【小説】前略(11534文字) ※鬱展開注意

 姉がいなくなって、もう五年が経ちました。

 私も無事就職し、両親は子育てを終えてほっとしていると思います。

 思うというのは、私も実家を出て二年ほど経つので、実際に今どうしているのかはさっぱりわからないからです。

 私はよく過ごしています。家族も元気だといいのですが。


 夜のリビングで、姉は母と大喧嘩をしていました。きっかけは私の進路のことでした。看護の専門学校に通いたいと言う私の主張を聞き入れるべきだという姉と、四年制大学に行ってほしいという母の思いが衝突していました。私は居た堪れなくて、じっとその喧嘩を視界に捉えたまま黙っていたのですが、父も私の視界の隅で黙っていました。あの時ほど、無機質な照明が照らす居間を広く感じたことはありません。

 でも、これは姉にまつわる事柄として最初に話すべきことではありませんね。もう少し遡ってお話します。

 私の四つ年上の姉は、非常にしっかり者で、活発で、誰からも頼りにされる優秀な人でした。身内贔屓もありますが、姉は地元の公立中学校を出た後、県内有数の進学校に入り、それから第一志望だった国立大学に入り、希望の職種に就いて卒業しました。私は姉のことが好きで、姉も私をかわいがってくれました。小学生くらいの頃には喧嘩をしたこともありますが、そういうときはいつも母が姉に注意をしていました。

「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」

 ではなく、

「お姉ちゃんなのに、いい子にしていられないの?」

 とため息をついていたことは、よく覚えています。

 私は母に厳しくしかりつけられた記憶がありません。姉も恐らくないと思います。一方、私たちの父はその点しっかりと怒る人で、同じ内容でも迫力は全く違いました。

「丹精込めて育ててやっているのに、お前のせいで頭が痛い」

 と怒鳴りつけられました。

 こういうとき、私は悲しくて何も言えなくて、黙って唇を噛みしめて俯いて、早く終わるよう祈るしかありませんでした。


 私の家は、経済的に困った点もなく、家族仲も決して見た目に険悪ではありませんでした。昔から、姉はそういうところに辟易としていたのかもしれません。

 例えば、物をはっきりと言う子だった姉が友達と喧嘩したとき、母は

「ねえ、どうしてお母さんを困らせるの?」

 と、あきれ顔でゆっくり聞いていました。まあ、姉も余計にかっとなって、だってあの子がとぎゃあぎゃあ騒いだようですが、おそらく母は殆ど聞いていなかったことでしょう。「はいはい」と聞き流し、姉にきつい言葉を使わないよう諭した様は、今でもありありと思い出せます。

 だからそれは喧嘩にはなり得ず、いつも姉が悔しがり、母は困ったように眉根を垂れていました。姉の口癖は、「ママ、私のこと嫌いだから」でした。

 これは姉が小学生の時の話だったのですが、次は中学生になり、姉のクラスでいじめが起こったときの発言です。

「あんたって子は、……」

 それっきり。褒めも心配も怒りもしない、母の態度に姉はむしろ苛立ったでしょう。

 なんで私の母はこんな言い方をしたのでしょうか?私もどちらかといえば姉の味方ですから、こんなことを言えば姉の心が離れていくことは自明だと思うので、ただ不思議です。

 姉は正義感が強かったので、自分の気持ちをはっきりと言えないためにいじめの標的にされていた女の子を庇い、担任の先生や学年主任の先生、果てには校長先生にも直談判をしに行きました。その女の子も、最初は姉の発揮するあまりの行動力に気後れし、余計なことをしないでと言ったこともあったようですが、いじめはなくなりました。この少し後には、その子はクラスに友達を作ることができ、姉にもありがとうと言ってくれたそうです。姉は感謝されたくてあんなことをしたわけじゃないのにと頬を掻いていましたが、私はその女の子とご両親がそろってうちまで来られたのを見て、とても誇らしい気持ちになりました。それでこそ私の姉です、さすがです。

 でも、両親はそんな誇らしい特性を褒めませんでした。父に関しては、はっきりと

「余計なことをするな」

 と言ってしまいました。姉も呆然として、父には逆らいません。するとまた母がひょっこり現れて、

「お父さんのことは怖いから素直に聞くのねえ」

 とまた余計なことを言い、姉は拳を握って耐えるのでした。そしてそのあと、子供部屋に避難していた私に、真っ赤にした目を吊り上げて、

「お母さんだってお父さんが怖いから、ドアの陰からああいうことを言って逃げるんだ」

 と、声を押し殺して泣いていました。これは、戦えないことに対する悔し涙でした。

 私は姉の言うことは最もだと思いました。母にはそういうところがあったし、父の方が圧倒的に怖かったのも事実です。しかし、おそらく姉のような扱いを受けることがあまりなかったからだと思うのですが、私は「お姉ちゃんは気が強いからたくさん悔しく感じるんだ」と思っている節がありました。だから、それでもなんとか折り合いをつけてやっていこうよと姉に声をかけていました。

 今思えば、あれは非常に残酷な発言だったと思います。知ったような口をきいてはいけませんが、たった四人の閉塞的な社会の中で、私のいる場所というのは姉が深呼吸をできる唯一の居場所だったのでしょうから。

 あの時、件の女の子が甘いお菓子を持ってきてくれたのですが、姉も私も一度も手をつけないまま、両親が五つとも食べきってしまいました。

「あ。あれ、食べちゃった」

 あっさりとそう言って笑う母を凝視する姉の顔に、私は何よりぎょっとしました。


 では、姉が思い込んでいた通り、母は姉のことを嫌っていたのでしょうか?

 おそらくそんなことはないでしょう。しかし、私も「おそらく」としか言えません。

 私がまだ小学生で、姉が中学生だった頃、部活で帰りの遅い姉のことを、母は外で「勉強ができて、スポーツも出来るから、あとは性格だけ」なんて言う風に、ご近所さんに話していました。細かいことは忘れてしまいましたが、ご近所さんは、まとわりつくような高い声で「優秀な娘さんなのね」と繰り返していたような、気がします。むしろ私の方が、それを聞いて誇らしげに胸を張っていたような。母は、「いえ、不出来な娘ですよ。でも」と、姉に関する新しい自慢を始めるのでした。


 もっとささいなことで言うと、普段すごくしっかりしている姉がたまたま学校のプリントのうち一枚をうっかり両親に見せ忘れたことがあったのですが、

「なんでそんな事もちゃんとできないんだろうねえ」

と呟いたそうです、もちろん母が。

 父曰く、母は結婚前から「そういう性格」なんだそうです。私には、終ぞそれが「どういう性格」なのかは分からずじまいでした。

 一方、私だけが知っている確かな温度も、この家庭にはありました。これも中学生の時の話です。姉は当時女子バスケットボール部に所属しており、次のキャプテンを任せてもらえるかもしれないということで、毎日それまで以上に張り切って活動をしていました。毎日私と両親の三人で先に夕飯を食べていましたが、母などは、毎日姉の帰りを心配していました。

「今日も遅くなるんだろうねえ」

 それだけと言えばそれだけですが、私も毎日そう言われてはそうだねとしか返事ができず、父に至っては無言を貫いていたのでした。それでも母は日々繰り返しました。それが何げない会話のきっかけのためではなかったのは、明らかでした。

 そんな姉は遅くに帰宅し、ラップのかかった夕食をレンジで温めて食べていました。私もそうですが、うちの家族は寝付くのが早かったため、きっと姉はテレビもつけずに黙々と食べていたのだと思います。

 友達と別れ、にぎやかな夜道が急に孤独な暗い夜道に変わり、静かなリビングで回るレンジの音を待っている時間。

 お腹を空かせた十四歳の姉は、どれ程の気持ちで過ごしていたのでしょう。


 私が姉と同じ地元の公立中学校に進学した時に思ったことは、くさくさしたところだなあということでした。皆、気持ちだけは大人に並ぼうとして、心のどこかで大きな何かに怯えながら、背伸びをするのさえ恥ずかしい感じで、斜めに構えたつもり。もちろん私もその空気に乗っていました。少し気まずく思いながら、でも無理して、家で流行りの言葉を使ったりもしました。吹奏楽部に入り、両親に高い楽器を強請って買ってもらったにもかかわらず、結局高校に入るときにやめてしまいました。姉は高校でもバスケをやっていましたから、尊敬します。

 私もやはり部活で帰るのが遅くなり、ささやかな生意気さが家でも顔を出し始めた頃、姉は高校二年生でした。先輩が引退する夏に向け、またしても部活に打ち込んで練習に明け暮れる日々を送っていました。

 そんな夏の直前に帰ってきた姉のテストを見て、あぁ、とうとう、いやどうしてかこの時初めて、真っ先に父が怒りました。

「部活ばかりやっているからこうなるんだ」

 と、まあ言いたいことは分からなくもありません。が、それは今まで姉の努力を一度でも口に出して認めたことがあればの話であって、父は普段から寡黙な人だったので、子供たちのことを本心でどう思っているのかは、恐らく誰も知りませんでした。

 寡黙というのは便利なもので、温厚で柔軟ともいえますし、喋らないことで一定の緊張感を保たせることも出来たのでした。しかし父は当時、その力を気ままに使いました。少なくとも、私の目には気ままに映りました。

 姉はまたしても悔しくて、この時は家を飛び出していきました。そしてそのまま一時間ほどランニングをして帰ってきました。父はもう何も言いませんでした。母も何か小言を用意していたはずですが、何となく口をくぐもらせていただけだった気がします。

 私は何も言えませんでした。しかし頭では何となく、もっとずっと幼いとき、家族で出かけた遊園地の光景を思い出していました。


 裁縫が趣味だった祖母が作ってくれた衣装を着て、私と姉はうっとりとしているのです。きらきら、つるつる、ふわふわのドレス、無垢な瞳には百円のティアラもお城から出てきた宝石箱の一部のように輝いたのでした。そうやって空想にふけりながら歩く私を、やはり小さな姉が、一生懸命手を引こうとして、両親を見失って――次に両親を見つけた時、二人は大きなため息をつきました。ごめんなさいと泣きながら沢山謝っておぶられた父の肩の上からは、世界が狭く見えました。

 私は冷静だったのでしょうか。それともやはり、楽観的なだけなのでしょうか。夕方、疲れて意識を失う前の橙色の風景の中、両親はもっと疲れ切った顔で、でも私たちの寝顔を見て微笑んでいたと、その記憶に嘘はないと思うのです。


 姉に彼氏ができました。私はそれを一足早く教えてもらったのですが、「絶対にお母さんやお父さんには言わないでよ」ときつく口止めされたので、一度もそれらしいことを言ったりはしませんでした。しかし、私たちの話を聞きつけるよりも早く、母はその気配を察知しました。姉はみるみるうちに綺麗になっていきました。

 部活が部活なので、中学生のころから姉の帰りというのは遅いものと決まっていました。友達と遊ぶのも部活の後ということが多かったですし、私もそうだったので、お互いにかばい合っていました。

 しかし、才色兼備な姉に男の影が差した途端、母は特に姉に対して、時間について細かく聞くようになりました。門限を設けられなかったのは幸いで、姉はいつも何時ごろ帰宅できるか言ってから出かけるようになりました。

「そんなの日によって違うし、出かける前にはわかんないよ」

 そうだそうだ、と私も思いましたが、

「あんたには関係ないでしょ」

 と母に言われてしまいました。

 そのルールは、より幼い私には不適用だったのです。自分でどうにかなったことではありませんが、悪かったように感じます。

 しかし、特別におかしいわけではないでしょう。うら若い女の子が暗い道を歩いて帰ってくることに気を揉む親は多いでしょうし、特に初めての彼氏ともなれば、母も内心どんな相手なのか気になっていたのかもしれません。私は姉とよく恋の話をしていたので、相手の顔は普通で肌が焼けていて背は同じくらい、ということを写真付きで知らされていました。当時の私は、そういうことを考えては一人で優越感を覚えてすましている、生意気な子供でした。

 まあ、いずれそうなる予感はしていたのですが、とうとう母がしびれを切らしました。ある日、私に

「お姉ちゃんの彼氏ってどんな人?」

 と尋ねてきたのです。私は姉と約束していたので何も教えませんでしたが、間が悪いことに、その日姉は事前に言ったよりも遅い時間に帰ってきてしまったのです。それまでにも事前に申告したより遅くなることは結構あったはずですが、その時は良くなかった。

「どこの馬の骨だか知らないけど、あんまり遅い時間まで女の子を出歩かせるもんじゃないね」

 私は、そう広くない背中の母が軽いため息をついて部屋を出る姿を見ている姉が、引き締まったその腕を力いっぱい握りしめて我慢する後姿を、見ていました。


 小さい頃の姉は、自分を疑われることに敏感でした。姉は己の正義感に則って動いていましたから、その行いが間違っていると言われて黙ってはいられなかったのでしょう。

 しかし、いつの間にか、姉は自分のことでこそ怒らなくなりました。ぎっと拳を握り、誰にも顔を見られないようにして部屋に籠りました。そのときの表情は、私でさえ見たことがありません。

 その頃、私は妙に家の中が広く感じ始めていました。


 私は公立の高校に落ちてしまいました。学校の勉強というのは、地頭が良く勉強しなくてもある程度いい点の取れる子とそうでない子に分かれます。私は得意ではなかったため、地頭が良い人に比べると多大な努力をしなければいけなかったのですが、それが億劫でした。やらなくてはいけないことを、本当にやりたくないと思っていました。

 とは言え、匙を投げる外ないという程ではなかったので、なんとか滑り止めの私立に進学したのですが、その時

「金のかかる子だこと」

 と言われ、初めてかちんときました。

 かちんときたのですが、何も言えませんでした。

 目の前に父がいたからかも知れません。しかし、当時十分に生意気だったはずの私の喉元には、津波のようにたくさんの感情が押し寄せてきたにも関わらず、そのうちのたった一つの言葉さえ声帯を震わせることはありませんでした。

 今まで何度も見てきた、そうやって負けていた姉の姿に、自分を重ねたのでしょうか。いや、私は意図的に自分の心を殺したのではありません。ただ言葉が喉でつかえたのです。舌の上まで乗った反論の台詞を、とても言いたかったのに、私の体はどう力んでも動きませんでした。むしろ力を入れれば入れるほど、口が重くなりました。

 そのとき、私は自分の心が緩やかに死んでいたことを悟りました。


 守ってくれる、味方をしてくれる、一緒に戦える姉は、そのとき大学生でした。進学のために遠くに引っ越して、中々帰省もしてくれなかったので、私は子供部屋の余剰を持て余していました。

 私にも彼氏ができました。姉の時と同様、母に勘付かれて、帰る時間を申告するようになりました。時間が不確かであれば、門限も設けられるようになりました。それでも出来た子供ではなかったので、理由もなくただ時計を見忘れて、大幅に遅れて帰ることもありました。赤点ギリギリの点数でいっぱいになったテストの個票を持ち帰ったことも、何度あったかわかりません。父はぴしゃりと私を叱り、あとは何も言いませんでした。母は嫌味をさらりと聞こえるようにつぶやくだけで、私はあまり怒られたという記憶がありません。しかし、私はいつも、何も言いませんでした。言えませんでした。次第に、心の中にさえ言葉が浮かんでこなくなりました。

 友達に話せば羨ましがられました。厳しくなくて、あまりしつこく怒らなくて、深くプライベートに干渉してくることもない。お小遣いも人並みにもらっていましたし、服装について指摘されることもほぼありませんでした。

「自由でいいなあ」

 と、何度も言われて、そのたびに私は、家にいる時の様に言葉を失いました。気心の知れた友達にさえ、自分の感情を表現できなくなってしまったのかと、悩みました。

 しかし私は本当に不出来な、悪い子供でしたので、悩むことさえお門違いの様に感じても居ました。こんなに悪い点数で、こんなに決まりの守れない子供で、さぞ両親は恥ずかしかろうと思って。


 そんな真に不出来な私も三年生になり、いい加減しっかりと考えないといけない頃合いになりました。成績からして大学は難しいだろうとは思っていましたし、その時巷で大きなブームになっていた医療ドラマの影響も少しはあって、私は看護師なんていいなあと思い始めていたので、そのことを両親に伝えました。担任の先生とはそれまでにも何度か相談したことがあり、私の中では既に、ある市内の看護学校に的を絞ってさえいました。

 今まで、殊私には放任主義を貫いてきた両親ですから、きっと特に何も言わないだろうと思ったのですが、誤算でした。

 突然、母が頭を抱え、四年制大学ではダメなのかと言い始めたのです。

 拍子抜けして、いや、無理だよ、と、私は半ば無意識に否定しました。

「無理って、……もう、どういうこと……」

 なぜ私ではなく母が、そんなことで、今更?

 私は思いきり怪訝な顔をして父を見ました。父は寡黙で、怒ると怖いものですが、普段は温厚な性格です。まさか怒ることはないだろうと思いました。

「ちゃんと説明しろ」

 しかしこれも誤算でした。

 こんなはずじゃ、と、急に体の中が空っぽになったようでした。

 そして空気が、すっと冷たくなりました。


 私が相談する相手はもっぱら姉ばかりでした。友達にはうまく自分の考えを伝えられないし、私が付き合う男の子は皆難しい話が嫌いでした。

 姉は、自分のためなら我慢しますが、他者のためなら容赦なく怒る人になりました。理系に進んだ姉は、毎日授業や実験のことでいっぱいいっぱいのはずなのに、私のために地方から飛んで帰ってきてくれたので、申し訳なさとうれしさ、心強さで泣きそうになった記憶があります。

 夜遅くに着いた姉に、母はすぐ私のことを話しました。

「ねえ、あの子、大学じゃなくて専門学校に行くって言ってるのよ」

「うん」

「どういうこと?何か知ってるの?」

「聞いてるよ」

「たしかに成績は良くなかったけど、今からでも頑張れば何とかならないの?」

「……それは」

「ああ……そんな風に育てたつもりはなかったんだけどねえ」

 言葉を遮って笑った母に対し、姉は思いきりテーブルを叩きました。木が叩かれたとは思えないような、重くて気持ちのいい音がリビングに響きました。

 姉の目は激昂していました。母は戸惑っていました。父は黙ってソファに座っていました。

 私は姉の出迎えという役割を母に奪われた状態のまま、玄関に立ち尽くしていました。

「あなたに今さら母親ヅラする資格があると思ってるの!?」

 それは、私の気持ちを代弁するつもりというよりは、恐らく姉自身の心からの叫びだったのでしょう。


 今思い返しても、私はあの時母のことを母として認めていたかと言われると、何とも言えません。私にとってはどんな人間であれ母も父も一人しかいない唯一のものだから、そういう意味では認めています。姉はもっと構ってほしかったのでしょうか?それも違う気がしますが、十八年間にわたって母の嫌味と父の傲慢をほぼ一身に受けてきた姉の気持ちは、守られていた立場の私にはわかりません。

 結局、母は考えることを放棄し、父は沈黙を貫いて、初めて姉が勝ちました。あとは担任の先生による説得もあって、私は無事、志望通りの看護学校に入ることができたのです。

 実家から学校に通う二年間は気まずいものでした。実は、遊園地に出かけた懐かしい日のことをふと思い出し、無性にやりきれない気持ちに陥った事もあったのですが、あれはどうしてなのでしょうね。

 母はあれきり、ほとんど嫌味を言わなくなりました。その代わり、今まで以上に笑うようになったのです。その笑顔は歪でしたがが、指摘はしませんでした。中高と悪い子の私を黙認していたのは、最終的には姉のように大学に進学するはずだという思い込みがあったからかも知れないと思い至って以来、私も母に笑いかけることが難しくなっていたからです。

 寡黙な父は、逆によく話しかけてくるようになりました。しかし普段は本当に温厚な人だから、話しかけてくるといっても、

「買い物なら、ついでにこれ頼んでいい?」

「いい天気だから、散歩にでも出たら」

 とか、他愛もないことばかりです。

 だから、当時私が一番恐怖していたのは父でした。

 嫌味を言わなくなった母の代わりに、私を近しい距離で監視しようとしているように見えてしまったのでした。

 姉は私が高校を卒業すると同時に大学を卒業し、それ以来実家には帰っていません。連絡先はおろか、現住所も仕事も何も連絡しなかったので、実質姉は失踪したと言えます。


 でも、本当は、私だけは知っていました。

 姉は今、隣の県で、ちょっと大きな企業の製造業に携わっています。そこで私を迎える準備を整えて、待ってくれています。私の進路のために大喧嘩をしてくれた時、姉はまだ大学生でしたが、こっそりと私に新しい連絡先を書いたメモを渡してくれたのです。

 もう一つ、私は両親に言っていないことがあります。私が看護師になりたかったのは、それが幼い頃体の弱かった私が一番お世話になった職業だったからです。そしてその体の弱さが災いし、私は休職することになりました。だから、これから姉のところにお世話になります。そこで私も、両親とは縁を切ろうかと思うのです。

 客観的に見れば殆ど痛んでいない私が縁を切るのは、筋違いに思われるかもしれません。しかし、結局私がこの口で両親に自分の意思を伝えられたことは、一度もありませんでした。精神的に繋がれませんでした。今ここに残っているのは、血と法による親族の証明だけなのです。あなたは、血がつながっているだけの、ただの他人なのです。


 ところで、突然このような話をされて、さぞ驚かれていることと思います。ごめんなさい。

 そもそも、何も言わずに居なくなるべきなのではとも思ったのですが、これっきり二度と会うこともないと思えば、最後の挨拶だけはしようと考えた次第です。

 上述の通り、私はお二人に対し直接自分の気持ちを伝えることができないので、中々手紙を書き始められず、しばらく悩みました。その結果、他人に向ける形式であればなんとか出来るということを発見し、失礼ではありますが、この手紙はそのようにお書きしました。

 最後まで身勝手で、一方的な通信になってしまって、本当に申し訳ございません。

 それでは、直に寒くなってまいりますので、くれぐれもご自愛ください。


草々




 妹は、時間をかけて綴った手紙を丁寧に折りたたみ、そっと封筒にしまった。慈しむように宛名を眺めているその姿をじっと見つめる私に気づき、妹はふと顔を上げる。

「どうかした?」

 どうもこうも……とは言えなかった。私はいつも妹に自分の胸の内を打ち明けるばかりで、そのとき妹がどんな気持ちだったのかだとかは聞いたことがなかった。妹が、どんな思いであの両親や私を見ていたのか、今初めて知ったのだった。

 追い詰められていたことに気づかなくてごめんとか……やっぱりあの家は窮屈だったよねとか……どうして今そんなに優しい顔をしているのとか……そもそも、どうしてあんたが縁を切るのとか………言葉はどうにもならないほど浮かんできた。しかしどれも浮かんでくるにとどまり、どうしてか声帯は震えなかった。


 手紙には、私のことばかり。自分のことは少しだけ。

 それでいて、絶縁を選ぶほど傷つけられたはずの両親への恨み節は、どこへ?


 その当時、妹の気持ちは、私には聞けなかった。というと言い逃れになってしまうが、人によってはいつもぼうっとしている能天気な性格と思われることもある妹の言葉は、何も意思がないから紡がれないのではなく、気楽な発言を許さない環境に遠慮して抑えられているだけなのだと、何となく感じ取っていた。

 そんな妹に「話して」と言うことはできなかった。内側でそっと私に共感したり、あるいは自分と比較して「自分の方がマシだ」と思ったり、冷静さを欠いた私を見下ろしたりして、自分の中で気持ちの整理をつけてくれれば……と勝手に、勝手に思っていた。

 でも、思えば妹は、徐々に考えなくなっていった。最初は私にも余計なことを言うくらいその時を生きられていたのに、妹の瞳は、家の中で少しずつ、ぼうっと光を失っていった。


「あんたはお姉ちゃんと違って頭が悪いから」

「そうだね」

「あんたも、何かお姉ちゃんの才能を分けてもらえればよかったのにねえ」

 私に聞こえるところで、母は妹に言った。

 やめて!!と、咄嗟に出て行って、妹を連れて子供部屋に籠ったこと、そのときの妹の泣きそうな瞳を、強烈に覚えている。あの時は、その場に飛び出すことができて本当に良かった。

「でも、お姉ちゃんは、本当にすごいから」

 あんただって良いところ沢山あるでしょう、という気持ちは、悔しさや戸惑いと混ざってしまって、当時十歳の私には言語化できなかった。

 驚いて涙が止まらない目をこするあの時の妹は、本当に私を慕っていたのだろうか。

 それだけではなく、私は知っていた。母は、操縦の上手くいかなかった長女の代わりに、次女のことは徹底的に支配しようとしていたことを。

 妹は、たしかに勉強が苦手だった。しかし元々謙虚で努力家だったので、テストで悪い点を取ったときは落ち込み、反省し、一緒に勉強したことも何度もあった。しかし、

「あんたにどれだけお金をかけてると思ってるの?」

 厳しいと有名な塾に通わせる選択をしたのは、母だった。しかしそう言った。妹は文句を言わず真面目に通い、吹奏楽部の多忙な練習の中でも、塾の宿題を欠かしたことはなかった。

「楽器だって、高かったのに賞の一つも取れやしない」

 素人目で見てもわかるくらいボロボロになった楽譜を見ても、そうでなくとも愚痴も履かずに毎日練習にいそしむ姿を見ても、そんなことを言えるのか。

 しかし妹は、「でも」の声を、震える唇の中に隠した。


 私が大学生になり、たまの帰省で家族の会話を見た時の妹は、痛ましいほど無感動に両親を眺めていた。

「また残すの?せっかく何時間も煮込んだのに」

「ごめん」

 それは妹が嫌いな人参の煮物だった。

 わざと何個もよそって、妹は頑張って一つだけ食べる。それでも二つ目、三つ目には手を付けず、隅に追いやられた大根や卵を選んで食べた。

 私なら苛立って眉間にしわが寄るかもしれない。それは母の嫌味なのだ。でも、妹は始終、ひとつも表情を変えず、淡々と食べ、淡々と謝り、ゆったりと席を立った。

 今、漸く悟った。本当に深いところまで傷をつけられたのは、私ではなかった。

 それは、表情を動かすことも、いや感情を持つことさえも許されないような罪悪感に縛られた妹だった。


 ああ、放っておいてはいけなかった。そんなのは私の独りよがりだった。子供だから、気弱だからと言うべきことを言わなかったのは、私の、妹と向き合おうとしない怠慢の表れだった。妹が泣くことも、疑問を投げかけることも終ぞ許さなかったのは、その最後の砦であったのは、あの日々の私だ。世界でたった一人のかわいい妹を守る役目は、私にしかできなかったのに。


 妹はなんとも言わない私を数秒待ったが、結局手紙に目を戻した。こちらを見つめる瞳には光がさして、私を映していた。そのあどけなさ、理屈抜きの素直さに私の言葉も呑まれたのだろうか。

「読んでくれるかな」

「さあ……」

 読ませるために書いたの?

 それも喉元までは来たが、声には乗らず、唇はうまく動きもしなかった。

 すぐ隣に座る妹、私を信じて病気の体をこちらに委ねた愛しい妹、きっと両親も心の奥底では愛していたはずの妹が、私の方からだけ遠ざかったかのような。

「読まれたことにしとこうっと。これは私のための儀式だからね」

「え」

 ドキッとした。

「楽になりたかっただけなの」

 屈託のない瞳は、もしかしたら私よりも冷静に、この狭いリビングを見渡していた。

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