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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 38

「その曲って、フランク・チャーチルの『Some Day My Prince Will Come』だよね?」

 たった今、サックス演奏を終えたばかりの少女に、まるで親戚の子どもにでも、話しかけるような口調で、マサキさんが尋ねる。

「え? あ、はい。そ、そうですけど……」

 急に知らない人に声をかけられ、少女が反射的に身構える。

「いやいや、べつにぼくらは、怪しい者ではなくて……」

 その台詞がすでに怪しいのだが、マサキさんは、そう先回りしつつ、

「ほら、ちょっと二人で遊びに来てて……、たまたまサックスの音色が聴こえたから……。な?  ななこちゃん……?」

 と、場の空気に耐えられなくなり、早くもわたしに助けを求めてくる。

「え? あ、はい……。そ、そうですね。ちょ、ちょっと遊びに来て……。そ、それより、サックス上手ですね?」

 救難信号を出すマサキさんに見兼ね、わたしが助け舟を出すと、それに便乗したマサキさんが、「ああ、そーそー! す、すっごく良かったよ!」と、何度も大袈裟に合いの手を入れてくる。

「いつも、ここで、練習してるんですか?」

 戸惑う少女を気遣いそう質問したつもりだったが、すでに見知らぬ怪しい二人組の男女に、一方的に褒めシャワーを浴びせられたせいで、少女が萎縮し、小動物のように怯えてしまう。

「え? あ、えっと……、そ、そうですね……」

 大事そうに、サックスを胸に抱えたまま、少女がしどろもどろになりながら、わたしの質問に答える。

「い、家だとうるさいので、そ、それで……」

 遠慮がちに彼女がそうつけ足し、そしてまた俯く。

「あ、そうなんだぁ〜……」

 あまり長居しても悪いと思い、「あ、じゃあ、わたしたちは、これで……」と、わたしがその場を立ち去ろうとしていると、とつぜん横から割って入ってきたマサキさんが、

「え? てか、まさかそれ……〝セルマー〟じゃない?」と、唐突に聞き馴染みのない単語を口にする。

「え? あ、はい。そ、そうですけど……」

 そう言いながら、少女がサックスを少しだけ持ち上げて見せ、吹き出し部分に掘られた、刻印を見せてくれる。どうやら高価なものらしく、少女の持っていたケースにも、同じように『HENR SELMER PARIS』という文字が刻まれており、それを目の当たりにしたマサキさんが、「すごいね〜。高かったでしょ?」と、頻りにその刻印を覗き込む。

「ああ、えっと……、自分で買ったわけではなくて、親のお下がりといか……、昔、父がサックスやってて、それで……」

 少女が言い訳でもするように説明し、再び自分の胸元にサックスを構える。

 父から譲り受けたという少女のサックスは、心なしか色褪せてはいるものの、しっかりと手入れが行き届いており、大事にされているのが一目で分かる。

「大事にされてるんですね……」

 小学校の音楽の時間以来、まともに楽器というモノを触ってきていないド素人なりに、素直に思ったことを口にしてみた。

「結婚前に父がお金を貯めて買ったみたいで、想い出が詰まってて、手放せないからって、吹かなくなった今でも、ちゃんと手入れしてたみたいで……」

「ステキなお父様ですね……」

 彼女の語り口の端々に、どことなく父に対する愛情が込められているような気がした。お世辞ではなく、本音でそう伝えると、わたしたちに対する警戒心が解かれたのか、漸く彼女の表情に笑みが浮かぶ。

「お二人は、お付き合いされてるんですか?」

 その一言に、思わず顔を見合わせる。

「えーと……」

 なんて言っていいのか判らず、口籠もっていると、「まだなんですね?」と、カワイイ顔して、少女がさらりと追い打ちをかけてくる。

 大人の事情というものを、まだよく分かってない少女の純粋な一言に、大人ふたりがタジタジになる。

 笑って誤魔化すしかなく、「結構、言うのね……www」と、わたしが吹き出すと、マサキさんも、「参ったな〜www」と、少女相手に白旗を上げる。

「でも、お似合いだと思いますよ……」

 そう言って、揶揄うように彼女が、もう一度、笑顔を見せる。

 脈絡のないその笑顔に、思わずマサキさんと目を合わせ、気恥ずかしさと嬉しさが同時に込み上げる。ふたりで俯いていると、「じゃあ、そろそろ行きますね……」と、少女がわたしたちに告げる。

「親が、あまり遅くなると、うるさいので……」

 そう説明し、彼女が今まで座っていた、ベンチとも言えないブロックから腰を上げ、お尻についた砂を払う。

「あ、うん……」

 立ち上がる彼女に合わせてわたしが頷くと、手慣れた手つきで、少女がサックスをケースにしまう。

 ファスナーを上げ終えると同時に、「じゃあ、また、どこかで……」と、彼女が軽い会釈をし、すっかり暗くなった民家の建ち並ぶ、山間の漁村のほうへと歩き出す。

 遊歩道の手すりを跨ぐ彼女の背中を、

「ねぇ? わたしたち、また、会えるかな?」と、大声で呼び止める。

「どうですかね……?」

 少し考え込んでから、「来月、福岡シンフォニーホールで、サックスの発表会があるんです!」と、彼女が叫び返してくる。

 わたしは、「行く」とも、「行かない」とも言わず、ただ、「分かった!」とだけ返事をし、さっき逢ったばかりの少女を、見えなくなるまで見送った。

 最後の角を曲がる直前、もう一度ふり返った彼女が、遠くの街灯の下で手をふり返してくれているのが、僅かに確認できた。

「じゃあ、行こっか?」

 そう促され、差し伸べられた彼の手をとる。大きさの割に華奢な彼の手のひらには、およそ肉厚というものがなく、握力だけならわたしのほうが、勝っているような気がした。

「意外と手が細いですね……」

 女性のような手をした彼の手を目の前にかざし、自分の手と比べる。

「ほら、きっとわたしのほうが力ありますよ」

 そう冗談を言うわたしに、「そうか?」と、彼が不服そう反論する。

 彼に手を引かれながら、歩く夜の海岸線は、まるで真冬のようだった。


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