見出し画像

「学校」という"母性のユートピア"あるいは"ディストピア"―①今、日本では人が育っていない

学校の先生たちが前向きに、目の前の生徒たちのために身を粉にして働いていることを、私は知っている。
近年、社会で話題になるのは学校の先生たちのマイナスの面ばかりであり、プラスの面が話題になることは少ない。
確かに学校は遅れているかもしれない。しかし日本社会全体も、世界の"先進国"と比べれば遅れているのだから、学校だけを責めるわけにはいかない。

繰り返すが、学校の先生たちはみな、一生懸命働いている。
私たちはそのことを認め、そんな先生方に尊敬の念をもって接し、そのような人として丁重に扱わなければならない。

私がこれから書くことは、そのような先生への敬意が土台にあってのことである。
現実を見れば、先生は多すぎる仕事量を消化することができず、生徒たちと向き合ったり、授業を改善する時間を十分に確保できないという問題が起きている。
そんな現状を考えて、まずは先生の負担を減らすため、働き方改革からはじめよう、という機運が高まることも理解できる。

しかし、学校の先生がさらに重たい課題は背負えないというような現状があったとしても、「教育」や「学校」における理想を描き、追い求めることをやめてはならない。理想を追い求める心が現実に押しつぶされてはならない。

もちろん、人間の体力と気力には限界があるから、短いスパンの中で理想を追い求めることにも限界はあるだろう。
それでも、たとえ一年に一歩だけでもいい。学校も学校の先生も、それを取り巻く社会も、「よりよい教育」の実現に向けて前に進んでいかなければならない。
なぜなら、進化への衝動は、私たちの内側におのずと備わる自然なものだからだ。

以下の論考は、学校教育、あるいは授業、あるいは先生たちの進化の一助となるように、書かれたものだ。
教育というのは国の根幹に関わるものであるから、対象としている読者はこの国のすべての人だ。そう、あなたである。

今、日本では人が育っていない

学校教育の成果は、何で測ったらよいのだろうか、という問いへの答えは、一般的に「学力」ということになるだろう。

OECD(経済開発協力機構)は、3年に1度(2021年の調査は新型コロナの影響で1年延期)「PISA」を行い、加盟国の生徒の学力を確認している。テレビのニュースや新聞などでも、「PISAの順位が下がった・上がった」といったことが話題になる。

「PISA」というのは、「義務教育終了段階の15歳の生徒が, それまでに身に付けてきた知識や技能を, 実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかを測る」(『OECD生徒の学習到達度調査2022年調査 パンフレット』より)ことを目的に実施されている調査だ。

そのPISAにおいて、日本の生徒たちはどのような成績を納めているのだろうか。以下に示すのは、2018年度のPISAにおける日本とアメリカとフィンランドの点数と順位である。
(日本=左:オレンジで示す)、(アメリカ=中央:黄色で示す)、(フィンランド=右:緑で示す)。

『OECD生徒の学習到達度調査2022年調査 パンフレット』より筆者作成

この表を見てわかるように、日本は読解リテラシーについてはやや点数が低いものの、数学的リテラシーと科学的リテラシーにおいては、優れた教育を行うことで有名なフィンランドにも引けを取らない。

順位は以下の通りである。

・読解リテラシー  日本:11位(504点)、アメリカ:9位(505点)、フィンランド:3位(520点)
・数学的リテラシー 日本:1位(527点)、アメリカ:31位(478点)、フィンランド:11位(507点)
・科学的リテラシー 日本:2位(529点)、アメリカ:13位(502点)、フィンランド:3位(522点)

世界一の経済大国であるアメリカに対しては、数学的リテラシーで30位分、科学的リテラシーで11位分も差をつけて「圧勝」している。

読解力が11位に下がってしまったことは気になるが、数学的リテラシーと科学的リテラシーにおいて、日本のPISAの成績は世界トップクラスでる。
それはすなわち、日本の学校教育が世界一の水準を誇っていることの証明であるように思える。

しかしながら、15歳時点での「学力」がいかに高くとも、個人個人が創造的に仕事と向き合わなければその国の経済は活性化していかないし、政治のことがわからなければまともな投票はできない。これらの能力と学力は必ずしも一致しない。
また人生全般について考えてみても、15歳時点での学力が高かったとしても、自身と向き合って目の前の課題を解決していこうという姿勢がなければ、苦難にぶつかったときに自らそれを乗り越えて幸福への道を進んでいくことができない。

もちろん、「だから、”学力”に意味などない」ということを言うつもりはない。言いたいことは、「学力」は重要ではあるが学校教育の成果の一面でしかなく、本質的に重要なのは、社会で活きる精神性や能力を身につけることができたかどうか、だということだ。

では、「社会に出た個人」に関して、日本人は現在どのような状態にあるのか。先ほどと同様、日本とアメリカ・フィンランドとを比較することで探ってみたい。

まずは、一人当たりのGDPから見てみよう。

webサイト『世界経済のネタ帳』より筆者作成

2017年から2021年の5年間、日本(オレンジ・一番下の折れ線)はほぼ40000ドルに行くか行かないかのところで横ばいだが、アメリカ(黄色・一番上)とフィンランド(緑・真ん中)はともに上昇トレンドだ。
アメリカとフィンランドだけではなく、イギリスやドイツもこの期間はアップトレンドである。
「日本が伸びていないのはこの期間だけなんじゃないの?」という疑問も考えられるが、安宅和人氏が『シン・二ホン』で示しているデータによると、日本は1993年から2018年にかけての伸び(1993年を「1」とする)は1.10だ。2021年も2018年とほぼ同じ数値だから、日本は約30年間、ひとり当たりの生産性が伸びていないことになる。
一方アメリカはというと、93年~2018年で2.23の伸びである。
そしてドイツは1.89、イギリスは2.31。同著で安宅氏も指摘しているが、日本は「一人負け」の状態だ。
また、伸び代も大きかったのだろうがフィンランドは驚異の2.83(筆者計算)だ。

この状況について学校教育の観点から見るならば、日本の学校は個人の主体性や創造性、課題発見・解決力といった、知識基盤社会で働く上での重要な能力をほとんど育てることができていない、ということが言えるだろう。

続いて、「労働」に関する意識はどうだろうか。

webサイト『国際日本データランキング』より筆者作成

左側の①のグラフは「仕事は収入を得るための手段でしかないという人の割合」のグラフ、右側の②は「社会の役に立つことは、仕事をする上で非常に重要であるという人の割合」のグラフである。まず、①から見ていこう。

①の調査は、『あなたは「仕事は収入を得るための手段であって、それ以外のなにものでもない」という意見に賛成ですか』という質問について、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と回答した人の割合を示したものだ(実施年度は2015年)。
結果は、

日本:44.2%
アメリカ:22.5%
フィンランド:30.9%

となっている。

つまり、日本においては44.2%の人が、「仕事は収入を得るための手段であって、それ以外のなにものでもない」と考えている、ということである。
逆に言えば、日本では55.8%の人が、「仕事とは収入を得るための手段であり、かつそれ以外の何か」(収入を得ること以外に、自己実現や社会貢献といったことを目的としている、など)だと考えているということもである。
つまり、グラフの高さが低いほど、労働において多様な価値を追求している人が多い、ということになる(*①-1)。

3ヵ国の順位は以下のとおり。

日本:世界37ヵ国中17位
アメリカ:同30位
フィンランド:同25位

繰り返しになるが、順位が高いほど労働に関してドライに捉えている人が多く、順位が低いほど、労働において多様な価値を追求している人が多い、ということだ。
トップ10にはロシア(1人当たりGDPでは66位)やハンガリー(同49位)、リトアニア(同45位)など旧共産圏の国が入っている。一方でワースト10にはノルウェー(同4位)、スウェーデン(同11位)、デンマーク(同9位)などの北欧の国や、スイス(同3位)といった1人当たりの生産性が高い国が並ぶ。
この調査と一人あたりGDPの順位を重ねてみると、概ね、収入を得ること以上の価値を仕事に求めている人の方が、生産性も高いと言えそうだ。
日本はOECD+αの37ヵ国の中で、真ん中よりちょっと上、つまり世界平均よりも少し、労働に関する捉え方がドライであるようだ。先ほど見た日本の一人当たりのGDPの数値と併せて考えると、この順位は少し残念に思えてくる。
日本でも、半数以上の人が仕事において多様な価値を追求しているということなので、決して悪くはないと私は考えている。また仕事の内容は多様なので、自分の仕事が社会の役に立っているとはなかなか思えない人もいることだろう。ただ、OECD+αの国々の基準と比較すると、日本人はもう少し、仕事に対して豊かな考え方を持てる可能性を秘めている、ということが言えそうだ。

では、今度は②のグラフを見ていこう。「社会の役に立つことは、仕事をする上で非常に重要であるという人の割合」においては、アメリカに比べて日本とフィンランドの低さが際立っている。数値と順位は以下の通り。

日本:15.5%、世界37ヵ国中37位
アメリカ:47.4%、同2位
フィンランド:16.2%、同36位

私は、日本という国はモノに魂を込められるような職人の国だと思っていたため、この順位には驚いた。もちろんそのような職人もいるはずだが、84.5%の日本人は、「仕事をとおして社会の役に立とう」とは考えていないのだ。

先ほども触れたとおり、仕事の内容は多様なので、自分の仕事は人様の役になんて立っていない、と思う人もいることだろう。
ただ、基本的に仕事は人の役に立ってはじめて対価がもらえるものだし、自分の仕事が全作業工程の一部分に過ぎず、直接社会の役に立っていないように思えても、最終的なアウトプットは何らかの形で社会の役に立っていることがほとんどなのだから、もう少し高いパーセンテージになってもよかったのではないかと思う。

学校教育の文脈に引き付けて語るならば、これらのデータからは、学校教育において、「仕事」の価値や意義、あるいは人と人・組織と組織が支え合って成り立っている社会の仕組みを伝えることが、あまりうまくいっていないということが読み取れる。


*①-1 必ずしも、労働に関してドライに捉えているからといって労働意欲が低いとは言い切れないし、労働に関して多様な価値観を持っているからといって労働意欲が高いとは言い切れない。



最後に、「政治」に関しても確認しておきたい。こちらもデータを見ていただこう。

webサイト『国際日本データランキング』より筆者作成

左側のグラフは、2022年3月時点での日本、アメリカ、フィンランドにおける最新の国政選挙の投票率だ。日本の投票率は56%。順位はOECD加盟国38ヵ国の中では30位となっている。アメリカは70.8%で15位。フィンランドは68.7%で17位である。
世界(199ヵ国)の中では、日本の投票率56%というのは136番目の順位である。
ちなみに2009年の時点では日本の投票率は69.3%で、政治に関心が高いと思われているアメリカの2008年の大統領選の投票率は56.8%だった。

次に右側のグラフを見てみよう。右側は「あなたは、政治にどの程度関心がありますか」という質問に対して、「非常に関心がある」「かなり関心がある」「まあ関心がある」「あまり関心がない」「全く関心がない」の5つの選択肢から、「非常に関心がある」「かなり関心がある」「まあ関心がある」と答えた人の割合についてのグラフである(2016年)。
政治への関心は、日本は68%(33ヵ国中15位)でアメリカの69.6%(同12位)とだいたい同じくらいになっている。フィンランドが75.6%で6位とやや高い。
このグラフは回答者に5択を提示したパターンだが、上記の選択肢から「まあ関心がある」を抜いた4択で質問した場合(2014年の調査)では、

日本:63.3% 34ヵ国中4位
アメリカ:57.4% 同11位
フィンランド:44% 同19位

となっているため、聞き方によってかなり差が出るようだ。

このように日本の現状を見てみると、ここ10年で投票率が下がっていることは気になるが、政治への関心という点では他国と比べてもそれほど悪くないように思える。

しかし、次のデータを見ると、日本人の政治意識について首をひねりたくなる。

webサイト『国際日本データランキング』より筆者作成

日本人で、「自分は国の政治的な課題を理解している」と思っている人は、驚くべきことに5人に1人よりも少ない。順位で見てみると世界34ヵ国中の34位、ビリである。アメリカは7位、フィンランドは11位だ。
2014年のデータを見てみると、日本は25.4%。これも34ヵ国中の34位でビリである。
もちろん、回答者の主観性の割合も考慮しなければならないため、アメリカ人やフィンランド人の自己評価が高く、日本人の自己評価が低いということも考えられるのだが、そうだとしても差が大きすぎる。

投票率と併せて考えてみよう。日本人の投票率は56%だったので、約2人に1人以上が投票に行っていることになる。しかし、政治的な課題を理解している人は5人に1人しかいない。つまり、日本人は10人いたら5~6人は投票に行くが、そのうち政治的な課題を理解して投票所に行っている人は10人中2人しかいない(政治的な課題を理解している人はたいてい投票に行き自分の意思を表明するだろう)。
では、あとの3~4人は一体何を考えて投票所に行っているのか。
おそらく、「メディアでよく名前を見かけるあの人に入れておこう」、といった具合で投票所に行っているのではないか。
力の抜けるような推測だが、明らかに資質もやる気もない人を当選させてしまっているという現実がある以上、つまりはそういうことなのだろう。

この日本では、政治に何となく関心はあるけど、特に勉強はしないという大人が育っている。
もちろん、この原因は複雑に絡み合っている。仕組みの問題もあるし、社会の風潮を形成するメディアの責任もあるだろう。家庭も学校に丸投げせず、できる範囲で責任をもたなければならない。だから、一概にどこそこがダメである、と断定することはできない。
ただ、責任ある市民となることができるように子どもたちを育てることが学校教育の役割である、と考えるならば、現在の学校教育は責任ある市民の育成にはあまり貢献していないと言えるだろう。
実際、小学校に入学してから高校を卒業するまでの間に、政治的な判断力や社会への当事者意識を育てるための授業を受けたことがある、という人は、日本では少数派であるに違いない。

ここまで見てきたように、今日本社会は、経済と政治において行き詰っており、その突破口も拓けないという状況にある。
この現状を「学校教育の成果」として見るならば、これまで日本の学校は、「時代に合った能力」「よりよい社会をつくろうという前向きな姿勢」「市民としての当事者意識」を持っている人を育てることが、ほとんどできなかった、ということに残念ながらなってしまう。
それに対して、フィンランドは質の良い学校教育によって、個人の前向きな姿勢や能力を引き出し、社会を活性化することに成功していることがわかる。

もし学校教育がこのまま変わらないのであれば、日本社会は「衰退」とまではいかなくとも、行き詰ったまま停滞し続けることになるだろう。未来の日本人、そして未来の世界中の人々のために、その事態は避けなければならない(*①-2)。

では、学校はこの事態に対処できているのだろうか。それともできていないだろうか。また、学校教育の方針を決める文部科学省は、どのような対策を示しているのだろうか。
次の章では、そのことについて確認していこう。


*①-2 治安の良さや清潔さ、礼儀正しさ、文化的な多様さなど日本の優れた点はたくさんある。それらも学校教育の成果だと見なすこともできる。これらの長所を維持した上で、社会の活性化に資する人を育てていかなければならない。これらの長所は経済状況と密接に関連しているのだから、無駄を排し学びの形を変えて、両方を育成しなければならない。


第2章へ続く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?