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「学校」という"母性のユートピア"あるいは"ディストピア"(全部入り)

学校や教員を批判するということについて、個人的な感情としては複雑な思いがある。
私は学生時代に教職のゼミで、仲間たちとよりよい教育を実現するため、たくさん本を読み、たくさん議論して、実践もさまざまに創意工夫し、ときには厳しい言葉を言い合ったりしながら成長してきた経験があり、そんな経験を共有した仲間の多くが、今も教員として一生懸命、日々目の前の子どもたちと向き合っているからだ。
だがしかし、近年社会で話題になるのは学校の先生たちのマイナスの面ばかりであり、プラスの面が話題になることは少ない。
確かに教員には問題を起こす人もいることだろうし、学校は社会に比べて遅れているかもしれない。しかし日本社会全体も、世界の"先進国"と比べれば遅れているのだから、学校だけを責めるわけにはいかない。

繰り返すが、学校の先生たちはみな、一生懸命働いている。
私たちは先生方を批判するときにも、前提としてそのことを認め、敬意を土台にしなければならない。
私がこれから書くことも、そのような先生方への敬意があってのことである。

私たちがこれから見ていく内容は、日本社会の現状とその観点から見た日本の学校教育の"成果"、現在学校が行うべき教育とそれに対応できない教師・学校の現状、そしてこれからの社会を生きる教師のための処方箋だ。

現実を見れば、教師は多すぎる仕事量を消化することができず、生徒と向き合ったり、授業を改善する時間を十分に確保することができないという問題が起きている。
そんな現状を考えて、まずは先生の負担を減らすため、働き方改革からはじめよう、という機運が高まることも理解できる。

しかし、学校の先生にさらなる負担は掛けられないというような現状があったとしても、「教育」や「学校」における理想を描き、追い求めることをやめてはならないと、私は考えている。
人々が理想を追い求める心が、現実に押しつぶされてはならない。

もちろん、人間の体力と気力には限界があるから、短いスパンの中で理想を追い求めることに限界はあるだろう。
それでも、たとえ一年に一歩だけでもいい。学校も学校の先生も、それを取り巻く社会も、「よりよい教育」の実現に向けて前に進んでいかなければならない。
なぜなら、進化への衝動は、私たちの内側におのずと備わる自然なものだからだ。

以下の論考は、学校教育、あるいは授業、あるいは先生たちの進化の一助となるように、書かれたものだ。
教育というのは国の根幹に関わるものであるから、対象としている読者はこの国のすべての人だ。そう、あなたである。

①今、日本では人が育っていない

学校教育の成果は、何で測ったらよいのだろうか、という問いへの答えは、一般的に「学力」ということになるだろう。

OECD(経済開発協力機構)は、3年に1度(2021年の調査は新型コロナの影響で1年延期)「PISA」を行い、加盟国の生徒の学力を確認している。テレビのニュースや新聞などでも、「PISAの順位が下がった・上がった」といったことが話題になる。

「PISA」というのは、「義務教育終了段階の15歳の生徒が, それまでに身に付けてきた知識や技能を, 実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかを測る」(『OECD生徒の学習到達度調査2022年調査 パンフレット』より)ことを目的に実施されている調査だ。

そのPISAにおいて、日本の生徒たちはどのような成績を納めているのだろうか。以下に示すのは、2018年度のPISAにおける日本とアメリカとフィンランドの点数と順位である。
(日本=左:オレンジで示す)、(アメリカ=中央:黄色で示す)、(フィンランド=右:緑で示す)。

OECD生徒の学習到達度調査2022年調査 パンフレット』より筆者作成

この表を見てわかるように、日本は読解リテラシーについてはやや点数が低いものの、数学的リテラシーと科学的リテラシーにおいては、優れた教育を行うことで有名なフィンランドにも引けを取らない。

順位は以下の通りである。

・読解リテラシー  日本:11位(504点)、アメリカ:9位(505点)、フィンランド:3位(520点)
・数学的リテラシー 日本:1位(527点)、アメリカ:31位(478点)、フィンランド:11位(507点)
・科学的リテラシー 日本:2位(529点)、アメリカ:13位(502点)、フィンランド:3位(522点)

世界一の経済大国であるアメリカに対しては、数学的リテラシーで30位分、科学的リテラシーで11位分も差をつけて「圧勝」している。

読解力が11位に下がってしまったことは気になるが、数学的リテラシーと科学的リテラシーにおいて、日本のPISAの成績は世界トップクラスでる。
それはすなわち、日本の学校教育が世界一の水準を誇っていることの証明であるように思える。

しかしながら、15歳時点での「学力」がいかに高くとも、個人個人が創造的に仕事と向き合わなければ経済は活性化していかないし、政治のことがわからなければまともな投票はできない。これらの能力と学力は必ずしも一致しない。
また人生全般について考えてみても、15歳時点での学力が高かったとしても、自身と向き合って目の前の課題を解決していこうという姿勢がなければ、苦難にぶつかったときに自らそれを乗り越えて幸福への道を進んでいくことができない。

もちろん、「だから、”学力”に意味などない」ということを言うつもりはない。言いたいことは、「学力」は重要ではあるが学校教育の成果の一面でしかなく、本質的に重要なのは、社会で活きる精神性や能力を身につけることができたかどうか、だということだ。

では、「社会に出た個人」に関して、日本人は現在どのような状態にあるのか。先ほどと同様、日本とアメリカ・フィンランドとを比較することで探ってみたい。

まずは、一人当たりのGDPから見てみよう。

webサイト『世界経済のネタ帳』より筆者作成

2017年から2021年の5年間、日本(オレンジ・一番下の折れ線)はほぼ40000ドルに行くか行かないかのところで横ばいだが、アメリカ(黄色・一番上)とフィンランド(緑・真ん中)はともに上昇トレンドだ。
アメリカとフィンランドだけではなく、イギリスやドイツもこの期間はアップトレンドである。
「日本が伸びていないのはこの期間だけなんじゃないの?」という疑問も考えられるが、安宅和人氏が『シン・二ホン』で示しているデータによると、日本は1993年から2018年にかけての伸び(1993年を「1」とする)は1.10だ。2021年も2018年とほぼ同じ数値だから、日本は約30年間、ひとり当たりの生産性が伸びていないことになる。
一方アメリカはというと、93年~2018年で2.23の伸びである。
そしてドイツは1.89、イギリスは2.31。同著で安宅氏も指摘しているが、日本は「一人負け」の状態だ。
また、伸び代も大きかったのだろうがフィンランドは驚異の2.83(筆者計算)だ。

この状況について学校教育の観点から見るならば、日本の学校は個人の主体性や創造性、課題発見・解決力といった、知識基盤社会で働く上での重要な能力をほとんど育てられていない、ということが言えるだろう。

続いて、「労働」に関する意識はどうだろうか。

webサイト『国際日本データランキング』より筆者作成

左側の①のグラフは「仕事は収入を得るための手段でしかないという人の割合」のグラフ、右側の②は「社会の役に立つことは、仕事をする上で非常に重要であるという人の割合」のグラフである。まず、①から見ていこう。

①の調査は、『あなたは「仕事は収入を得るための手段であって、それ以外のなにものでもない」という意見に賛成ですか』という質問について、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と回答した人の割合を示したものだ(実施年度は2015年)。
結果は、

日本:44.2%
アメリカ:22.5%
フィンランド:30.9%

となっている。

つまり、日本においては44.2%の人が、「仕事は収入を得るための手段であって、それ以外のなにものでもない」と考えている、ということである。
逆に言えば、日本では55.8%の人が、「仕事とは収入を得るための手段であり、かつそれ以外の何か」(収入を得ること以外に、自己実現や社会貢献といったことを目的としている、など)だと考えているということもである。
つまり、グラフの高さが低いほど、労働において多様な価値を追求している人が多い、ということになる(*①-1)。

3ヵ国の順位は以下のとおり。

日本:世界37ヵ国中17位
アメリカ:同30位
フィンランド:同25位

繰り返しになるが、順位が高いほど労働に関してドライに捉えている人が多く、順位が低いほど、労働において多様な価値を追求している人が多い、ということだ。
トップ10にはロシア(1人当たりGDPでは66位)やハンガリー(同49位)、リトアニア(同45位)など旧共産圏の国が入っている。一方でワースト10にはノルウェー(同4位)、スウェーデン(同11位)、デンマーク(同9位)などの北欧の国や、スイス(同3位)といった1人当たりの生産性が高い国が並ぶ。
この調査と一人あたりGDPの順位を重ねてみると、概ね、収入を得ること以上の価値を仕事に求めている人の方が、生産性も高いと言えそうだ。
日本はOECD+αの37ヵ国の中で、真ん中よりちょっと上、つまり世界平均よりも少し、労働に関する捉え方がドライであるようだ。先ほど見た日本の一人当たりのGDPの数値と併せて考えると、この順位は少し残念に思えてくる。
日本でも、半数以上の人が仕事において多様な価値を追求しているということなので、決して悪くはないと私は考えている。また仕事の内容は多様なので、自分の仕事が社会の役に立っているとはなかなか思えない人もいることだろう。ただ、OECD+αの国々の基準と比較すると、日本人はもう少し、仕事に対して豊かな考え方を持てる可能性を秘めている、ということが言えそうだ。

では、今度は②のグラフを見ていこう。「社会の役に立つことは、仕事をする上で非常に重要であるという人の割合」においては、アメリカに比べて日本とフィンランドの低さが際立っている。数値と順位は以下の通り。

日本:15.5%、世界37ヵ国中37位
アメリカ:47.4%、同2位
フィンランド:16.2%、同36位

私は、日本という国はモノに魂を込められるような職人の国だと思っていたため、この順位には驚いた。もちろんそのような職人もいるはずだが、84.5%の日本人は、「仕事をとおして社会の役に立とう」とは考えていないのだ。

先ほども触れたとおり、仕事の内容は多様なので、自分の仕事は人様の役になんて立っていない、と思う人もいることだろう。
ただ、基本的に仕事は人の役に立ってはじめて対価がもらえるものだし、自分の仕事が全作業工程の一部分に過ぎず、直接社会の役に立っていないように思えても、最終的なアウトプットは何らかの形で社会の役に立っていることがほとんどなのだから、もう少し高いパーセンテージになってもよかったのではないかと思う。

学校教育の文脈に引き付けて語るならば、これらのデータからは、学校教育において、「仕事」の価値や意義、あるいは人と人・組織と組織が支え合って成り立っている社会の仕組みを伝えることが、あまりうまくいっていないということが読み取れる。


*①-1 必ずしも、労働に関してドライに捉えているからといって労働意欲が低いとは言い切れないし、労働に関して多様な価値観を持っているからといって労働意欲が高いとは言い切れない。



最後に、「政治」に関しても確認しておきたい。こちらもデータを見ていただこう。

webサイト『国際日本データランキング』より筆者作成

左側のグラフは、2022年3月時点での日本、アメリカ、フィンランドにおける最新の国政選挙の投票率だ。日本の投票率は56%。順位はOECD加盟国38ヵ国の中では30位となっている。アメリカは70.8%で15位。フィンランドは68.7%で17位である。
世界(199ヵ国)の中では、日本の投票率56%というのは136位という下位に位置する。
ちなみに2009年の時点では日本の投票率は69.3%で、政治に関心が高いと思われているアメリカの2008年の大統領選の投票率は56.8%だった。

次に右側のグラフを見てみよう。右側は「あなたは、政治にどの程度関心がありますか」という質問に対して、「非常に関心がある」「かなり関心がある」「まあ関心がある」「あまり関心がない」「全く関心がない」の5つの選択肢から、「非常に関心がある」「かなり関心がある」「まあ関心がある」と答えた人の割合についてのグラフである(2016年)。
政治への関心は、日本は68%(33ヵ国中15位)でアメリカの69.6%(同12位)とだいたい同じくらいになっている。フィンランドが75.6%で6位とやや高い。
このグラフは回答者に5択を提示したパターンだが、上記の選択肢から「まあ関心がある」を抜いた4択で質問した場合(2014年の調査)では、

日本:63.3% 34ヵ国中4位
アメリカ:57.4% 同11位
フィンランド:44% 同19位

となっているため、聞き方によってかなり差が出るようだ。

このように日本の現状を見てみると、ここ10年で投票率が下がっていることは気になるが、政治への関心という点では他国と比べてもそれほど悪くないように思える。

しかし、次のデータを見ると、日本人の政治意識について首をひねりたくなる。

webサイト『国際日本データランキング』より筆者作成

日本人で、「自分は国の政治的な課題を理解している」と思っている人は、驚くべきことに5人に1人よりも少ない。順位で見てみると世界34ヵ国中の34位、ビリである。アメリカは7位、フィンランドは11位だ。
2014年のデータを見てみると、日本は25.4%。これも34ヵ国中の34位でビリである。
もちろん、回答者の主観性の割合も考慮しなければならないため、アメリカ人やフィンランド人の自己評価が高く、日本人の自己評価が低いということも考えられるのだが、そうだとしても差が大きすぎる。

投票率と併せて考えてみよう。日本人の投票率は56%だったので、約2人に1人以上が投票に行っていることになる。しかし、政治的な課題を理解している人は5人に1人しかいない。つまり、日本人は10人いたら5~6人は投票に行くが、そのうち政治的な課題を理解して投票所に行っている人は10人中2人しかいない(政治的な課題を理解している人はたいてい投票に行き自分の意思を表明するだろう)。
では、あとの3~4人は一体何を考えて投票所に行っているのか。
おそらく、「メディアでよく名前を見かけるあの人に入れておこう」、といった具合で投票所に行っているのではないか。
力の抜けるような推測だが、明らかに資質もやる気もない人を当選させてしまっているという現実がある以上、つまりはそういうことなのだろう。

この日本では、政治に何となく関心はあるけど、特に勉強はしないという大人が育っている。
もちろん、この原因は複雑に絡み合っている。仕組みの問題もあるし、社会の風潮を形成するメディアの責任もあるだろう。家庭も学校に丸投げせず、できる範囲で責任をもたなければならない。だから、一概にどこそこがダメである、と断定することはできない。
ただ、責任ある市民となることができるように子どもたちを育てることが学校教育の役割である、と考えるならば、現在の学校教育は責任ある市民の育成にはあまり貢献していないと言えるだろう。
実際、小学校に入学してから高校を卒業するまでの間に、政治的な判断力や社会への当事者意識を育てるための授業を受けたことがある、という人は、日本では少数派であるに違いない。

ここまで見てきたように、今日本社会は、経済と政治において行き詰っており、その突破口も拓けないという状況にある。
この現状を「学校教育の成果」として見るならば、これまで日本の学校は、「時代に合った能力」「よりよい社会をつくろうという前向きな姿勢」「市民としての当事者意識」を持っている人を育てることが、ほとんどできなかった、ということに残念ながらなってしまう。
それに対して、フィンランドは質の良い学校教育によって、個人の前向きな姿勢や能力を引き出し、社会を活性化することに成功していることがわかる。

もし学校教育がこのまま変わらないのであれば、日本社会は「衰退」とまではいかなくとも、行き詰ったまま停滞し続けることになるだろう。未来の日本人、そして未来の世界中の人々のために、その事態は避けなければならない(*①-2)。

では、学校はこの事態に対処できているのだろうか。それともできていないだろうか。また、学校教育の方針を決める文部科学省は、どのような対策を示しているのだろうか。
次の章では、そのことについて確認していこう。


*①-2 治安の良さや清潔さ、礼儀正しさ、文化的な多様さなど日本の優れた点はたくさんある。それらも学校教育の成果だと見なすこともできる。これらの長所を維持した上で、社会の活性化に資する人を育てていかなければならない。これらの長所は経済状況と密接に関連しているのだから、無駄を排し学びの形を変えて、両方を育成しなければならない。


②示された改善の方向性、そしてソリューション。一方学校は・・・。

学校教育を時代に合ったものに

停滞する日本社会。時代に合った力を持った人材を育てられない学校教育。当然、国もこの現状を知っている。
文部科学省は、この現状を打開するために新たな学校教育の方針を打ち出した。
2017年3月、学校が各教科で扱う内容を定めた学習指導要領が改定された。これは戦後9度目の改訂となる。以下、新しい学習指導要領の内容を見ていこう。

まず、学習指導要領が示す方針について。
学校には、児童・生徒の「学力を伸ばす」という目的がある。今回の学習指導要領の改訂は、その「学力」の中身を問い直すことからはじまった。
では、「学力」とは一体何なのだろうか。

これまで学力は、領域ごとに区分された「知識の体系」であるとみなされていた。つまり、社会科なら社会科、理科なら理科と分野ごとの固有の知識を身につけるということが、「学力をつける」ことだと考えられていた、ということだ。「その分野についてたくさんのことを知っている」ということが、旧来の学力観における「学力が高い」ということになっていたのだ。
では、今「学力」はどのように考えられているのだろうか。
現在における「学力」のグローバルスタンダードは、領域ごとに区分された「知識の体系」ではなく、それらの知識や技能を活用して「何ができるか」、より詳細には「どのような問題解決を現に成し遂げるか」という汎用的な資質・能力の体系と考えられているのだ(『「資質・能力」と学びのメカニズム』奈須正裕 2017年)。
簡単に言ってしまえば、「知る」から「できる」へ。ただ単に知っているということではなく、その知識を生かして日常を豊かに変えていくこと、学力の捉え方はこのように変化した。
インターネットの発達によって、今や知識を持っていることに大した価値はなくなった。もちろん、仕事における暗記の効力まだまだ健在だ。だが、変化のスピードが速く、かつイノベーションが求められる社会で必要なことは、その知識を使いこなしたり、ときには知識の全くない領域に対して自らの思考力をフルに使ったり同僚とのコミュニケーションによって課題を発見し解決することであることは、読者の多くも実感していることなのではないだろうか。

ちなみに、このような学力観の変化が起こった土台には、実際に日々現場で問題解決を行なう「熟練者」を観察したり、人間の認知に関する研究をすることで深まった「知識」についての体系的な理解がある。
今回の学習指導要領の改訂では、このような学力観の変化を踏まえ、学校教育の目的が
「子供たちが未来社会を切り開くための資質・能力を一層確実に育成する」(『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 総則編』p2 文部科学省 2018年 太字は筆者による補足)と定義された(*②-1)。
確かに改革のスピードは遅いかもしれないが、文科省も日本の学校教育を時代に合った方向に進めようとしているのだ。

ここまで確認してきたように、これからの学校教育のキーワードは「資質・能力」だ。では、学校がその教育活動をとおして育成を図るべき「資質・能力」の中身とは一体何だろうか。
新しい学習指導要領では、「資質・能力」は以下の「三つの柱」に整理されている(太字は筆者による補足)。

ア「何を理解しているか, 何ができるか(生きて働く「知識・技能」の習得)」
イ「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる「思考力・判断力・表現力等」の育成)
ウ「どのように社会・世界と関わり, よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性等」の涵養)」

『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 総則編』p3 文部科学省 2018年

この「知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」「学びに向かう力・人間性等」という資質・能力が「三つの柱」として学校で学ぶべき内容全般の中心に位置づけられている。「学びに向かう力・人間性等」という表現がわかりにくいが、姿勢や態度のことだと理解しても差し支えないだろう。
新学習指導要領は、これら「三つの柱」を中心として、各教科の目標と内容に細分化していくという構造になっている。
ひとつの例として、高校国語の「現代の国語」という科目から、「三つの柱」のひとつである「思考力・判断力・表現力等」に関する部分を一部抜粋する。

「目標」・・・論理的に考える力や深く共感したり豊かに想像したりする力
を伸ばし, 他者との関わりの中で伝え合う力を高め,  自分の想いや考えを広げたり深めたりすることができるようにする。
「内容」・・・ア 目的や場に応じて, 実社会の中から適切な話題を決め, 様々な観点から情報を収集, 整理して, 伝え合う内容を検討すること。

『高等学校学習指導要領(平成30年告示)』(p33,34)文部科学省 2019年

例えば「目標」の「論理的に考える力」や「深く共感したり豊かに想像したりする力」は「思考力」に当たり、「他者との関わりの中で伝え合う力」は「表現力」に当たる。
「内容」は全体として、人とコミュニケーションする状況において必要となる「思考力・判断力・表現力等」の例となっている。
このように、「思考力・判断力・表現力等」という観点から、国語という教科の中で育成すべき資質・能力が定められていることが見て取れる。

ただ、実際に読んでみればわかるように、かなり抽象的な文章となっている。このような抽象的な目標と内容から具体的な授業のプランを設計するためには、教員の側にかなりの知識と経験、そしてスキルが求められるだろう(そして読解力も)。


*②-1 学習指導要領は、文部科学省のホームページからも閲覧が可能。


ここまで確認してきたように、生徒に知識を身につけさせることではなく、「資質・能力」の育成が求められているからには、従来行われてきたような授業スタイル――教師が答えを持っていて、生徒はそれを丸覚えする――では今後は通用しない。生徒たちが「資質・能力」を身につけるためには、新しい学び方・新しい授業スタイルが必要なのだ。

新しい学習指導要領は、新しい授業学び方・授業スタイルの方向性として「主体的・対話的で深い学び」が実現できるような授業を行うことを、教師に求めている。
ただ、学習指導要領を読んだだけでは、「主体的・対話的で深い学び」を実現するために具体的にどのようなスタイルで授業をしたらよいのかということは、よほど優秀な先生でないと実際のところわからないのではないだろうか。

しかし、ある教科においては、「主体的・対話的で深い学び」の具体例と考えてよい「学び方」が示されている。
その教科というのは、小学校と中学校の「総合的な学習の時間」、または高校の「総合的な探究の時間」である。
「総合的な学習(探究)の時間」というのは、特定の教科に限定されることなく、実社会の課題や自分が興味のある物事について学ぶことをとおして、「資質・能力」を鍛えていくための授業だ。
そして、学習指導要領の「総合的な学習(探究)の時間」の章において、その目標として「課題設定→情報収集→整理・分析→まとめ・表現」という一連の流れを自ら行うことができるようになることが示されている。
この「課題設定→情報収集→整理・分析→まとめ・表現」の一連の流れは「探究的な学び」と呼ばれている。
これは実質的には、教員は「総合的な学習(探究)の時間」において、「課題設定→情報収集→整理・分析→まとめ・表現」という順番で生徒が学んでいけるような授業を自分でデザインして実践してほしい、という国からの要請だ。
現在教育界においては、この「探究」という言葉がひとつのホットワードとなっている。私の実感としても、だいたい2019年頃から、主に私立の中学・高校の先生が「探究」という言葉をよく使用するようになってきたと記憶している。

だが、ほとんどの教師たちは「総合的な学習(探究)の時間」が新設され、「課題設定→情報収集→整理・分析→まとめ・表現」という学び方が求められるということはわかったのだが、「生徒が実社会の課題解決に取り組み、それをとおして資質・能力を育てられるような授業をつくる」ということは今まで行っていなかったため、新しい学習指導要領への対応ができていない。
そのため、さまざまな教育関連の企業や団体が「総合的な学習(探究)の時間」の授業で使える教材をつくっている。大胆に改革を行い学校を変えた工藤勇一氏も著書(『学校の「当たり前」をやめた。』2018年)にて、外部のプログラムを用いて学校の学びを充実させたことを報告しているが、「総合的な学習(探究)の時間」で生徒の「資質・能力」を伸ばそうと考えている先進的な学校(本来すべての学校が取り組まなければならないのだが、現状、そのような取り組みをしている学校は先進的だと言える)は、多くの場合外部の力を借りてこういった取り組みを行っている。

学校によっては、すべて自前で新しいプログラムをつくっている、というところもあるのかもしれないが、先進的な学校の多くが外部の力を借りて何とか新学習指導要領の内容に対応しているという状況は、現在の日本の教師たちに、そのような授業を行う能力がまだ育っていないということを意味している。

ここまで学習指導要領に関する確認をしてきたが、その最後として、新しい学習指導要領が「いつ」実施されたのかを見ておきたい。
新学習指導要領の完全実施は
小学校=2020年度
中学校=2021年度
高校=2022年度の高校1年生から
である。この原稿を執筆している時点(2023年3月)で小学1年生から高校1年生、そして探究的な学びをとおして生徒に「資質・能力」を身につけさせたいと考えている”先進的な”学校の高校2・3年生が、新しい学習指導要領の内容で学んでいる。
またその内容の一部は、
小学校=2018~2019年度
中学校=2018~2020年度
高校=2019年度から
それぞれ先行実施されていた。

先行実施の期間を入れれば、2022年度までに小学校・中学校で4年間、高校で3年間の準備期間があった。
しかしながら、私は小学校の授業の状況については把握していないのだが、中学校・高校のほとんどの学校において、そして探究的な学びを実施している一部の教科以外のほとんどの教科において、従来の知識を詰め込むスタイルの授業が行われていることが実態だろう。

3~4年の移行期間の間、さらにはそれ以前から、新しい授業スタイルを実践あるいは研究している先生や研究者が書籍を刊行するなど情報発信を行っていた。勤めている学校内に先進的な授業を行える先生がひとりもいなかったとしても、それらの情報を得ることが容易にできる環境が整っていた。それに加えて、先に述べたように企業がつくる新しい形の学習教材もたくさん出た。

にも関わらず、学校は変わっていない。
日本社会全体が30年間停滞状態であることは第一章ですでに見たとおりである。学校だけでなく企業も変われていない。だから、学校だけを責めることはできない。
だが、本来学校とは、最先端の知識や技術を学び、能力を身につけ、次世代の社会をつくる人間を育てる場所のことではなかったか。社会と隔絶された状態で受験勉強に専念するための場所ではなかったのではないか。

なぜ学校は、あるいは教師は、旧来の工業社会モデルの教育手法を使い続けるのだろうか。

教師の学びの現状

学校の授業が「資質・能力」を育成するスタイルに変わっていかない理由はどこにあるのだろうか、ということを考えていくと、学校の先生が新しい授業のスタイルを「学んでいない」「知らない」ことにあるのではないか、ということが予想される。
そこでこの項では、「教員の学び」の現状について確認する。

以下に示すのは、中学校(左:対象者169人)と高校教員(右:対象者182人)の1ヶ月あたりの読書数のグラフである(2019年12月~2020年1月)。

『教師崩壊』妹尾昌俊 2020年 PHP新書 p197より(調査期間:2019年12月~2020年1月)

中学・高校のグラフとも円グラフの構成は以下の通り。

黒=月0冊
オレンジ=月1冊くらい
緑=月2冊くらい
黄色=月3~5冊
水色=月5冊以上

気になるのは、月0冊の教員の割合である。
中学校で約41%、高校で約45%が、ひと月に一冊も本を読んでいない(*②
-2)。
ひと月に1冊も本を本を読めない原因は、部活や生徒指導等で長時間残業が常態化し、疲労困憊したせいで通勤途中や自宅でゆっくり本を読むことができないのかもしれない。あるいは単に学ぶ意欲がないのかもしれない。
原因が何であれ、「学び」に関するプロフェッショナルであるはずの教師の約半分が月に1冊も本を読んでいないというのは、かなりショックな事実である。
当然、このような時代なのだから本ではなくYouTubeの教育系チャンネルで学んでいるという教員もいるだろう。また月に1冊しか読まなくても質の良い本を熟読しているという教員もいれば、月に5冊ほど読んでいてもその行為が知性を磨くことにつながっていない教員もいるだろうから、読書量だけで一概に教員の実力を測ることはできない。
しかしながら、繰り返しになるが中高どちらも40%以上の教員が月に1冊も本を読んでいないというのは、学びのプロフェッショナルとして心許ないという評価にならざるを得ないだろう。試合がないからといって体づくりをしないプロスポーツ選手が心許ないように。

ただ、逆に言えば月に3冊以上読んでいる教員は、中学で約12%、高校で約11%はいるということだ。中高の教員はだいたい10人に1人、しっかり読書をして知識を身につけていると言えそうだ。
月に3冊以上読んでいれば、そのうちの1冊くらいは新しい授業スタイルや「資質・能力」に関する本、あるいは現在の社会状況に関する本を読んでいてもよさそうなものだ。
加えて、本を月に1冊~2冊読む教員も中学で47%、高校で44%いる。月に3冊以上読む教員と合わせれば半数は超える。その1割の教員が授業改革の中心となって、月1冊~2冊読む約45%の層を引っ張ることで学校を改革するというシナリオも十分あり得そうなものだが、今のところそうはなっていない。


(*②-2 全国16歳以上の男女3590人(有効回答数1960人)を対象に行われた文化庁の「国語に関する世論調査」(平成30年度)によると、月に1冊も読まない人の割合は47.3%であるため、教員の読書量が日本人の平均と比べて著しく低いわけではない)


では、読書以外の学びの状況はどうか。

左:『教師崩壊』妹尾昌俊 2020年 PHP新書 p199を参考に筆者作成
右:webサイト『国際日本データランキング』より筆者作成      

まず、左側の①のグラフから。こちらは、労働時間が週40時間以上あった小中高の教員に対して、直近の1年間で「外部のセミナーや勉強会等に参加しているか」を問うたものだ。
結果は、小学校教員の約25%、中学校教員の約31%、高校教員の約34%が、「まったくない」ということだった。
ただこれも逆に言えば、小学校教員の約75%、中学校教員の約69%、高校教員の約66%は、直近の1年間に最低1回は外部のセミナーや勉強会等に参加しているということでもある。グラフは「参加している」人の割合を表している。
この数字が低いのか高いのかということを判断するためには、他の評価軸を持ってこなければならない。それが右側、②のグラフである。

右側の②のグラフは、日本・アメリカ・フィンランドにおける「この1年の間に、仕事の技能向上のための教育を受けたという人の割合」を表している(2015年)。これは教員に限ったものではなく、その国の国民全体のデータである。
3ヵ国それぞれのパーセンテージと順位は以下の通り。

日本(左。オレンジで示す):42.1% 37ヵ国中21位
アメリカ(中央:黄色で示す):59.4% 同4位
フィンランド(右:緑で示す):58.1% 同5位

①と②で調査内容が完全に一致しているわけではないが、概ね趣旨は同じと考えられるだろう。
②の数字と比較したときに、日本の教員の学びの状況は決してわるくない。日本の42.1%に対しては、小中高で最低となった高校でも20%以上高い。
また世界4位のアメリカの59.4%に対しても勝っている。
そのうえ、教育研究科の妹尾昌俊氏によると「小中高とも1割近くの教員は年間7回以上参加した」(『教師崩壊』p199)とのことなので、読書の状況と同様、1割の教員が熱心に学んでおり、その1割と合わせて半数以上が少なくとも年1回は自ら学びに参加している(*②-3)。


(*②-3 公立の教員は、「教育公務員特例法」における「第四章 研修」の第二十一条「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」という規定によって研修が重視されている。それによって小中高教員の数値が高くなっている可能性がある。)


このような状況から考えれば、少なくとも学校の授業の5割から6割は、「資質・能力」を育てる授業に変わってもよさそうなものだ。
しかしその多くは、未だ旧来のスタイルのままである。そこに問題がある。
もし、読書をしたり外部の学びに参加する教員が1割もいないのであれば、学校の授業が変わっていかないことの原因も明らかだ。自ら学び、成長する意欲がないのであれば、教員免許の価値が低いということになるのだから、免許を持っていない人が教育現場に入れるように制度を変えるなど(*②-4)、対策は比較的簡単であるように思える。

むしろ、「学んでいる(あるいは、学びにコストをかけている)のに変わっていない」ことの方が問題である(学校というものは、社会から隔絶してしまいがちな側面を持っている。だからこそ、外部から新しい風を学校に持ち込んでくれるであろう、学びに熱心な先生にはこの場を借りて敬意を表したい)。
このことから、教員そして彼らを取り巻く学校という場所に、変化を阻む構造的な問題があることが推測できる。
その構造については次章以降で詳しく検討していくが、少し先走って結論めいたことを言えば、その構造を生み出した教員たちが、「変えたい」という動機を持てないでいるのではないかということが想定される。それどころか、無意識的に「変えたくない」という強い願いさえ持っているのではないか。本人たちも自覚しないまま、彼らのアイデンティティや幸福の問題として、そのままであってくれる方が望ましいと感じているのではないか。
そうであればこそ、この問題はやっかいなのだ。

ならば、その構造を明らかにすることで、学校、そして授業を変えていくための真に有効な手段も見えてくるはずだ。


(*②-4 教育経済学者である中室牧子氏の著書『「学力」の経済学』(2015年)に示された研究データによると、教員免許を持っているかそうでないかは、教員の質には関係ない。そのため、教員の質を高めるために有効な政策は「教員免許制度を撤廃する」である可能性が高いという。また、別の研究では、教員研修が教員の質に与える因果関係はないという結論が優勢であるという。
ただ、現実的に日本で教員免許制度が撤廃されることはすぐにはないと思われるため、研修の質を上げることも重要であると考える。)


③教師の幸福

教師たちは、自分たちの職業をどのようなものだと認識しているのだろうか。
大変な点はどこか、何に喜びを見出すのか、その仕事から受け取るメリットにはどんなものがあると感じるているのか。
小学校と中学校の教員が抱いている教職観について、94年以前の少し古い調査になるが、以下に結果を示す。

①社会的に尊敬できる仕事だ 44.3%
②経済的に恵まれた仕事だ 46.4%
③精神的に気苦労の多い仕事だ 97.2%
④児童・生徒に接する喜びのある仕事だ 93.0%
⑤やりがいのある仕事だ 89.6%
⑥自己犠牲の強いられる仕事だ 82.1%
⑦自分の考えにそって自律的にやれる仕事だ 62.9%

『<講座学校 第6巻>学校文化という磁場』堀尾輝久 久富善之他 1996年
『4章 学校制度の中の教員文化――信頼のゆくえ』山﨑鎮親 p134より

各項目のパーセンテージは、それぞれの質問に対する「強くそう思う」「ややそう思う」「あまりそうは思わない」「全くそうは思わない」の4択の回答のうち、「強くそう思う」「ややそう思う」の合計である。
7つの質問の中でも、約9割の先生が回答している③④⑤の項目が特に注目に値する。教師は自らの職業について、社会的な名声や尊敬あるいは金銭といったものを得られる仕事ではなく、精神的にきつい仕事でありかつやりがいや子どもと接する喜びがある仕事だと認識しているということだ。
そして、③の「気苦労」、④の「児童・生徒に接する喜び」、⑤の「やりがい」の中身を考えると、子どもたちとの関わりが中心にあるという共通点があることがわかる。自分が受け持つ教室にいる生徒ひとりひとりが社会性を発達させていく段階にあること――「未熟」であるということ――は「気苦労」につながるし、発展途上の人間と関わるからこそ「やりがい」が生まれる。大人の1年とは違い、発展途上の子どもたちにとっての1年は長く大きなものだから、劇的な変化を目の当たりにすることもあるだろう。そんな子どもたちと密に接するからこそ「喜び」が生まれるのだ。
これらをひっくるめた毎日に、教師は「幸福」を感じているのだろう。2021年頃の調査(『教職生活を通して得る教員の学びの分析』高木幸子 新潟大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編, 巻 14, 号 1, p. 101-114, 発行年 2021-10)においても、教師にとっての喜びは生徒との関わりの中にあることが示されており、この傾向は90年代から変わっていないと考えてよさそうだ。

もちろん、生徒との関わりの中に喜びがあるといっても、教師もひとりの人間である。「分け隔てなく接する」ことを自分に課し、腹に据えかねるものがあってもぐっと飲みこんで、日々子どもたちと向き合っている教師がほとんどだろうが、そこには当然「好み」の感情が入り込んでくる。
少々生々しいデータではあるが、教員が好感を持つのはどんな性質の子どもなのかについて見ていきたい。

『<講座学校 第6巻>学校文化という磁場』堀尾輝久 久富善之他 1996年 
「4章 学校制度の中の教員文化――信頼のゆくえ」山﨑鎮親 p129を参考に作成

この調査は、小中学校の教員536名に、17種類に分類した生徒の「タイプ」(「性格」や「能力」の傾向といった意味だろう)についてどう思うか、それぞれ「非常に好感が持てる」「やや好感が持てる」「どちらでもない」「あまり好感が持てない」「ほとんど好感が持てない」の5つの選択肢から回答してもらったものだ。
グラフには、「非常に好感が持てる」「やや好感が持てる」のふたつのパーセンテージのみを示した。
スマートフォンで読んでいる方はグラフの文字が小さくて読みにくいかと思うので、テキストでも記しておく。
左から順番に

①努力家 非常に好感が持てる(グラフ下部(水色)):80.9% やや好感が持てる(グラフ上部(オレンジ)):18.5% 計:99.4%
②頭がいい 非常に好感が持てる:8.2% やや好感が持てる:30.5% 計:38.7%
③素直 非常に好感が持てる:73.3% やや好感が持てる:21.2% 計:94.5%
④積極的 非常に好感が持てる:55.0% やや好感が持てる:40.3% 計:95.3%
⑤さわやか 非常に好感が持てる:72.0% やや好感が持てる:23.6% 計:95.6%
⑥元気がいい 非常に好感が持てる:54.5% やや好感が持てる:38.8% 計:93.3%
⑦要領がいい 非常に好感が持てる:1.3% やや好感が持てる:8.8% 計:10.1%
⑧ちょうしのいい 非常に好感が持てる:1.3% やや好感が持てる:8.8% 計:10.1%
⑨謙虚 非常に好感が持てる:32.6% やや好感が持てる:42.2% 計:74.8%
⑩きどっている 非常に好感が持てる:0.9% やや好感が持てる:2.1% 計:3.0%
⑪独創性がある 非常に好感が持てる:52.8% やや好感が持てる:39.7% 計:92.5%
⑫社交的 非常に好感が持てる:21.7% やや好感が持てる:42.2% 計:63.9%
⑬思いやりのある 非常に好感が持てる:87.3% やや好感が持てる:12.3% 計:99.6%
⑭おっとりしている 非常に好感が持てる:17.9% やや好感が持てる:37.8% 計:55.7%
⑮強情 非常に好感が持てる:2.2% やや好感が持てる:9.1% 計:11.3%
⑯自己主張の強い 非常に好感が持てる:5.2% やや好感が持てる:19.6% 計:24.8%
⑰大人びた 非常に好感が持てる:1.9% やや好感が持てる:8.2% 計:10.1%

実に興味深くもあり、当たり前と言われれば当たり前のような結果でもある。
この17種類の中で9割を超えたものは、
努力家(計:99.4%)、素直(94.5%)、積極的(95.3%)、さわやか(95.6%)、元気がいい(93.3%)、独創性がある(92.5%)、思いやりのある(99.6%)
の7つである。きっとこのような性質の子どもばかりであったら、活気があってとても気持ちのよいクラスになることだろう。
加えて、これらの性質は教師が自分自身が持っているもの、もしくは持ちたいと願っている性質である可能性が高く、教師は生徒の中に自らの志向性が反映しているのを見て「好ましい」という評価をしているのではないかと考えられる。

意外なのは、「頭がいい」(計38.7% 5つの選択肢の中では、「どちらでもない」の回答が一番多く57.9%だった)が上位に入っていないことだ。学校で過ごす時間の大半は授業に充てられているのだから、そこで目指されていることは、基本的には「頭をよくすること」のはずだ。
しかし多くの教員は、「頭がいい」生徒のことを、それほど好ましいとは思っていない。これは不思議なことだ。

教師にとって「好感が持ちにくい」というタイプも確認しよう。17種類のタイプのうち、「あまり好感が持てない」「ほとんど好感が持てない」の合計が10%を超えたもののみを以下のグラフに示す(グラフの棒は「ほとんど好感が持てない」「あまり好感が持てない」を示す)。

『<講座学校 第6巻>学校文化という磁場』堀尾輝久 久富善之他 1996年 
「4章 学校制度の中の教員文化――信頼のゆくえ」山﨑鎮親 p129を参考に作成

こちらも、グラフの文字が小さすぎるという方向けにテキストも記載する。

・要領がいい ほとんど好感が持てない(グラフ下部(青)):11.2% あまり好感が持てない(グラフ上部(灰色)):36.4% 計:47.6%
・ちょうしのいい ほとんど好感が持てない:9.5% あまり好感が持てない:38.3% 計:47.8%
・きどっている ほとんど好感が持てない:12.0% あまり好感が持てない:44.8% 計:56.8%
・強情 ほとんど好感が持てない:7.5% あまり好感が持てない:36.2% 計:47.8%
・自己主張の強い ほとんど好感が持てない:3.2% あまり好感が持てない:27.8% 計:31.0%
・大人びた ほとんど好感が持てない:6.3% あまり好感が持てない:29.5% 計:35.8%

実際のところ、調査に回答した教員たちも、ネガティブな生徒のタイプについて正直な回答はしにくかったのではないだろうか。現に、ほとんどの回答において「どちらでもない」のパーセンテージが「あまり好感を持てない」を上回っていた。
唯一「あまり好感を持てない」が 「どちらでもない」を上回ったタイプは「きどっている」だった(「あまり」:44.8% 「どちらでも」:40.2%)。この「きどっている」とはどのような状態を指しているのだろうか。教師よりも物を知っているかのように振舞うということだろうか。あるいは服装の着こなしを崩すなどして周囲とは違う自分を過剰に演出しているということだろうか。
山﨑鎮親氏がどのように考えていたのかは明確にはわからないが、どのような状態にせよ、「きどっている」児童・生徒は教師にとって理解の範疇の外にあるのだということは言えるのではないだろうか。

他のタイプについても同じようなことが言える。
「強情」や「自己主張が強い」タイプは、教師の言うことを素直に聞かず、教室や学校の秩序の外にあることを主張してくる生徒だと予想される。そのような児童・生徒は、教師にとってはコントロールすることが難しい。「大人びた」のタイプに関しても、教師にとっては声をかけにくいところがあり、同じくコントロールすることが難しいと感じるのだろう。
また、「要領がいい」タイプは、教師にとって好感を持てるタイプの「努力家」とは反対に、少ない努力で結果を出したり、あまり教師の言うことを聞かずとも物事ができてしまうという点で、教師にとっては自分を否定されたような気になってしまうのだろう。
「ちょうしのいい」タイプも、教師自身が持っている「まじめさ」の反対に位置するような人格であるため、受け入れがたいものがあるのだと思われる。
特に「要領がいい」と「ちょうしのいい」は、いわゆる"社会でうまくいくタイプ"でもある(外からそう見えるだけで、本人たちは必死なのかもしれないが)。教師は企業勤めをした経験がない者も多いため、社会について無知であるというコンプレックスを持っているケースが多くみられる。この2つのタイプは、教師のコンプレックスをくすぐる存在でもあるのではないか。

これらを総合して考えると、教師から好感を持たれにくい児童・生徒のタイプは、「教師の理解の外にあり、コントロールがしにくい」タイプだと言えるだろう。
逆に言えば、教師が好感を持つ児童・生徒は、「理解しやすく、自ら教室の秩序を把握しそれを守り、教師がコントロールしやすい」タイプだということも見えてくる。

だが、子どもたちを社会で通用する人間に育てて送り出すことが学校の役目であるならば、「自己主張が強い」ことや「要領がいい」ことも貴重な個性のひとつであるはずだ。
学校そして教室における「秩序」――それらは教師がつくったものだ――に沿って行動できるか否か。それが、教師が好感を持てるかそうでないか、ということに大きく関わっている。
本来、意思の強さや自己主張は、民主主義社会では重要な要素だ。それが教師から見ると好感が持てない要素になるのではれば、学校・教室の秩序こそが問題なのではないか。

とはいえ、教師自身も今までそのような秩序しか経験してこなかったのであるから、それに自覚的であることは難しく、教師は日々の学校生活を維持するためにそれまでと同じ秩序をつくり続けるだろう。
その秩序の中で、自身が理解できコントロールできる性質を持った生徒の成長に積極的に関わることで、教師は喜びを感じ続けるであろう。
ならば、その秩序を維持し続けたいと思うことも無理はない。
では次の章で、教師がいかにしてその「秩序」をつくっているかを見ていきたい。

④教師はいかにして教室の「秩序」をつくるか

 赤尾が目配せをすると、白石がいつもの五倍はあろうかというほど大きな太い文字で、黒板にある言葉を書きはじめた。
《結果より▢▢》
「さあ、▢▢のなかには、どんな言葉が入ると思う?」
 赤尾の問いかけに、「気合」「練習」「中身」――いろいろな言葉があげられたが、ついに正解は出てこなかった。赤尾の合図に、ふたたび白石がチョークを手に取る。
「結果より・・・・・・成長?」

『だいじょうぶ3組』乙武洋匡 講談社文庫 2012年 p130より
*太字は筆者による。また▢▢の部分は実際には二文字分の空白

作家の乙武洋匡氏は、2007年から2010年まで杉並区の小学校で教員をしていた。『だいじょうぶ3組』は、その体験を元に書かれたフィクションの小説で、2013年には映画化もされている。
引用した場面は、子どもたちがとある結果を求めて努力してきたものの、それが叶わず落胆しているところに、乙武氏がモデルとなっている赤尾先生が、その経験を学びに昇華させるべく生徒に語りかけている、というシチュエーションだ(ここに至る過程がとても感動的であるため、ぜひ小説もしくは映画を観てほしい)。
私はこの作品を読んで(観て)確かに感動したけれど、「▢▢」の部分がなぜ「気合」や 「中身」では間違いなのだろう、そもそも「結果より成長」という主張が正しい根拠はないのに、なぜ先生が「正解」と言ったからといってそれが「正しい答え」になるのだろう・・・と考えた。
望む結果は得られなかったかもしれないが、非常に充実した内容を残すことができたとしよう。自分たちらしさを貫けたのだから、この結果に満足して次につなげよう・・・そう言った意味での「結果より中身」であれば、十分に「正解」になりうるのに・・・。

これはあくまでもフィクションの世界における一例にすぎないが、現実の教室でも、実際には多様な回答が認められるべき問いであるにも関わらず、教師が「正解」だと思っている答えしか認められない、といったことはしばしば起こり得る。読者の中にも、算数や数学の授業でまだ習っていない解き方で解いたら「×」がついたという話を聞いたことがあったり、文章の多様な解釈が可能なはずの国語や道徳の授業で自分の答えが理不尽に否定された経験を持っている方もいることだろう。

実際の社会では、「答え」というものはさまざまな現実的な状況を踏まえて自分でつくりあげていくものだ。だからこそ難しく、やりがいがある。そして学校は、子どもたちが自分で答えをつくる力を鍛える場でなければならない。
しかし現在学校において子どもたちは、「答え」は「先生が持っているもの」ということを何年も何年もかけて刷り込まれるため、社会に出る頃には、「正解」を求めるあまり失敗を恐れるようになり、自分が得たい結果を求めて行動する勇気がなくなるか、そもそも自分の欲望を「見ないフリ」をするようになってしまう。

教師が答えを持っていて、生徒はそれを当てに行く、という現象が繰り返されていることからも、教室にはある秩序が存在することがわかる。それは、「教師が”主”であり、生徒は”従”である」という秩序だ。それを踏まえた上での回答でなければ、教室においては「正解」にならない(なりにくい)のだ。

これらの問題を解決するために、学習指導要領の内容も改訂され、「探究」という教科が設置されたことは、すでに第二章でも見てきた。
そこでこの章では、教師がいかにして教室内に「秩序」をつくりあげるのかを見ていく。

生徒との対話の形式と授業実践

教室の秩序がつくられていく過程を理解するためには、授業における教師と生徒との会話を分析することが有効だろう。
研究者のべラックらがアメリカの学校における授業を分析した結果によると、授業内における会話は「教師が発問し生徒が応答し、それに教師が評価をくだす」という形式のものが通常の8割近くを占めるという(『教育方法学』佐藤学 岩波書店 1996年 p91)。また佐藤学氏の調査によると、日本の中学の地理の授業でもほぼ同様の結果が見られたという。
このことから「教師は教室で大きな権力を行使しているのだが、その権力も生徒の支持と協力に依存している」(同著p92)ということがわかる。加えて、前章で見た教師にとっての児童・生徒の好ましいタイプ(素直、積極的、元気がいいなど)とは、この権力関係に従ってくれるタイプだということもうかがえる。

「教師が発問し生徒が応答し、それに教師が評価をくだす」という会話の形式が特殊であることは、一般の会話と比較することでより明確になる。メーハンの会話分析によると、一般の会話と教室での会話の違いは以下の通りだ。

<一般の会話>
A:What time is it now, Sarah?
B:Two thirty.
A:Thanks.

<教室の会話>
教師:What time is it now, Sarah?
生徒:Two thirty.
教師:Right.

一般の会話では、「知らない人」が「知っている人」に尋ねている。そして、尋ねた方は答えてもらったら「感謝」をすることがほとんどだ。
また、会話の主導権は相互に転換するか、片方が握っているとしても柔軟に進行する。
一方教室の会話では、「知っている人」が「知らない人」に尋ねるという、一般の会話とは逆の構図になっている。
加えて会話の主導権は一貫して教師が握っているという、一般の会話からすると少々レアなケースとなっている。

これまでさまざまな研究者が教室内の会話を分析してきたが、多くの場合

What time is it now, Sarah?(教師の主導
Two thirty.(生徒の応答
Right.(教師の評価

というステップで会話が構成されているということがわかっている。

教室内での会話と同様、授業の「構成」にも形式がある。
授業の構成とは、例えば国語の授業で『走れメロス』を扱う場合、
①本文に入る前に、今日扱う内容の確認や、内容に関するちょっとしたエピソードを伝えたりする(導入)
②本文の読解や登場人物の行動についてのディスカッションを行う(展開)
③今日学んだ内容の確認をする(まとめ)
といった流れで授業が行われるが、この「導入→展開→まとめ」という流れのことを授業の「構成」と呼んでいる。
もちろん、1年間のすべての授業がこの構成で行われるわけではないが、「導入→展開→まとめ」の流れはどの教科でも使えるものであり、教員はたいてい、大学の教員養成の授業や教育実習等で、この流れにそって授業をつくる訓練を受けているはずだ。メーハンの分析では、教師の発話の88%が、この構造に即したものだったという。

教師は、この「導入→展開→まとめ」の流れで授業を行うということを、生徒に対して言葉にして伝えるということはあまりしないだろう。しかしながら生徒は、普段の授業における教師の45分の使い方から、この流れがあることを理解することができる。授業開始のチャイムが鳴ってからいきなり「山賊に襲われたメロスの心情を説明せよ」という質問はしないだろうし、残り3分のところでまったく新しい内容のプリントを配ることはめったにない。子どもたちは、そのような教師の振る舞いを何度も何度も見ることで、授業のはじまり・中間・終わりの各パートにおいて、教師の話す内容や学習のための活動内容は基本的に同じような型がある、ということを学習する。
そのため児童・生徒にも、この流れにそって自身の言動をコントロールすることが求められる。「まとめ」の段階で「導入」に位置付く疑問を提出することは遠慮しなければならない。

これらの構造は、「教室経営や生徒指導の労力を最小限にして授業と学習に専念することができる」(『教育方法学』p96)という、教師と生徒の双方にとってのメリットを生み出している。「導入→展開→まとめ」という形式があることによって、生徒の方も「今何をやる時間かわからない」ということが少なくなるのだ。
その一方でこの構造は、「授業の展開を形式的手続きへと転落させ, 教師の活動と生徒の活動の創造的な性格を奪ってしまう」(同著p96)という性格も持ち合わせている。教師が尋ね、生徒が答える、という形は教師にとっても生徒にとっても慣れ親しんだものだが、生徒にとっては「さっき発言したから当分は大丈夫」と思考を使うことを放棄してしまうことも多くなるし、教師と生徒の一対一の関係になってしまいやすいため他の生徒が聞いていない、ということもしばしば起こる。また生徒同士のディスカッションも行いづらい。
加えて、この構造において授業をする場合には、教師の認識の限界が、その教室で起こる生徒の認知活動の限界になりやすいということも指摘しておきたい。なぜなら、教師は自分がわからないことに関して問題を出すことはほとんどないからだ。これによって子どもたちは、自身の知的能力を教師以上に向上させる可能性をほとんど摘み取られてしまっているという非常に重要な問題がある。だが、これについて語るにはさらに一章を費やす必要があるため、ここでは深入りしないでおこう。

前章の内容を引き継げば、教師がつくり出すこれらの構造をいち早く理解し、それに沿って行動できる児童・生徒こそが、教師にとって好みやすい性質を持った子どもなのだ、ということが言えそうだ。教師が好む「努力家」「素直」「積極的」「さわやか」「元気がいい」「独創性がある」「思いやりのある」という性質を持った生徒は、教室の構造(秩序)の中でどのように振舞う生徒だろうか。学校に通った経験があれば、ありありとイメージできるのではないだろうか。
教師が一生懸命つくる秩序に積極的に加担してくれる生徒。そのような生徒は教師に安心を与えるだろうし、教師にとってありがたく、嬉しいはずだ。

教師と生徒の会話について、今度はネガティブな状況におけるパターンを見ていきたい。
これらの秩序を壊す生徒がいた場合に、教師はどのように対応するのだろうか。その対応に秘められた、教師の意識とはどのようなものだろうか。

米国の心理学者であるゴードンは、教師と生徒の間に問題が発生した際に教師がとるコミュニケーションを「非受容を表す言葉」「あなたメッセージ」「勝負あり法」という3つに分類している(『<講座学校 第6巻>学校文化という磁場』堀尾輝久 久富善之他 1996年 「2章 "教師という役割"と教師・生徒関係」近藤邦夫 以下引用部以外も同書参考)。それぞれ具体的には以下の通り

①「非受容を表す言葉」
子どもが「宿題が難しすぎる。僕にはできない」と言ってきた場合に、教師はしばしば、「文句ばっかり言っていないで、さっさとやってしまいなさい」(「命令・指示」)「宿題をやらずにすませるにはどうしたらいいか、そればっかり考えているんだろう」(解釈・分析・診断)「なぜもっと早く言ってこなかったの」(詰問)などの12の型からなる「非受容を表す言葉」を使う。
子どもは援助を求めているにもかかわらず、教師が「聞く姿勢」を取らないため、上記のような対応になるケースがある。ここには教師の「私が正しく、生徒である君が間違っている」というメッセージが隠されており、それを受け取った生徒は自信をなくすか、教師とのコミュニケーションをあきらめてしまうことにつながりやすい。

②「あなたメッセージ」
教師が生徒の言動によって、「教師としての欲求」(話を遮られたくない、生徒が散らかしたごみを拾いたくない、など)を妨げられたとき、教師は以下の三つの種類のメッセージを送る傾向があるという。
a 「解決メッセージ」・・・「今すぐ着席しなさい」(命令・指示)、「もう一回いたずらしたら、放課後も残すよ」(注意・強迫)といった、教師が解決策を生徒に与え、その解決策を生徒が受け入れるように期待し要求するメッセージ。
これらは、暗に「あなたがグズだから、私は困る」「私がボスだ」といったメッセージを含んでいるため、生徒の反抗や抵抗につながりやすい。
b 「やっつけるメッセージ」・・・「みんなの注意を集めたいから、そんなことをするんだ」(解釈・分析・診断)、「授業中おしゃべりばかりして、単位が取れると思っているの」(質問・尋問)などの、生徒を否定的に評価し、やっつけるメッセージ。
「生徒が原因で自分は問題を抱えている」と生徒を非難し、責任を生徒にとらせようとするため、生徒は教師を無視するか、抵抗することにつながりやすい。
c 「遠回しのメッセージ」・・・「君はいつから校長先生になったの」「お笑いの時間が終わったら、先に進もう」など、生徒をからかったり、話をそらしたり、生徒の気晴らしになりそうなことを言うメッセージ。
これは「解決メッセージ」と「やっつけるメッセージ」が孕む危険と対決を回避する比較的穏やかなメッセージとなっているが、そこには「まともに対決すると君は、私を嫌うかもしれない」「君に対して率直になることは危険だ」といった隠れたメッセージが含まれている。

「解決メッセージ」「やっつけるメッセージ」「遠回しのメッセージ」の3つのメッセージには共通する特徴がある。それは、教師である「私」が問題を"所有"し、 「私」が困っているにもかかわらず、直接的にそのようなことは伝えず、また「私」に関する情報も皆無である、ということ。そして常に「あなた」(生徒)を主語にして、「あなた」を責めるメッセージになっている、ということだ。

③「勝負あり法」
教師と生徒で意見や欲求が対立している場合、対立が解決するのは、自分(教師)が勝つか負けるかである、つまり生徒との対立は「勝負」であるという思考に基づいて行われるコミュニケーションが「勝負あり法」だ。
「最初が肝腎。とにかくコワモテでやるべきだ。そうすれば生徒は、誰が教室で一番偉いのか分かって、教室管理が楽になる」(同著p52~53)といった考え方に、生徒との対立を「勝負」であると捉える見方が表れている。
生徒とのコミュニケーションを「勝負」と捉えている場合、それに勝つために教師の側は命令、指示、脅迫あるいは賞罰や体罰などを用いて生徒の意向を押しつぶそうとすることがある。そうやって勝負に勝った場合は教師の意向が通るが、負けた生徒の心には怒りや劣等感、無力感などが生まれる。
一方教師が勝負に負けた場合は教室をコントロールすることができなくなり、教師の側に怒りや劣等感、無力感が生まれる。秩序を回復しようとして再び、命令、指示、脅迫、賞罰、体罰等を用いることもある。

ここまで見てきた3つのコミュニケーションの方法から、生徒との関係における教師の意識が読み取れる。それについて近藤は幅広く分析を行っているが、ここでは要点を絞って記したい。
「非受容を表す言葉」「あなたメッセージ」「勝負あり法」の3つのメッセージに共通していることは、「教師についての情報がない」ということだ。これが意味していることは、
・教師が子どもに伝えるメッセージは、「私個人としての意見ではなく、常識や規範を”代弁”しているだけなのだ」というもの。
・「私の方が知っている」「私のほうが正しい」(教師が正しくて、生徒が間違っている)という暗黙のメッセージを伝えている、というもの。
・「教師はありのままの自分をさらけ出してはいけない」などの神話が教師を縛っているということ。
ということだ。
これは大学教育をはじめとする日本の教育の問題だが、教師といえども論理的思考や情報収集・編集の技術、あるいは教師として必要な教育技術をしっかりと訓練し、それらを身につけた上で教師になっているわけではない。
加えて企業に勤めた経験もないため、その点に関して自信がない状態で教師をやっている人も多い。
そのような人物(自信がないのも無理のないことだ)が、「教師という”役割”」と自分を同一化し、ありのままの自分を隠して「完璧な大人」を演じることで、何とか児童・生徒に対して威厳を示し、教室の中での主従関係とそれに伴う秩序をつくることを正当化しようとしている、というのが日本の教師たちの現状ではないだろうか。
本来授業の形態というのは、幕末にさまざまな塾で行われていたように、生徒同士で教え合うなど、教室の中の関係性のつくり方も含めてさまざまなものがあってよいはずだ。
しかし、教師が主従による秩序を守ろうとするあまり、他の形態で授業を行う可能性が非常に狭くなってしまっている。
また、教師が自分自身に向けた完璧志向は生徒にも向かう。教師は児童・生徒に対して「あるべき姿」という期待や規範を持ちコミュニケーションをとっている。そのため、自分の理解から逸脱した行動を取る子どもに対して過度に否定的になってしまうのだ。

ここまで教師の教室での会話について確認してきたが、このように「教師が主で生徒が従」の関係性をつくりあげ、完璧を期するあまりその形に固執すると、その形になじめなかい子どもが自信を失ってしまうなど教室の中にさまざまな問題が発生するし、第二章で見てきたような今の時代に合った力を育成する新しいスタイルの授業に移行することが難しくなる。

実際に、日本の教師がその呪縛に囚われていることが、データからもはっきりと見て取れる。

TALIS2018報告書 ――学び続ける教員と校長―― の要約』より筆者作成

ここに示したデータは、OECD国際教員指導環境調査(TALIS)が発表した『TALIS2018報告書 ――学び続ける教員と校長―― の要約』において示された中学校教員の指導方法についてのデータの一部をまとめたものだ。色分けされた棒は左から、日本(オレンジ)、アメリカ(黄色)、フィンランド(緑)、TALIS参加48か国の平均(水色)の割合となっている(*④-1)。グラフでは文字量の問題で各質問項目を省略しているため、結果とともに以下に記しておく。

・(一番左)授業の始めに目標を設定する
日本:84.3% アメリカ:84.5% フィンランド:64.2% TALIS平均:83.4%
・(左から二番目)新しい学習内容と過去の学習内容がどのように関連しているか説明する
日本:63.1% アメリカ:87.7% フィンランド:72.9% TALIS平均:86.2%
・(左から三番目)明らかな解決方法が存在しない課題を提示する
日本:16.1% アメリカ:27.6% フィンランド:34.5% TALIS平均:37.5%
・(右から三番目)批判的に考える必要がある課題を与える
日本:12.6% アメリカ:78.9% フィンランド:37.2% TALIS平均:61.0%
(右から二番目)完成までに少なくとも一週間を必要とする課題を生徒に与える
日本:11.1% アメリカ:33.0% フィンランド:22.4% TALIS平均:30.5%
(一番右)生徒に課題や学級での活動にICT(情報通信技術)を活用させる
日本:17.9% アメリカ:60.1% フィンランド:50.7% TALIS平均:51.3%

パーセンテージは、「自らの授業において授業の始めに目標を設定する」などの指導方法を「しばしば」または「いつも」実践していると回答した教員の割合だ。

「明らかな解決方法が存在しない課題を提示する」「批判的に考える必要がある課題を与える」「完成までに少なくとも一週間を必要とする課題を生徒に与える」「生徒に課題や学級での活動にICT(情報通信技術)を活用させる」という、思考力や創造性あるいはICTを活用する技術など、今の社会で必要な能力を身につけることに関連する4つの授業実践において、日本の数値は明らかに低い。パーセンテージもそうだが、48か国の順位で見てもすべてワースト5に入っている。「批判的に考える必要がある課題を与える」に関しては10%台は日本だけだ。
これら4つの項目が10%台であるということは、第二章で見た教師の学びの現状において、熱心に読書をしたり研修に参加したりしている教員が10%程度であったことと関連しているように思える。

その一方で、「授業の始めに目標を設定する」「新しい学習内容と過去の学習内容がどのように関連しているか説明する」の2つは、日本の教師の実践としては多い方だ(後者は48か国の平均と比べて20%も低いが)。

では、日本の教員の中でのパーセンテージの高低は何の要素によって決まっているのだろうか。
これまで見てきたように、教室の中で主従をつくることで子どもをコントロールし、自身に対して完璧を期すというのが教師の性質であった。
ならば、どちらかと言えばパーセンテージが高い2つについては、”コントロールでき”かつ”難易度が低く「失敗」がほぼない”ということがその高さの理由として推測できる。
逆に、数値が低い4つに関しては、”内容をコントロールすることが難しい”かつ”難易度が高く「失敗」するリスクがある”ものである。
例えば「明らかな解決方法が存在しない課題を提示する」では、児童・生徒が課題に取り組んでいる際に解決方法がわからず、教師に助けを求めることが想定される。しかし「明らかな解決方法が存在しない」ことは教師にとっても同じであるため、教師は子どもたちの助けに応じることができない。そうすると、教師は児童・生徒にとって「完璧」でないことが露呈してしまう。
そもそも「明らかな解決方法が存在しない課題」をデザインすることが難しいということもあるかもしれないが、今の時代、調べれば例はいくらでもある。それを調べればできるのにやらないのは、教室の秩序をコントロールすることにコストがかかること、そして子どもたちにとっての完璧な自分というセルフイメージを失う喪失感が予想できてしまうため、むしろ教師の心の中に、「避けたい」という潜在的な欲求が潜んでいるからなのではないだろうか。
また、「批判的に考える必要がある課題を与える」「完成までに少なくとも一週間を必要とする課題を生徒に与える」のふたつも、これと同様あるいは類似の理由で実施が避けられていると思われる。

「生徒に課題や学級での活動にICT(情報通信技術)を活用させる」に関しては、教員のリテラシーが追い付いていないという問題もある。年配・若年問わずICTを活用した経験の薄い教員にとって、ICT機器は”コントロール”ができないものであり、生徒の方がはるかに早く使いこなしていくことが予想できる(それにより教師は生徒に対する優越を失ってしまう)。インターネットに繋がることで起こるトラブルに関しても、「正しく」予見できないため、必要以上に恐れて禁止事項ばかり増やすか、そもそも導入もせず子どもからICT機器を遠ざけてしまうということが起こる。
これは笑い話だが、ある自治体では、教員がGoogleに対して「おたくの会社のセキュリティは大丈夫ですか」と聞いたという話もある。

これらのことからも、教師たちが「自分が”コントロール”できることを”完璧に”こなさなければならない」という思いに囚われ、新しい学習スタイルに授業を変革していくことを避け、自分が体験してきた古い学習スタイルに固執している心の内が透けて見えてくる。


(*④-1)アメリカとフィンランドのパーセンテージにも触れておこう。フィンランドについては、意外にもほとんどの項目で平均に達していない。もちろん日本と比べたら”新しい学び方”を実践している率が高いと言えるのだが、世界(48の国と地域)の中ではむしろ低い方に入る。
それでもフィンランドは世界最高レベルの教育を行っており、ひとりあたりのGDPも順調に上げている(第一章参照)のだから、テストのやり方など、TALISでカバーしていない部分に要因があるのだろう。
また、アメリカは問題も多い国ではあるし、学校や地域ごとに大きな格差があることが予想されるものの、少なくともTALISのデータに現れる部分を見る限りでは「やるべきことはやっている」ということは言えそうだ。
TALISの平均を見ていただければわかるが、アメリカやフィンランド以外の国でも、教師ひとりひとりが責任を持ち、今の時代に合った力を子どもたちに身に着けさせるためにさまざまな取り組みをしている国は多い。


教師には、授業を改善する「時間がない」のか

日本において授業が変わらないのは、単に教員が部活や雑務に追われて授業を準備する時間がないからであって、ここまで見てきたような教員の潜在的な心理がどうなっているかとは関係ない、ということも考えられるだろう。
実際に、ベネッセの『第6回学習指導基本調査 DATA BOOK(小学校・中学校版) [2016年]』の第5章「教員の勤務実態と意識」によると、「教材準備の時間が十分にとれない」ということが教員の悩みの中で大きなものとなっていることがわかる(小学校:90.5%(1位)、中学校:83.3%(1位)、高校:70.2%(5位))。
また「作成しなければならない事務書類が多い」という悩みについては、
小学校:84.9%(2位)、中学校:76.0%(1位)、高校:71.7%(4位)
となっている。
確かにこれらのデータを見る限り、日本の教員が事務仕事に忙殺されており、それによって授業の変革が妨げられているということができそうだ。

しかし、日本の教員はほんとうに授業の準備に時間を費やすことができていないのであろうか。
先ほども確認した『TALIS2018報告書 ――学び続ける教員と校長―― の要約』によると、日本の中学校教員が1週間の仕事時間の中で「一般的な事務作業(教師として行う連絡事務、書類作成その他の事務作業を含む)」にかけている時間は5.6時間で、TALIS参加48か国平均の2.7時間に対して2.9時間も多い。
その一方で、「学校内外で個人で行う授業の計画や準備に使った時間」も見てみると、TALIS参加48か国平均の6.8時間に対して、日本の教員は8.5時間と1.7時間も多く費やしていることがわかる。
ここから、日本人の学力の高さ(第1章PISAの結果参照)は教員の多忙の上に成り立っているということを読み取ることもできる。だが、フィンランドの中学校教員が1週間の中で授業準備にかけている時間は、なんとわずか4.9時間である。フィンランドの教員は、たったの週4.9時間の準備で「明らかな解決方法が存在しない課題を提示する」「批判的に考える必要がある課題を与える」「完成までに少なくとも一週間を必要とする課題を生徒に与える」「生徒に課題や学級での活動にICT(情報通信技術)を活用させる」といった今の社会に必要な学びを、日本の教員の2倍以上は提供しているのだ。
ちなみにイエナプランなど優れた教育システムを持つオランダも、週の授業準備にかける時間は4.9時間だ。ちなみにアメリカは平均より少し多い7.2時間となっている。
この数字から、日本人教師は――個人個人によって事情は違うだろうが、平均すると――多忙ではあるものの授業準備の時間も世界一多く確保(捻出)していることが見えてくる。
これらの事実をベースに考えたとき、実は日本の学校の教員は、主観的には事務作業に忙殺されて授業準備が満足に行えないと感じているのだが、実は生産性が低いために満足に授業準備ができていると感じることができない、という面もあることがわかる。
フィンランドは4.9時間の授業準備で、子どもたちを世界トップクラスの学力水準に到達させることに成功している。ということは、フィンランドの教員のコストパフォーマンスは、日本人教員の約1.7倍ということになる(日本の子どもたちの学力も世界トップクラスだ)。日本人教員が忙しすぎるということは見過ごせない事実だが、一方で働き方のまずさも問題である。このことから、日本の教員が事務作業で忙しく、授業準備の時間が取れないから新しいスタイルの授業を実施することができない、と結論づけることはできない。
これだけ授業準備の時間があるにも関わらず、「やっていない」のだ。
だから今後は、事務作業や部活にかけている膨大な時間を削減できるように教員の労働環境を整えたうえで、大学の教員養成や教員研修によって、労働生産性を上げ、新しい授業をデザインすることができるようになるための取り組みもしなければならない。

ここまで、教師がいかにして教室に秩序をつくり、その秩序を維持しているかを見てきた。教室では、教師が理解できること、コントロールできることだけで秩序が構成され、それ以外は「なかったこと」になってしまう。
もちろん、このことは「明らかな解決方法が存在しない課題を提示する」といった授業を実践していても絶えず付きまとうことなのではあるが、日本の教員を見る限り、教室をコントロールすることが難しくなるそれらの取り組みは、「トライしているのにできない」のではなく、むしろ「避けられている」ということがわかる。
そして、教師が取捨選択したこれらの秩序の中で、第3章でも確認した「教員の幸福」が生まれている。
ここに、矮小化された「父性」を発揮しつつ、外部から閉じられた空間において自らがつくった秩序の中で子どもとの関係性を楽しんでいる教師の姿が浮かび上がってくる。
こう書くと、いかにも教師がワルモノのように見えてしまうが、責任のすべてを教師に押し付けることはできない。
なぜなら、「学校」や「教室」の側が、あるいは「教師という仕事」の側が、教師にこれらのことを強いている側面もあるからだ。
次の章では、学校が外部から閉じられた空間になってしまう理由を明らかにしていきたい。

⑤「教職」「学校」・・・変化を阻害する外的要因

学校の授業が時代に合ったものに変わっていかない原因は、個々の教員のアイデンティティや職業的な自己実現の志向性に問題がある、というだけではない。むしろその根本原因として、教員の意欲を奪い、能力を発揮することを妨げる”外部的な要因”がある。
この章では、「教職」という職業が、あるいは「学校」という組織が持っている性質を細かく確認することで、その原因と結果を明らかにしていきたい。

「不確実」な仕事の不安

授業や部活動、生活指導など、教員が求められる仕事には「不確実性」が満ちている。そしてこの「不確実性」が原因となって、教員の中に「保守主義」「個人主義」「現状主義」が生まれる。これは、アメリカの社会学者ダン・ローティが、2000人以上の教員への調査を土台に出した結論である(『スクール・ティーチャー 教職の社会学的考察』ダン・ローティ 佐藤学監訳 2021 学文社*初版は1975年)。
では、この「不確実性」とは何だろうか。

例えば、それは仕事における工程に現れる。
何かものをつくる職人であれば、作業モデルや青写真、計画、詳細仕様を活用できる。
それに対して教師の仕事は、上記のような考え方自体が「子どもの個性の尊重」といった社会や教育において重要視されている方針と相容れない。
あるいは、モノづくりの職人であれば作業段階において自分が関わるべき役割(範囲)は明確で、最終的なアウトプットに対して「ここからここまでは自分がやった」ということも言いやすい。しかし教師は卒業した児童・生徒に対して何らかの影響を与えている可能性は十分にあるものの、その子のどの部分に対する影響が自分の仕事によるものなのか、ということを断言することは極めて難しい。

上記に加え、教職は「評価の基準」も不確かだ。
教職以外の仕事、例えば弁護士においては、評価の基準は「訴訟に勝つか負けるか」であるし、技術者がつくった橋であれば、その評価の基準は「所定の重さに耐えられるか否か」である。
だが教師はもっと多様な観点から評価される。私(筆者)が学生だったときに授業を受けた経験上、興味深い雑談など、いわゆる"脱線"をしてくれる先生の授業は魅力的だった。私と同じように感じていたという読者もいらっしゃることだろう。だがその授業は、ある子どもにとっては(”脱線”の内容に興味のない子どもにとっては)単元の理解に支障が出る魅力のない授業、ということになるかもしれない。
余談にはなるが、もし児童・生徒にある授業の良し悪しを評価させる場合、その評価には、教師の容姿や話し方、またそれ以前に同性か異性か、年齢が近いか遠いか、といったことも入り込んでくるケースがあると予想される(私が高校生のときに授業を受けていた世界史の教師は、歴史上の人物について、教科書には載っていない細かいエピソードを紹介してくれて、それがとても興味深かった。しかし、ときにその人物に関する性的なエピソードについても話すがゆえに、女子生徒から著しく評判がわるかった。だが、そのような女子生徒からの評判も、その中年男性の教師がもう少し若く、身長が高く、髪の毛もあり、端正な顔立ちだったら違ったものになっていた・・・かもしれない)。

これらはあくまで一例に過ぎず、教職を評価する観点は実に多様だ。ローティ曰く、教職の成果は「道徳的、美的、科学的な価値の観点から一斉に評価される」(『スクールティーチャー』p199)のだ。
さらに突き詰めれば「道徳的」であるとはどういうことなのか、といった答えさえも、確実ではない。例えばある子どもに特別におにぎりを買ってあげた教師が「不公平だ」と非難されたとしよう。しかしその子どもが貧困にあえぐ家庭の子どもだった場合にも、それは「道徳的でない」と評価されるべきことだろうか。
また「美的」とは何なのか。学ぶ楽しさを重視した授業なのか、それとも一糸乱れぬ秩序のもと、学力を向上させることに邁進する、効率的ではあるが息苦しさも伴う授業なのか。
「科学的」とは何か。教科書の内容も執筆者のひとつの解釈にすぎない社会科や国語科において科学的とは何なのか。誰に対しても有効な教育が存在しない中での「科学的」な授業とは何なのか(もし、教室の子どもたち全員に対して一人残らず同等の効果を上げる教育があるのであれば、それはもはや民主主義国における教育として「美的」であるとは言い難いものなのではないか?)。
このように、疑問は無尽蔵に浮かんでくる。教職を評価する基準をつくるのはそれほどに難しい。

さらに、教職は「評価するタイミング」も難しい。
パイロットは、離陸がうまくいったかどうかは離陸した直後にわかる。営業の仕事も、少なくともひと月に一度は自分の売り上げが目標に達しているか否かを確認する機会があるだろう。
対して教職。例えば道徳教育を行う教師にとって、児童・生徒が道徳的に成長したかどうかは、少なくとも数か月、場合によっては何年も経ってみないとわからない。

ローティはさらに多くの例を示しているのだが、これらのことから教師は『仕事の目的, 目標, 効果, 結果, 価値のすべてにわたって「不確実性」が支配している職業である』(同著pⅴ~ⅵ)ということができる。そして、これらの問題に対する専門的・科学的な回答は今のところ――「今後も」なのかもしれないが――は存在しない。

このような「不確実性」を抱える教師たちは、それへの反応として「保守主義」「個人主義」「現状主義」を示す。これらはどのように教室の変化を妨げているのだろうか。次はそれを見ていこう。

(1)保守主義
「不確実性は、安心を保証する構造の欠如のゆえに、不安の感情へと発展することがある」(『スクールティーチャー』p294)
「許容できなレベルの不安をかかえる教師は、よりすぐれた解決策の模索を諦め、過去から知っていることに固執する可能性が高い」
(以上『スクールティーチャー』p294より)

教職に固有の「不確実性」があることは、ここまで見てきたとおり。
そのような不確実な現実と否応なく向き合う中で不安が生まれてしまうことは、教師でなくとも無理のないことだ。
そして、そのような不安から逃れて「安心」するために、仕事の中で危険を冒さないようにすることもまた、無理のないことだ。

この構造により不安を持った教師は、教室の中を「いつもと同じ」であるようにコントロールする。それが保守主義というわけだ。

また、学校は保守主義がゆるされる場所でもある。企業は変革しなければ生き残れない(もしくは規模の縮小を強いられる)が、教室は変革しないからといって生徒がそこに来なくなってしまうことはまれだ。
今、教室そして授業は変化することが求められている。しかし、教師は保守主義にどうしても陥ってしまう。
見方によってはこの状況は、教師は教室によって外部(社会)の要求から守られている、と捉えることもできる。

(2)個人主義
教師は、自分で自分の仕事ぶりを評価することが難しい。
その中でやりがいを見出すには、教師は自分自身で教育効果の指標を選択していかなければならない。
このようなとき、教師は自ら教育の「目標」を自分で決め、それを自らの「能力や関心」と合致させようとする。

例えばここに、論理的思考のスキルはさほど身についていないが、一生懸命取り組むことや人から言われたことをしっかりとこなすということに価値を見出している教師がいるとする。
その場合この教師が、生徒に対しても論理的な思考よりも熱心さや従順さを求めたとしても何ら不思議ではない。
この教師は、生徒を授業態度や提出物、あるいは「黒板に書いた内容どおりにノートをきれいに書いている」といった事実によってのみ評価し、生徒が論理的思考力を発揮したかどうかについてはさほど重きを置かなくなるだろう。
そしてこの教師は、自分が受け持つクラスの生徒の多くが、自分が望んだ行動ができるようになったときに、自分の教育が「うまくいっている」と評価するだろう。

念のために補足しておきたいが、私はこのような教師の教育方針がダメだと言いたいわけでない。クラスの状況によっては、論理的思考力を育てるよりも、このような活動をすることが求められるケースも十分に考えられる。
しかし、この教師がこれらの体験をもとに、「自分が行ってきた教育が正解である」と思ってしまうと、時代の変化に置いてけぼりを食らってしまう可能性が高くなる。
実際、人間は自分の経験を絶対視しやすい生き物だ。
自分で決めた目標を、自分なりのやり方で達成し、自分で良し悪しを評価する。
この一連の流れによって、教師には「個人主義」の感情が芽生えてくるのだ。
ローティは、「自分の目標」と「自らの能力や関心」のバランスが取れると、「教師は、変革を推進する条件に抵抗する可能性」(同著p295)が生じると指摘する。教職的な「個人主義」に陥った教師は、自らのやり方を改めることがとても難しくなってしまうのだ。

さらに、教師たちは「こうすれば生徒はこのように成長する」といった「標準技術」を持たない(個性を持った人間を一律に育てるような技術は存在しないし、無理やりそうすることは果たしてよいことなのだろうかという道徳的な疑問が生じる)。
「標準技術」を持たないために、教師は自分自身で対処法をつかんでいくしかない。このことも「個人主義」を誘発する。
自分の経験をとおしてつかんだ対処法について、客観的・分析的な見方を持たないのであるならば、それが絶対視され、他のことは重要ではなくなっていく。
「このやり方は自分で身につけたものだ」という感情が絶対的になるにつれ、他の人から学ぶことも少なくなっていくものだ。だから、教師同士の協働はあまり重視されず、学校全体としてそういった傾向が形成されていく。
この状況が長引くならば、ますます学校そして授業の変革は難しくなるだろう。

一方で、ローティによると、教師の中にある不確実性から生まれる不安の感情が「恭順を誘発する場合」(同著p297)も見られるという。これは、直面する課題を自分で考えて解決しようとするのではなく、不確実な状況への対処法に自信が持てず、他人の示す方針や解決策にすがり、それによって解決をはかるようになる、ということだろう。
もしかするとこのケースは、上から「変えなさい」と言われたら変える可能性は高いのかもしれない。そういう意味では日本社会のためにはプラスに働く可能性もある。だが、ずっと不安を抱えたまま仕事をしなければならないのも気の毒である。

(3)現状主義
「教師は、経験を積んだとしても、十分な達成感を得ることが困難」(同著p297)であり、それらによって未来の成果も保証されない。
そういった未来への不安から、教員には「現状主義」が生まれやすい。未来にもっと良くなる、という希望が持ちにくいため、新しいことを学ぶ意欲も起こりにくいというのだ。

多くの教師にとって、「教室の出来事は理解の範疇を超える」(同著p298)と感じられるそうだ。そうなのであれば、将来のために教育について学ぼう、探究しようという気は起こりにくいであろう。

だが、この結果は第二章「教師の学びの現状」で見てきた事実とは矛盾するように思われる。日本の教員は、半数は最低でも月に1冊は本を読むなど学びに向かう姿勢を示しており、これは他の職業よりも多い。また1割の教員は月に5冊以上の本を読み、外部の研修やセミナーにも熱心に参加している。

それにも関わらず教育が変わっていかないことが問題だと考察したのだが、「現状主義」の内容と照らし合わせて考えるなら、もしかすると教員の学びは、現状主義を強化する方向での学びになっているのではないか。


ここまで、教職につきものである「不確実性」と、それによって教師の中に発生する3つの傾向について見てきた。

学校では、それぞれの教室が「保守主義」「個人主義」「現状主義」を持った教員によって運営されており、教室と教室は連携のないまま分断されている。この状況をローティは「卵のパッケージの構造」と呼んだ。教師は、パッケージの中の卵と化したそれぞれの教室で、「不確実性」からの逃避を試みている、と言えるだろう。
それは、不安に対処するための安全圏としての教室だ。孵化する前の雛鳥が卵に守られるように、あるいは生まれる前の赤ん坊が母胎によって守られるように、教師たちは自分の教室で自分が心地よいと感じることのできる秩序をつくり、そこで自らの心身を守っている。
もちろん、教師のメンタルヘルスが守られることも重要だ。教師たちに安心安全に仕事をしてほしい、という願いは私たちの間に共有できるものに違いない。しかし社会の現状を考えたときに、教室が維持してきた古い秩序は破壊されるべきであり、時代に合った新たな学びの場を生み出していかなければならない。それが各教室で行われていないことが問題なのだ。

教員のハビトゥスと学校組織の"共犯関係"

実は、多くの教員は教育についての専門的な力量が乏しく、学校組織がそれを隠蔽している。そのように言ったら驚くだろうか。
もちろん、これは潜在的な、あるいは構造的な問題のことだ。価値ある授業を行えていないということを、学校が組織ぐるみで隠蔽しようとしているというケースは実際にはほとんどないだろう。
だがそうは思っていなくとも、以下の2つががっちりと結びつくことで、実際にこの「隠蔽」が起きてしまっている。
その2つの要素というのは、
1.教員が児童・生徒や保護者から信頼を得ようとする際の"身の施し方の傾向"(ハビトゥス)
2.学校組織が持っている性質
である。これらが共犯関係を結ぶことで、教師が時代に合った教育者として必要な力量を伸ばそうとせず、その状態が続いてしまう、ということが起こっているのだ。
では、その2つの要素をそれぞれ確認していこう。

(1)教員のハビトゥス(身の施し方の傾向)
それでは、まずは教員の"身の施し方の傾向(=ハビトゥス)"から見ていこう。
以下に示すのは、「教員が自分自身の持ち味をどう思っているか」についての調査結果である。

『<講座学校 第6巻>学校文化という磁場』堀尾輝久 久富善之他 1996年(書籍)『4章 学校制度の中の教員文化――信頼のゆくえ』山﨑鎮親
『教師文化のオートポイエーシス ―小中学校教師調査の結果から―』石戸教嗣,山﨑鎮親,児玉重夫,久富善之,小澤浩明 1995年 日本教育社会学会大会発表要旨集録,205-210,1995(論文)より筆者作成

表の文字だと小さくて見にくいという方のためにテキストでも記す。上から順番に

・何ごとにも真剣に取り組むこと 22.2%
・いつも明るいこと 15.1%
・わけへだてがないこと 13.2%
・まじめなこと 12.3%
・勉強・研究に熱心なこと 3.9%

となっている。

ちなみに、上の4つは教員が自分の持ち味だと認識していることの1位から4位である。「まじめさ」「明るさ」という自分のパーソナリティに関わる性質や「公正さ」という道徳的・倫理的な事柄が自分の持ち味としてとらえられていることがわかる。
一方で、知識を扱う職業であるにもかかわらず、「勉強・研究に熱心なこと」を持ち味としてとらえている教員は3.9%と非常に少ないことがわかる。

この3.9%という数字は、少し不安になる数字である。
教師は「教育のプロ」のはずだ。もちろん、学校によってさまざまな状況が考えられるため、知的であるよりもむしろ、その身ひとつで子どもにぶつかっていくことが求められる学校もあるだろう。
だが、子どもを育てたり、授業を行うという点ではどの学校も共通しているはずである。もし、少しでも興味深く意義ある授業をしようとするならば、あるいは子どもの学びや成長の手助けをしたいのであれば、そのための勉強や研究をすることは、プロとして当然であるはずだ。
仮にある弁護士が、「私は知識は少ないですが"まじめさ"や"明るさ"には自信があります」と言っていたとしよう。あなたはその弁護士に弁護を頼みたいだろうか。
この弁護士の例と同じようなことが教員にも考えられる。もし私だったら、子どもとの接し方や自分の教科に対して理論を持っておらず、その理論を勉強や研究によってブラッシュアップしようとしない教員には、自分の子どもを預けたいとはあまり思わない。
このように考えるのは私だけではないと思っているのだが、読者諸氏はいかがであろうか。

にも関わらず、未だに多くの学校では、勉強や研究に熱心であることや、高い教育技術を持っていることではなく、まじめさや明るさ、公平さによって教員であることが成り立ってしまっている。
「成り立ってしまっている」とあえて書いたのは、このような状況があることによって、新しい技術や知識を身につけようとしない教員が自然に淘汰されていかず、学校に変革が起こらなくなってしまうからだ。

ではなぜ、教員は「まじめ」で「明るく」、「公平」であることのみによって(もちろんこれらの資質は素晴らしいものだ。ないよりはある方がいいに決まっている)、教育技術や知識のアップデートを行わずとも教員という「教育のプロ」たり得てしまうのか。
その理由を、学校の組織構造から紐解いてみようと思う。

(2)学校組織の構造
学校において生徒は、校則や時間割、カリキュラムなどを通して「組織」されている。
そして教員は、以上を取り決めることによって生徒の学習と行動を「組織」している。
と同時に、教員自身も「組織」されている。
教員は、決められた時間に出勤し、一定程度定型的な指導を行い、決められた手順で採点や評価を行うという反復的な行動パターンを取っている(取らされている)。
このような反復的な行動パターンを取っている(取らされている)ことが、教員が組織されていること、また学校が「組織」であることの証拠である。

社会学の知見によると、学校は「官僚制的組織」であると言われる。
官僚制の特徴は以下の通りだ。
1. 標準化・・・規則やルーティーンで仕事が行われる
2. 文書化・・・職務上の意思決定や行為が、公式の、多くの場合文書化された規則にのっとって行われる
3. 特化・・・・職務が専門分化している
4. 集権化・・・権限が階層化されている
(『教育社会学』有斐閣ブックス 1992 より)

これらによって、組織に正確さ、迅速さ、明確さ、統一性、継続性、コスト節約といった恩恵をもたらすことができる。これらは、目的や意思決定が支配者の個人的な感情によるところが大きい前官僚制にはなかった大きな価値である。
「対応が官僚的だ」というような言い方をされたら、褒められたとは思わないだろう。このようにあまりプラスの意味では使われないイメージがある「官僚制」だが、実際には私たちは官僚制によって大きな恩恵を受けている。

官僚制は、その特徴からもわかるように、規律を重視することでさまざまな価値を生み出す。
しかし、これが官僚的組織のむずかしいところなのだと思われるが、「目的達成のための規律」がやがて「規律を守ることが目的」にすり替わってしまう。後者の状態になってしまったときに、「対応が官僚的だ」のようなマイナスな印象になってしまうのである。

アメリカの教育史家カッツ(Karz, M.)によると、アメリカ大都市において、教育官僚制化は19世紀中葉に出現したとされる。
その目的は、産業社会の価値観を教化・注入し、産業社会の目標の実現に奉仕するためだった。中央で決めたカリキュラムを効率よく教え込むシステムを機能させる学校教育の官僚制化が、特に戦後の日本において一定の成果をあげたことは間違いない。

このように、学校は官僚制的な面を持っている。一方、それだけでは説明できない面も学校には多くある。
例えば、官僚制の特徴のひとつに「集権化」があるが、実際の学校で校長や副校長にそれほど権力が集中しているわけではないし、総合学習(探究)を進める際にも、1年間の計画が細部にわたって明確に取り決められていないというケースも多くみられる(感染症対策においては、机をアルコールで拭くなどやることが明確に決められていた。これらは「官僚的」な対応なのだろう)。
また、教員は公平さを保とうとしながらも、生徒に非人格的に接するわけではない(もちろんブラック校則が今でも通用し続けているなど、子どもたちにとっても私たちにとっても「非人格的だ」と感じられることはあるが、少なくとも全体的な志向のレベルでは)。
そして、この文章の趣旨上これが一番問題なのだが、官僚制は「標準化」によって仕事の内容を統制する――学校も学習指導要領によって授業で扱う内容や方針が統制されている――が、実際の教室においては、その標準化は「個々の教師の指導行為に必ずしも十分浸透しているわけではない」(『教育社会学』p79)のだ。
このような状況を、アメリカの社会学者マイヤーとローワンは「ゆるやかな統制」と呼んだ(Mayer & Rowan 1978)。
ここまで確認してきたように学校には、定型的な活動をするという私たちが官僚制に持っているイメージどおりの「タイトな統制」と、その枠からはみ出す「ゆるやかな統制」のふたつの統制があるのだ。

学校における「タイトな統制」の内容をいくつか確認しておこう。
例えば、「各学校への入学基準が明確に決められている」(同著p82 以下同)こと。実業高校、専門高校など「学校のタイプも厳格に区別されている」こと。また「生徒は学年ごとに分類されている」ことなどである。
これらは私たち一般の人や教育委員会等公的な組織からも見えるという意味で、学校の「フォーマル」な構造である。
このような形式的な部分が「タイトな統制」である。マイヤーとローワンはこれを「儀礼的分類」と呼ぶ。

そして先にも見てきたように、形式的な部分がタイトに統制されている一方、学校内部の活動は「ゆるやか」に統制されている
保護者をはじめとする学校の外部の人々に見えているのは、学校における「形式的な部分」(=タイトな統制)である。外部の人々は、子どもをとおして渡される通信簿や学級通信、そして子どもとよく対話をする親ならその子の言葉、また学校のホームページに掲載されるニュースや進学情報、そういったものをとおしてしか「内部の活動」を伺うことはできない。
そのような官僚的に管理された情報からは、授業の中で我が子がどのような素質や能力、人格を発揮しているかを知ることは難しい。運動会や文化祭などで生徒が輝いている瞬間を見て感動するならば、日々の授業もうまくいっているように思うだろうし、通信簿からではせいぜいどの程度の成績で進級したかどうかくらいしかわからない。また行政にも各教員が課題解決型授業ができているかを管理するリソースはまだないはずだ。

その一方で、「内部の活動」は、外に見えている実態とは異なっているケースが多い。
マイヤーとローワンは、「形式的な部分」(=タイトな統制)と「内部の活動」(=ゆるやかな統制)が分離していることによって、「教室内部の教授活動とその成果に対する監査や査察は最小限に限られる」(『教育社会学』p82)と分析した。
そのため「学校は人びとから期待される額面と実態との乖離を隠蔽することができる」(同著p83)のだ。
そう、学校における「タイトな統制」は、学校の外にいる人たちに「内部の活動もうまくいっているであろう」という期待を生み出す「合理的神話」(マイヤー、ローワン)なのだ。そして教員たちは、たとえ能力がなくとも、「教員免許」さえ持っていれば教員であることができるように、その統制によって儀礼的(リチュアル)な効果を得ている。加えて、教員たちが「免許」という護符によってリチュアルな効果を得ているように、私たち学校外部の人間は「タイトな統制」という魔法によって目を眩まされているのかもしれない。
まるで、母性が肥大してコントロールが効かなくなってしまった恐ろしい魔女が、自分自身とさらってきた子どもたちが居る屋敷を魔法円を描くことで隠してしまっているような、そんな様子にも見える。

ここまで見てきたように、多くの教員は新しい学び方が求められているという現実に対応できておらず、「まじめさ」や「明るさ」「公平さ」というハビトゥスで現場をやりくりしているという状況が続いている。
その現状を、学校という組織がリチュアルな効果で外部の目から隠す。
この教員と学校の共犯関係により、互いが互いを「現状」に縛り付けている。
だから授業は変わっていかないのだ。


3章から5章をまとめよう。
3章では、教師が好む生徒は、教師がつくった教室の秩序を率先して守り、かつ教師にとって理解しやすく、その言動をコントロールすることも比較的容易であるという性質を持っていることを確認した。
4章では、教師は自らがコントロールできることを中心にして教室に秩序をつくること、そして「新しい学習方法」といったコントロールできないことはむしろ積極的に行わないようにしているのではないか、といったことを推測した。
ここから、新しい学習が求められているにも関わらず、それを教室に取り入れることを避け、自身の「完璧な教師でなければいけない」というセルフイメージを守りながら、自分のつくった秩序に従ってくれる児童・生徒との関わりを楽しんでいる教師像が浮かんでくる。
秩序をつくり、そこからの逸脱を禁止することを通して子どもたちにとって「父」であるように振る舞いながら、その実その父性は矮小なものであるというのが、見えてきた教師像だった。
5章では、そのような矮小な父性を発揮する教師が、教職の「不確実」であるという性質によって変化に踏み出せず、またそのような教師たちを官僚制的な学校が外部に対して見せている形式によって守っているということを見てきた。
教師のふるまいが矮小な父性なら、このような教職の性質と学校の共犯関係はまるで肥大する母性だ。

評論家の宇野常寛氏は、その著書『母性のディストピア』において、アメリカの傘に守られているため本当の意味で「父」となることができない日本人が、それでもあえて「父」になったふりをするという状況を「矮小な父性」と、技術の発展によって誰もが簡単に父になったふりができる情報環境そのものを「肥大した母胎」と表現した。
この「矮小な父性」と「肥大した母性」が結託することで生じている日本の停滞状況が「母性のディストピア」である(*-1)。

この矮小な父性と肥大する母性の結託は、形を変えて学校そして教室にも表れる。そこは、誰も失敗することなく、ぬくぬくと「そのままであること」を強いられ続ける場所となる。
そのような場所は、教師や子どもたちにとっては永遠の青春の場であるかもしれず、ある種のユートピアかもしれない。
しかし、社会が大きく変わっているのに、これから大人の仲間入りを果たす青年たちが姿勢や能力の面で旧社会のまま、という状態は、社会の側から見れば大きな損失である。また教育の当事者である子どもたちにとってみても、本来最先端の物事を学び成長する場所であるはずの学校でほとんど成長することができず、そのまま社会に放り出されるというのは幸せなことではない。成長しないまま社会に出たら、その分だけの苦しみを味わうのだから・・・。
長い目で見れば、社会にとっても子どもたち当人にとってもプラス出ない場所、それはディストピアだと言えるのかもしれない。


(*-1)この文章のアイディアの源泉は、宇野常寛氏の著書『母性のディストピア』にある。
この書籍は戦後日本における日本人の心性を宮崎駿、富野由悠季、押井守という3人の巨匠の作品を土台に分析するという非常に知的興奮を味わえるものとなっている。
この本がなければ、この文章を書くこともできなかったであろう。最大限の感謝を送りたい。
そして、読者のみなさまには、ぜひとも『母性のディストピア』を購入して読んでいただきたい。


⑥安西先生から学ぶ学習理論

モデルの提案

「オヤジの道楽につきあってるわけにはいかねーんだよ」
道楽・・・・・・・・・
「疲れたときこそ リズミカル!」
 (スパッ)
「おお!!」
「よーーーっしゃ!!」
道楽か・・・そーかもしれんね
「ラストだァ!」
日一日と・・・成長が はっきり見てとれる
この上もない 楽しみだ

『SLAM DUNK』単行本22巻 p164,165

前章まで、学校における母性のディストピア構造を見てきた。
ここからは、母性のディストピア構造を打ち破り、学校をより魅力的な場所に進化させるための策を考えて行きたい。
とすれば、「いかにして母性のディストピア構造を破壊するか」ということを考察していくことが求められるだろう。しかし、この構造と正面からぶつかって破壊することは、私にはほとんど不可能に思える。

なぜなら、そこには教師のアイデンティティや自己実現の問題が絡んでいるからだ。実際、現在学校で仕事をしている教師は、今のままでもある程度自己実現を果たせているからこそ、苦しいことがある中でも教師の仕事を続けることができるのだと思われる。ならば、そこに真っ向からぶつかっても、無用な反発や分断を生むだけに終わる可能性が高い。
教師個人の心理的な要素に加え、この構造は非常に多くの構造的・歴史的な要因によって構築されているため、それをひとつひとつ解きほぐしていくためにはさまざまな勉強が必要である。それをすることは、忙しい教師にとっても、また我々にとっても少々しんどいだろう。
とはいえ、まずはその構造があること、あるいは自分がその構造に取り込まれていることを「自覚すること」がなければ改善もないのだから、ここまで読んできてくれた読者はそれだけでスタートラインに立つことができたのだと言える。

では、どうすればよいのだろうか。
私が提案したいことはいたってシンプルだ。それは、新しい視点から「教師にとっての喜び」を見つけ、実現するということだ。

第3章において私たちは、教師の喜びの多くが子どもとの関わりの中にあることを見てきた。
子どもとの関わりの中に喜びを見出すことに、何ら問題はない。だが現状、教室における教師の生徒との関わり方を見ると、教師の側が「失敗」を恐れるあまり、教室内の状況や子ども自身をコントロール可能なものに留めようとし過ぎている。そのため、子どもたちが自分で試行錯誤して課題を見つけたり、見つけた課題を解決するためにいろいろと工夫や挑戦をする余白がなくなっている。
このような試行錯誤を経て人は自分自身を知っていくものなのだが、教室の中では試行錯誤がほとんどゆるされないため、子ども自身、自分の特性や特長を見つけることが難しくなっている。

加えて日本の学校教育には、教室の中に「課題が解ける子」と「課題が解けない子」の両方がいることをよしとしない風潮がある。ひとつの教室では平均して30人前後の子どもたち生活している。その中に速く走れる子とそうでない子がいるように、それぞれ得意なことや不得意なことがあるのは当然だ。だが勉強においては、できたりできなかったりすることがゆるされない傾向がある。これは不思議なことだ(かくいう私も塾講師時代、教え子に対して、すべての単元のすべての内容を完璧に理解させようとしていた。その子の力量と志望校を見極めたうえで、「今の自分よりも成長する喜び」を感じる手助けをしてあげることの方がはるかに重要だったのだ。大いに反省している)。
このような風潮においては、「できる子」はドリルなどを自分でどんどん進めていけるのだが、「できない子」には教師がつきっきりになって教えるというケースも生じる。できない子に対していつも教師がつきっきりになっていると、「どうせ先生が教えてくれる」と自ら考えることをますます放棄することになりやすい。
教室の中にできない子が残っているのをよしとしない風潮があるため、教師は自分で考えることを放棄した「できない子」を放っておくことができなくなってしまう。それどころか「手のかかる子ほどかわいい」という心理にもなり得る。一方で、「できる子」は学校が物足りなくなってくる。

このいった状況は、教室全体に停滞した空気をもたらすし、何よりも生徒の自立にとってよくない。学校を出たら、つきっきりで教えてくれる人などいないのだ。受験が終わったら忘れてしまうような「教科のちょっとしたこと」ができないことよりも、”自分で考え、自分で行動し、自分で解決するしかない”ということがわからないまま学校を卒業してしまうことの方が、本人にとって不幸なことなのではないか。むしろ自立する気持ちのよさ、清々しさを味わってもらうほうが幸せなのではないだろうか。加えて、より根本的なことを言えば、教育者たるもの――教師に限らず――手のかかる教え子に一生懸命関わって、「自分(教師)がこの子の成長に貢献した」という矮小な承認欲求を味わうよりも、「この子は私が思ってもみなかったような、すばらしい力を持っていたんだな・・・」という発見をする方が、教育者冥利につきるというものだ。

今、日本のさまざまな教室で起きている負のスパイラルは、母性のディストピア構造によって起きている。それを乗り越えるために、教師は新しい自己実現のモデルを持つ必要がある。
そのために私が提案したいことは、「教室の中に自分がコントロールできる範囲で秩序をつくり、その中で子どもと関わること」ではなく、「子どもが自発的に学習や成長に向かっていく姿に喜びを見出す」という、学校の本質的な意義に基づいた自己実現ができるようになろう、ということだ。教育の「教」ではなく「育」の方をやろう、と捉えていただいてもよいかもしれない。

そして、この教師の自己実現のヴィジョンを実現するためのロールモデルとなるのが、何を隠そう、今映画が大ヒットしていることでも話題の『SLAM DUNK』に登場する教師である、安西先生なのだ。

この章の冒頭に引用したのは、『SLAM DUNK』において、バスケットボールの初心者である桜木花道が、ジャンプシュートで得点ができるようになるために、体育館でシュート2万本を打つという練習をしている場面だ。
漫画の中で起こっていることを文字だけで表現するというのはまた独特な趣がある・・・が、それは置いておくとして、少し状況を説明しておこう。

「オヤジの道楽につきあってるわけにはいかねーんだよ」
と言っているのはこの漫画の主人公、高校1年生でバスケ部員の桜木花道だ。静岡遠征に向かったチームの中から自分一人を学校の体育館に残した上に、運動着姿でそこに現れたバスケ部の顧問である安西先生を見て、「遊んでくれる人がいないから自分を残したんだ」と勘違いして上記のセリフを吐く。
地の文(「道楽・・・・・・・・・」など)の部分は安西先生の心の中の言葉だ。これから鍛えようとしている生徒から「道楽」と言われて一瞬面くらう安西先生だが、その言葉を嚙み締めたうえで、毎日成長する初心者、桜木花道を見ていることは最高の道楽であるかもしれないと、思い直す。

金八先生のような熱血タイプではなく、安西先生をモデルとして提案したのには理由がある。
安西先生は子どもたちの主体性を尊重し、課題を与えたあとには静かに見守る。そして、教え子とのこのような関わり方の中に楽しみを見出している。
安西先生のこの姿勢は、コミュニケーション力や課題発見・解決力といった力を鍛える必要がある今の時代の子どもたちを育てるために、教師に求められている姿勢である。
だからこそ、安西先生はロールモデルになりうるのだ。

第4章で見たような、「教師の質問→児童・生徒の応答→教師の評価」によってつくられた授業では、子どもたちは今の時代をよりよく生きていくために必要な能力を身につけることが非常に難しい。しかし、安西先生のように、「課題を与え、見守る」という形の授業であれば、子どもたちは自然とさまざまな能力を発揮する。
それはリーダーシップかもしれないし、創造性豊かな発想力かもしれないし、あるいは優しさのようなものかもしれない。
そのような力があるとは全く想定できないような子が、思わぬ成長をすることを目撃できる。そんな教室をつくることができたら、それはまさに一生の道楽になるだろう。

教師の「道楽」のための学習理論

ここまで見てきた教師の自己実現のモデルに魅力を感じてもらえただろうか。
「そうは言っても、現実的にはどうすればいいかわからない」という声も聞こえてきそうだ。
この章では、「課題を与え、見守る」という授業を、どのようにして実現していけばよいのかということを見ていく。
なお、この章では各理論について細部まで記すことはしない。それをするには、1章から6章までの分量の文章をもう一度書かなければならなくなってしまうからだ。
それはまた別の機会にゆずるとして、学習理論についてより詳しく学んでみたい方には『学習科学ハンドブック 第二版』の第1巻~第3巻(北大路書房 2016年~2018年)を、国語や社会といった授業での実践に落とし込みたい方には『アクティブ・ラーニング入門』(小林昭文 産業能率大学出版部 2015年)をおすすめしたい。

(最初にお伝えしておきたいが、「講義スタイルの授業を一切するな」ということを言いたいわけではない。文科省にしても課題解決型学習のような学び方を推進するさまざまな識者の方々にしても、それを求めているわけではないだろう。必要なタイミングで必要な内容を講義することは、これからも必要なことだ)

(1)どのような課題を与えるべきか
子どもたちが主体性を発揮して自ら学び、その過程で社会で必要なさまざまな能力を伸ばしていく。
そのために、子どもたちに与えるべき課題とはどのようなものだろうか。

端的に言えば、それは以下の要素を持つ課題だ。

大人が世の中で取り組んでいるものと同じテーマの課題

これは、人がどのように学ぶのかを研究する学問のジャンルである「学習科学」の基礎となる中心的なテーマである「ある領域の専門家と類似した学習活動に取り組むことで生徒はより深い知識を学ぶ」という知見に基づいている(『学習科学ハンドブック  第1巻 基礎/方法編』p4 2018年)。
「ある領域の専門家と類似した学習活動に取り組むことで生徒はより深い知識を学ぶ」というのは、例えば教職を志望する大学生がいるとする。その大学生にある程度現場で通用する授業ができるようになってほしい場合に、教育心理学の細かな知識を教え込むよりも、実際に授業をつくって小・中・高生に授業をさせる方が実践的だし、教育心理学や教育学についてもより深く理解することができる、といった意味だ(もちろん教育心理学や教育学の知識には領域固有の名称や概念があるため、それを実践と結びつけるために一つクッションを入れる必要はあるが、少なくとも授業における知識については、自らそれを活用して実践した方が、座学で聞くよりは深く理解できると言えるだろう)。

では、実際に総合学習(探究)で使える課題にはどのようなものがあるだろうか。
例えば、これはアメリカの学校における例だが、「親友を病気から守るには?」という課題がある(『学習科学ハンドブック 第2巻 効果的な学びを促進する実践/共に学ぶ』p25 2016年)。この課題は「細胞, 組織, 微生物学, 疫病に関する学習目標を持つ8週間の単元」(同著)において扱われた。
基本的に、教室にいる多くの子どもにとって「親友を病気から守る」ことは望ましいと感じるはずだ。その点で、この課題は子どもたちが当事者意識をもって取り組みやすい魅力的な課題だと言える(もちろん、すべての子どもが当事者意識を持って取り組める課題は存在しない。人には得意不得意があるのだ。だが、それで何か問題があるだろうか?)。
日本の高校に当てはめてみれば、この課題は生物や保健、情報といった科目に関わる内容となるだろう。このように幅の広い教科の内容を扱うからこそ「教科横断的」な学びとなり、「総合的な」学習となるわけだ。

他にも「学校周辺の地域の生態系についてのドキュメンタリー番組をつくってみよう」とか「地域の商店街を活性化するための企画をつくろう」といった課題も考えられるだろう。
ちなみに、私がChatGPTに「東京23区の中学生に課題解決型学習を取り組ませる場合、どのような課題が適切だろうか」と聞いてみたところ、公園の清掃不足や地域の高齢化といった問題を解決するためのプロジェクトを考える課題がよいのではないかと提案してくれた。このようにツールを活用して課題を考えるのもひとつの手だ。

ちなみに、このような学習において、教師は課題の答えをわかっている必要はない。なぜならこれらの課題は現在のところ明確な解決策を打ち出した人や組織がまだないために、未だに課題として社会に存在しているからだ。
だからこそ、質の高低はあれど子どもたちが考える多様なアイディアがそれぞれ正解になり得る。
教師は、子どもたちがこれらの課題に取り組む中で思考力を発揮したり、コミュニケーション力を発揮したりするところを無邪気に喜んでいるだけでも、この授業は成立する。

(2)学習に取り組む上での5つのポイント
このような課題を活用した学習の効果を最大限に高めるために行うべき5つのポイントも確認しておこう。

1「目的」を示す
子どもたちも教師も(そして私たちは誰でも)、意味のわからないことに一生懸命取り組むことは難しい。だから、それをやる意味や価値をしっかりと伝えよう。
子どもたちは「これをやることで、自分の将来にいいことがあるんだ」と思うことができれば(つまり課題に取り組む意義を理解できれば)、自ら積極的に学びに向かっていくものだ。
例えば、「みんなが将来社会に出たときには、自分で答えを"つくる"ことが求められる。それができる人は会社でも活躍できるし、普段の人生もより楽しく生きていくことができる。だから、君たちには今から"自分で答えをつくる練習"をしてもらいたい。この課題は、そのためにやってもらいます」といったように、目的を明確な言葉にして、ていねいに伝えるのだ。

安西先生も、ゴール下以外からのシュートが入らないと他校のライバルから思われている桜木花道に対して、ゴール下以外の場所からもゴールを決められるようになることで、インターハイで全国の強豪たちの度肝を抜いてやろう、という目的を提示した。
これは作品内で明確に言語化されていたわけではないが、安西先生の意図はそこにあり、花道もそのイメージができていたことは、その描写からも推測できる。
安西先生は、このように目的を示したうえで「シュート2万本です」と課題を提示した。

2「チーム」で取り組む
数名のチームで取り組むことで、そこにコミュニケーションや役割分担といった社会的な活動が生じる。チームメイトがいるため「この人のためにがんばろう」というモチベーションにもつながるし、能力がそれぞれ違うため、自分の得意なことを見つけるチャンスにもなる。
これらはひとりで勉強をしていては身につけることが難しい能力だが、仕事にしろ恋愛にしろ家庭生活にしろ、社会では非常に重要な能力だ。
また学習科学の知見によると、チームで取り組むことで、自分の視点だけではなく他者の視点を通した理解も構築することができるため、対象についてより深く学ぶことができる、ということが示されている。
そのほか、チームでの取り組みがよりよく機能するためには、「心理的安全性」が重要だということもよく知られている。「参加者が安全に感じることによって, よりリスクをとったり, 自由に考えるたりするようになる」(『学習科学ハンドブック 第2巻 効果的な学びを促進する実践/共に学ぶ』p153)といったことが、組織の行動について研究するエドモンソン教授らによって明らかにされている。
心理的に安全な話し合いができるように、例えばアイディアを出す際には「相手の発言を否定しない」というルールをつくって示しておくというのも手だ。

安西先生も、花道にひとりでシュート練習をさせず、心強いチームをつくった。シュートする動作を記録したり、フォームが崩れていないかを見て伝える役として桜木軍団(花道の中学からの友達)を呼んでいた。さらに、安西先生のアドバイスをメモしたり、シュートの成功不成功を記録する役として花道がホレている晴子も来てくれたため、よりよいチームになった。
またこの合宿に限らないが、安西先生は緊張感を高めるような指導はしない(大学のコーチをしていたころは鬼と恐れられるような指導をしていたが・・・)。基本的に、「ほっほっ」と言って見守っているだけである。おそらくそれが、彼らが「心理的安全」を感じることにつながっているのだと思われる。

3 子どもが学習活動をはじめたら、教師は「観察」をする
課題を受け取った子どもたちは、最初はとまどいながらも徐々に活動をはじめていく。その際に、教師が手取り足取り手伝ってしまっては学びにならない。このようなことをしていると「どうせ先生が手伝ってくれる」と、子どもたちが受け身の姿勢になってしまう。
教師は、子どもたちがうまくいってもいっていなくても、まずはじっくり「観察」する。
観察している過程で、コミュニケーションや思考、協力、リーダーシップなど、社会で必要な行動を取っている子どもがいたら、その点を静かに喜んでいればよい。
安西先生はそのおだやかな雰囲気から、ホワイトヘアードブッダ(白髪仏)という異名を持っている(『SLAM DUNK』単行本2巻)。仏の境地とは「ほっとけ」の境地のことだ。教師は、子どもたちをいい意味で「ほっとく」ことが必要だ。
もちろん、子どもたちが積極的な姿勢を見せたら「いいね!」と伝えたり、おもしろいアイディアを出していたら「おもしろいね」と伝えてもいい。子どもたちのプラスの面を見つけ、それを認めることは教師から子どもに与えられる最高の贈り物となるだろう。だが、それもあくまで子どもたちの活動が主となるべきだ。子どもたちをコントロールしようとして褒めてしまうと、「褒めないとやらない」という「負の強化」が起きてしまう。テストでいい点を取れたかそうでないかという結果ではなく、子どもたちの言動をよく観察したうえで、よいところを見つけよう。

『SLAM DUNK』では、シュート2万本を打つ間のすべての描写はない。だが、安西先生は最初にシュートの打ち方の手本と目的を示した後は、「シュート2万本です」と課題を示し、そのあとは基本的に見守り、必要に応じて助言を与えるということに徹していたのだろうということが予想される。

4「アウトプット」をすること
本を読むときに「読んだ内容を人に伝える」というゴールを設定して読んだことがある人はよくよくわかると思うが、「知る」というゴールを設定したときと、「人に伝える」というゴールを設定したときでは、学びに対する姿勢や効率、発揮する思考力がまったく違う。
だからこそ、学習活動において「アウトプット」は非常に重要だ。
他者に伝えるためには、情報の取捨選択や編集が必要であり、そこには創造性が求められる。
このことからもわかるように「課題を考えてください」ではダメで、「課題を発表してください」という課題である必要がある。「親友を病気から守るには?」という課題を出したら、その課題の集大成として、親友を病気から守るための方策を発表するところまでやることで、学び効果が大きくなる。

花道に合宿でいうと、スポーツなので当然だが、シュートについて学ぶだけではなく、「実際にシュートを打つ」という行為がこれに当たる。

5「振り返り」をする
「やって終わり」では、学びの効果は大きくならない。「やってみてどうだったか」ということを振り返ってみたときに、その人の学びの深さに応じて、自分が学んできたことの「意味」がよくわかるという瞬間が訪れる。
また、ここまでのチームでの取り組みを振り返ったときに「あ、自分はこんなことが得意だったんだ」「そういえば、こんな時に自分はがんばれたんだったな」といったように、自分の能力や個性に気づくことができる。
また、「あいつは人前で話すのがうまかったけど、スライドづくりはおれの方が上手だ」といったように、チームメイトとの比較によって自分の能力に気づくこともできる。自分の中では自信がなかったけど、案外人を助けられるレベルにあるのだ、ということに気づくということも、とてもよくあることだ。
もし自分で気づくことができなくても、チームで振り返りをすれば、一緒に取り組んできたチームメイトから「あのときは助かった」「〇〇がいたからアイディアを出すとき楽しかった」と言ってもらうことで、そのことが自信になるだろう。

このように、自分自身の学習過程を振り返り、そこで考えたことや学んだことを認知することを「メタ認知」と呼ぶ。
自分の考えを他人に伝えてみて(もしくは書いてみて)、はじめて自分が何を考えていたのかを知った、という経験をされた方も多くいることだろう。なぜそのようなことが起こるかというと、そこに「メタ認知」という人間が持つ知的な能力が働いているからだ。
学習科学によると、この「メタ認知」は「学習や問題解決, 課題遂行において基礎となる性質を持っている」とのことで、よりよい学習ができたり、自分を改善するための方法を考えることができる人は、自分をメタ認知することが得意だという(『学習科学ハンドブック  第1巻 基礎/方法編』「第4章 メタ認知」)。

安西先生は、桜木軍団に花道のシュートの動作をビデオカメラで撮影させ、それを花道が自分で確認して振り返ることができるように環境を整えていた(夜、みんなが寝てしまった後にひとりでその映像を確認し、自分が上達していることを確認したときに、花道はひとり静かにこぶしを握り締める。それはおそらく、何事にも本気になることができなかった人生で、彼がはじめて感じた「手応え」だったに違いない)。

これと同様に、教師は子どもたちがメタ認知をできるように、彼らのプレゼンや発表の様子を映像に撮っておくことがとても重要である。

以上が、安西先生から学ぶ学習理論だ。このやり方は、今まで勉強ができなくて自信をなくしていた子や、親や教師からダメだダメだと否定ばかりされて育ってきた子が、自分の中に眠る可能性に気づくきっかけとなるはずだ。
教師は、彼らが学びに向かう姿勢や言葉、行動といったものの中に、ほんの少しでもいい、何か前向きなものを見つけ出すように、子どもたちをよく見ていてほしい。そしてよいところがあったらぜひ伝えてあげてほしい。
ときには、彼らの成長のスピードが自分の思い通りにならずに苛立つこともあるだろう。だが、よく考えてみてほしい。昨日植えたトマトの種が発芽しないからといって、私たちは別に怒ったりしない。
トマトにはトマトの成長スピードがあり、きゅうりにはきゅうりの成長スピードがある。子どもにも、その子に応じた成長スピードがあるものだ。それはそう簡単に早められるものではない。
しかし、植物に水をやるのを忘れてしまえばその植物は育たないように、子どもの内に秘められたよいところを見つけ、そこを指摘することでしか外に現れてこない可能性もある。
そうやって忍耐しながらその子の成長をサポートし続けるならば、その教師にはいつか「教師になってよかった」と思える瞬間がやって来るかもしれない。

史上最強の山王工業戦、シビれる展開の試合の残り10秒を切ったときに、花道は2万本シュート合宿の成果を見せることができた。
そのとき、安西先生ははじめて、両拳を振り上げて大きなガッツポーズをした。
ひょっとしたら、2万本の成果を見せる機会もないまま、試合に負けてしまうこともあるかもしれない。
でも、試してみなければ、真の喜びはいつまでも手が届かないままだ。
もし、ここに書いてあることが少しでも楽しいと思ったならば、これらを試してほしい。そして、教室の母性のディストピア構造を打ち破り、子どもたちの進化・成長を手助けし、本当の意味での教師の幸せを手に入れてほしい。

終わり

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