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A new one for all, All for the new one

毎年三が日の朝にポストの中を覗いて開けてみれば、大量の年賀状が収められている。

特に元旦の日は、およそ100枚におよぶ枚数が入っていたと思う。急ぎ家に戻って一枚ずつ手に取りながら確認してみると、もはや山札と化しているハガキの殆どは父に宛てられたものばかりだった。

その一部には、もちろん母宛のものや弟のものも含まれている。ちなみに私に宛てられた年賀状は、残念ながら一枚も届いていない…ワケではない。

ただ、どれくらいの枚数が来たかを数えるよりも、年賀ハガキの山から自分に宛てられたものを探し出すことの方が、逆に難易度が高かったというなんとも云えない憶えがある。


私は周りの同級生たちと比べて、交友関係なるものが希薄な方である。そのため学校でお世話になった先生方を入れて、3、4日間で届けられたのを合算して数えても、ほんのわずかしか届いていなかった。

大量の年賀状が送られてくる父を羨ましく思いながらも、どうして毎年こんなに多く届けられるのか、不思議で仕方なかったものである。


その理由が、今更になってようやく分かった気がしていた。



父の葬儀は、家族葬で営まれる予定だった。

この時の世間はコロナ禍の真っ只中にある。その状況を鑑みて誰かが感染してしまわないよう、残された私たち家族の意向で執り行われようとしていた。

葬儀場の一室で家族全員が一晩を過ごすため、寝泊まりする用の荷物を車に積んで持っていくために、私は皆よりも少し遅れてその場所に到着した。

夕方前であって私を含む関係者以外に、同じく黒を身に纏った参列者の姿はさすがに見受けられない。一通り持ち込んだ荷物を運び終わると、これから葬儀を行うホールに足を運ぶ。

今まで参列してきたのと異なる葬儀に戸惑いを感じながら踏み入れると、目の前には父が入れられている棺と、色とりどりに飾られた献花代に囲まれた祭壇が映った。

その上に設置されたモニターには、父が一番好きだった色であるピンクを背景に、生前の姿が映し出されている。

無表情ながらどこか真剣そうな目つきをしているその写真は、父が1、2年ほど前に役所でとある手続きをおこなうために撮った一枚の証明写真だ。

因みにそれ以外に直近で撮ったものがないか、葬儀を行う前日まで私は母と家中を探し回ったものの、結局見栄えが良さそうに見えるものは、その一枚だけしかなかったのだった。

にも関わらず、まるで写真スタジオで撮影されたみたく、うまいこと加工が施されている。もしかしたら、そのスクリーンから父が覗き込んでいるような気がしていた。

いよいよ葬儀が始まるのを前に、私はいまだ自分のうちに秘めた感情を引きずり出せずにいた。ここで情を溢れ出すにはまだ早いと、誰かに諭されているかのように。


やがて時刻が夕方を過ぎた頃、喪服を羽織った人たちが続々と訪れてきた。親戚をはじめ、父が生前の頃に、それも病気で入院するまで同じ職場に勤めていた同僚から、取引先でお世話になっていた方々もいらっしゃっていた。

その中には、かつて学生時代で共に苦楽を分かち合っていた同級生たちも、父の最期を見送ろうと駆けつけてくれていた。

みるみるうちに、広いホールに満遍なく用意された席はあっという間に埋まり、家族葬らしからぬ空気に包まれたまま、父の葬儀は静かにはじまった。


コロナ禍で引き起こされたパンデミックによって、人同士の交流がますます疎遠になっていく中、父は一つの病を患ってしまい…そして帰らぬ人となってしまった。

私自身を含め、病院でのお見舞いや面会が叶わなかったことや、最後に言葉を交わすことができなかったことに、悔やんでも悔やみきれない思いがそれぞれにあっただろう。

どんな時も人を大切にし、どんな時も人を思いやることを忘れず、どんな時も人のために懸命になる。

父が遺していったものは、ちょっとやそっとの言葉で表せるものではない。それが毎年送られてくる年賀状の量や、スマホに登録されている電話アドレス帳の数などで形容するには計り知れないものが、この空間にはたしかに在った。


父は誰よりも人情に満ち溢れた人であったこと、そして多くの人たちに愛されていたことを、一人の息子である私は改めて知るのであった。



やがて葬儀が終わると会場には、ONE OK ROCKのある一曲がギターのアルペジオとともに静かに流れ始める。

父が病気になる前まで、母と共に好き好んで聴いていた定番の曲とは異なり、旅立つ人に贈るはなむけのような心地よいバラードだった。

最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!