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追想の主題として一石を投じる

「心も体もボロボロだった」

音楽家として後世に名を残したショパンがかつてプロポーズしていたマリアとの婚約を、その母であるヴォジンスキ伯爵の夫人によって破棄されてしまった一説の出来事は、今も印象深く残っている。

のちに薔薇の花や手紙を「我が哀しみ」と書いて一つの紙包みに残したと云われている、彼の顛末のうちの一つをふと思い出していた。

私は小学生の頃によく手に取っていた「世界の伝記」のうち、ショパンのエピソードが描かれた本を何度も繰り返し読んでいたことがある。

39歳という短い生涯だったとはいえ、上述のみならずそれらを一言や二言だけで感想をまとめるには、非常に難しいと思えるくらい壮絶なものだったと思っている。

 

忘れたくても忘れられない思い出があるのなら、
忘れられるように思い出を形として閉じ込める。

 

今現在も自分の過去を引っ張り出しながら、一つの文面として形作っていくことを継続しておこなっている最中だ。
だがかつての私に、日々の出来事を「日記」として書き記す習慣はなく、学生の頃に出され続けていた「宿題」の一環としか認識していなかった。

思えば社会人になってそのしがらみから解き放たれて以降、あの日までやらされていた感覚が抜けきれないまま、自ずと筆を手に取る機会などさらさらなかったのである。

良いも悪いも関係なくこれまで経験してきたすべてを、一冊のノートにすら箇条書きとして要約することもほとんど手付かずだ。
だが徐々に自分の中で膨大すぎる出来事が消化しきれず、ありふれた日常で悶々と抱えていくようになってしまった。

ここぞの場面で久しぶりに抜刀しようにも思い通りに抜け出せないような、自身が学んできた事や体験してきた事などをすぐに思い出せなくなってしまうことも、少なからず直面してきたのである。

やがて今よりもさらに年齢を重ねていくうちに、とっさのことで忘れていくことはおそらく多くなっていくことだろう。しかしその対象が必ずしも、悪い思い出だけとは限らない。

時の流れともに「老い」という重さを感じるようになっていくのは、この世に生を受けた者として、生命を維持し続けていく限りは決して避けられない性なのかもしれない。

ただ此処noteを通じて何のために書いているのか、ほんの少しだが次第に見えてきた気がしている。
だがそれは第三者から見れば、単に自分を律するための一つの理由にしかすぎない。一部の人にそう解釈されていても、全くもって不思議ではない。

何度も振り返っても何回も腹を括っても、また振り返ったり括りなおしたりしなければいけない。長いようで短いような半生で自ら学んだからこそ、私は避けられない現実を受け入れ、不確かな未来にめがけて再び一石を投じていくのだ。

 


私は時おり記事を執筆している途中で、アニメ「ノラガミ」からRecollectionという名前のBGMが、脳裏で再生されるようになってきている。

まもなく放送開始から10年経つと思うと、少しだけ感慨深くなってしまう。改めて何度聴いても、まったく色褪せることなど何一つ感じることはない。
これからまた、自分自身の過去を掘り起こす際は「追想」という主題を横でかけながら、作業に没頭していこう…なんてことを考えるのだった。

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