんか言いようとや?」

 父にそう問われ、「うん……。早く辞めろって……」と、正直に話し、「父さんに黙っとくのが辛いって……。話す気がないなら、早く、まともな仕事に就けって……」と、つけ足した。

「まあ、そうなるやろうな……」

 父は当然のように納得したが、すぐに、「ただ、お前の人生やろう……」とも訂正した。

「おれは直接、そのことについて、母さんと話したことはないけん、母さんがほんとのところ、どう思っとうか知らん。けどな……、お前の人生なんやけんな。〝自分で責任持つ〟って決めたんやったら、母さんや他の人がなんて言おうと、お前が一番納得するように生きていいとぞ! そりゃ遊ぶ金ほしくて、そういう仕事をしようって言うんやったなら、おれだって黙っちゃおらんけど、そういうわけじゃないっちゃろ?」

 ちゃんとわたしの話を聴いてくれ、理解をしてくれたことが嬉しくて、今にも涙が溢れそうになった。

「うん……」と鼻声で頷くわたしに、

「それやったらいいやないや。お前のいいようにしたらいいとぞ! おれはお前が笑顔でおってくれたほうが、何倍も嬉しいし、お前が後悔せん人生を送ってほしいって、いつも願っとう! いいや? お前はおれの自慢の娘やけんな!」

 と、父がエールを送る。

 いつもは母の尻に敷かれているとばかり思っていた父が、今日だけはすごくカッコ良く思えた。返事をしたかったけど、声を出すと、ほんとに泣いてしまいそうで、父が話すのを、ただ黙って聴いていた。

「ただな……」

 そう諭すように、電話口で語りかける父の声が、ワントーン低くなる。

「もし、もしぞ……。もし、ほんとにお前が辛くなったら、東京だろうが、ヨーロッパだろうが、ニューヨークだろうが、どこに居っても構わんけん、ちゃんと戻ってこい……。意地とか張るな! いつでもお前が戻る場所は、おれが用意しとくけん!」

 涙を堪えるので精一杯で、何も言えなかった……。

 ずっと一人だと思っていて、周りからは出来のいい妹とばかり比べられ、それが嫌で高校も中退し、それから逃げたくて家を飛び出し、一人で生きていくために仕方なく風俗の世界に飛び込んだ。それを周りに知られたくなくて、高校を中退してからの数年間、なるだけ昔の知り合いや親戚に会わないように、人目を避けて生きてきた……。なのに、こんな近くに自分の味方がいたなんて……。

 そのことが、何より嬉しかった。

「お、お父さ……、ん……。う、うぅ……」

 口にすると泣き崩れる気がして、『ありがとう』まで言えなかった。

 ただ、そんなことは言わなくても、とっくに伝わっていたみたいで、

「うん。も、もうよか……。芳枝……。今まで一人で辛かったな……。父さん、そうゆうの疎くてな。なかなか気づいてやれんで、ごめんな……。勇気出して、話してくれて、ありがとな……」

 と、声を押し殺して泣くわたしに、ただ優しい言葉をかけてくれた。

 そのあと、何分間、自分が泣いていたのか。ただ、ひたすら泣きじゃくるわたしを、父は電話口で何度も頷きながら、わたしが泣き止むのを待ってくれていた。

 ありがとう。お父さん。

 ありがとう。いつもわたしの味方でいてくれて……。


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