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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 33

 この仕事に就いて、初めてズル休みというものをした。夕方、店長に電話をすると、「あら珍しいわね、あんたでも風邪引くのね」と、皮肉交じりにわたしの仮病を心配してくれていたが、生休を明けてからというもの、ずっと出突っ張りだったこともあり、「無理に働いてもらってたから、きっと疲れが出たんでしょうね。まぁ、いいわ。予約のお客さんには上手く言っておくから、ゆっくり休んで……」と、口では色々を言いながらも、結局は休むことを快く了承してくれた。

 一抹の罪悪感を感じながらも、マサキさんからのとつぜんの誘いに乗り、「一件だけ寄るところがあるから」と住吉通り沿いにある一階にテナントの入ったオフィスビルへと消えていった彼を、路肩に停車した車内で待った。

「すぐ戻るから、ちょっと待ってて……」と言い残したわりには、マサキさんはなかなか戻って来ず、路駐しているせいで、次々と後続車が車線変更し、わたしたちの車を追い越していく。そのうちクラクションでも鳴らされるんじゃないかと、マサキさんの消えて行ったエントランスを何度も確認し、ヒヤヒヤしながら待っていると、やっと用事を済ませたらしい彼が申し訳なさそうに、顔の前でゴメンのポーズを作り戻ってくる。

 よほど慌てていたのだろう、禄に後方を確認せずに、彼が車道に飛び出しすものだから、後ろから来ていたタクシーが、車道に飛び出す彼に驚き、慌てて急ブレーキをかける。そのとき鳴らしたクラクションの大きさに、付近を歩いていた通行人が、一斉にこちらを振り返る。

「コラー! どこ見て歩きよぉーとや! 危なかろぉが〜!」

 助手席の窓まで開け、罵声を浴びせる運転手に、彼が面目無さそうに、平謝りを繰り返す。そんな彼の姿に、まだ怒りが収まらないらしく、呆れた様子の運転手が、睨み効かせながら走り去っていく。

「いやー、あ、危なかったよ……」

 まだ興奮が冷めきれないらしく、車に乗り込むなり、彼がそう声を漏らす。

「だ、大丈夫ですか?」

「あ、あぁ……、俺がちゃんと後方確認しなかったから……。いや、でもびっくりしたぁ……。てか、ごめん。待ったでしょ?」

「いや、だ、大丈夫です」

「思ったより、立ち話が長引いちゃって、話の切り上げどころがなくてさ〜。いやぁ〜、参ったよぉ〜……」

 シートの後ろにハマり込んでしまったシートベルトが、なかなか掴めないらしく、マサキさんが座席の後ろを、大袈裟に身を乗り出して覗き込む。

「そ、そうだったんですかぁ〜?」

「あ、てか、悪いね。今日、出勤だったんでしょ?」

 やっとシートベルトが掴めようで、マサキさんが座席に座り直しながら訊いてくる。

「あ、いや、まあ。結構自由な仕事なので、その点は、大体体調を崩したって言えば、案外なんとかなるんですよ……」

 まあ実際そうなのだが、実は予約が入っていたことは、マサキさんに心配させないように、敢えて伏せておくことにした。

「あ、そうなんだ」

 改めて、シートベルトを締め直すと、彼がハンドルの脇にあるイグニッションスイッチを押す。「ピッ」という始動音とともに、プリウスのエンジンがかかり、中央にあるデジタルのメーターに、車体の全体像を示すロゴが表示される。

「え? これでエンジンがかかってるんですか?」

 あまりの静かさに、そう質問すると、

「え? あぁ……。これでしょ? そーなんだよ。おれも買った最初のころ、あまりに静かすぎるから、エンジンかかってるか判んなくて、何度もエンジンかけ直しちゃったもん……。これでエンジンかかってるんだから、逆におれみたくエンジン音バリバリの、低燃費が当たり前のころから車を乗り回してた世代からすると、こういう大人しすぎる車って、なんか調子狂うんだよな?」

 と、彼がシミジミと答える。

「あー。そーですね。わたしは車の免許持ったことがないので、〝調子が狂う〟かどうかまでは分かりませんが、確かに静かすぎて、変な感じがする気はしますね……」

「そーなんだよね……。最近買い換えたんだけど、〝コレ〟だけが、どうも慣れなくてさぁ〜」

 そう言いながら、中央の液晶に手を伸ばしたマサキさんが、「ラジオつけていい?」と、それとなく訊いてくる。

「あ、べつに構いませんけど……」

 前につけていたときに、大きな音で聴いていたようで、思いがけず車内に、男性DJの笑い声が大音量で響き渡る。

「あぁ! 悪りぃ悪りぃ〜」

 そう言って摘みを回し、マサキさんが慌ててラジオのボリュームを下げる。
〈ハハハ! え? あ、はい……。えー、次は、夕方のニュースです。報道の白石さ〜ん……。はい……、白石です。夕方、五時のニュースお送りします。福岡の大手ゼネコン会社の役員が、当初、自殺と報道されていましたが、調べを進めるにつれ、何者かに殺害されたのではないかという疑いが新たに浮かび上がっており、大河内氏の殺害に、福岡県議会の駒副宏県議会議員が、大河内氏から不正な金を受けとっていたことが、何らかの関係があるとみて、福岡県警の捜査本部も、引き続き、調べを進めていく方針を示しているとのことです。次のニュースです……。昨夜未明、東区箱崎にある建設中の工事現場で、強風で煽られた足場が崩れ……〉

「なんか、物騒な世の中になったよな?」

 カーラジオから流れてくる報道に、しばらく聞き耳を立てていたマサキさんが、おもむろに、そう口にする。

「あぁ、ほんとですね……」

 まさか、「この被害者の男性が、実は自分のお客さんなんです」と言うわけにもいかず、相手の話に合わせ、てきとうに相づちを打っておいた。

「人殺し人殺しって、簡単に報道してるけどさぁ〜、こうしてふつうに生活してるなかに、殺人鬼や、その予備軍が居るかと思うと、なんか、ぞっとしないか?」

 そう質問され、ふと殺された大河内さんのことが頭を過る。

 べつに彼が亡くなったからといって、悲しみに暮れて何も手につかなくなるなんてことはない。ただ、だからと言って、襟を正して喪に服すほどの義理もない。

 マサキさんに、「ぞっとしないか?」と問われ、ふと殺害された彼のことが、一つの記憶として頭を過っただけだ。そこに感情も同情もない。亡くなったという事実が、そこにあるだけで。


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