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石って、蹴っていいんだっけ?


世の中にはけっこう矛盾していることが多くて驚いたりもするけれど、残念ながら自分自身の矛盾にも、もやもやすることがよくある。

子どもたちに、歯みがきは洗面所でしなさいと注意しながら、自分は本を読みながら歯をみがいていたり、寝ころんで本を読んではいけないと言いながら、自分では寝ころんで読むのが好きだったり。

親という役割に徹するべく、あなたの視力を守るためだとか言いながら、私の目はもうひどい近眼だし、こんなふうになってほしくないからだと伝えても、説得力は皆無である。


***

なかでも「蹴ってはいけない」問題は、私の頭からずっと消えない悩みの種である。

子どもたちといっしょに道を歩いていると、石を見つけては蹴りはじめる。
それほど広くない道だったり、前に人が歩いていたりすると「ああ、だめだめ、石蹴るのやめて!」と、反射的に注意をする。

転がった空き缶を見つけた時も、子どもはうれしそうに蹴りはじめるが、蹴った音がうるさいからと、私はすぐに顔をしかめる。


ひるがえって、自分が子どもの頃は、石を蹴りまくっていた。
登下校時の楽しみは石を蹴ることで、蹴りやすそうなカタチや大きさの石を見つけては、側溝や畑なんかにまぎれずに、家に帰るまで蹴りつづけられたらラッキーみたいな遊びをよくやっていた。車にひかれてぺちゃんこになった空き缶も、それはそれで楽しく蹴った。

もちろん、田舎の度合いも関係するだろうが、子どもたちに蹴ってはいけないと注意するたび、「どの口が言う~」とにょこっと顔を出す子どものころの自分がいる。

思えば、「蹴りたい」という気持ちは、本能なのかもしれない。
それなのに「蹴ってもいいもの」は、かなり限られている。

子どもたちがきょうだいげんかをすれば、怒り心頭の一方が思わず相手の頭を蹴ったりもする。そんな時も、もちろんすぐに「頭は蹴っちゃだめ!」と注意するのだが、なんでだっけ? ともう一人の自分が問いかけてくる。

ボールはいいのに頭はだめ。ボールと頭は何がちがうの。カタチはけっこう似てるじゃないか。そりゃ、人間は生きものだからね。じゃあ、生きてないものは蹴っていいのか。いやいや、ボールはボールでも、サッカーボールはいいけれど、バレーボールもバスケットボールも蹴っちゃだめです。

え、じゃあ「蹴ってもいいもの」って、何なのよ。
蹴りたい気持ちは本能なのに、「蹴ってもいいもの」があまりに少ない。

これどうすれば、いいんですかね。


***

先日、久しぶりに京都へ行った。
両親と子どもたちと旅館に泊まり、畳に敷かれた布団で眠った。

翌朝、起床したあと、スペースを確保するべく布団を上に積み上げる。敷布団に掛け布団。布団タワーがそびえ立つ。

「馬だ~馬!」
「飛行機~!ぶーん」

わが家の子どもらは、もれなく、その高い布団の上に乗りたがる。
楽しいのはわかるけど、瞬時に私のだめセンサーが発動する。
「布団に乗っちゃだめだよ!」 
言ったあとで、どうしてダメだっけと考える。
それなりの高さがあるし、首から落ちたらケガをするから?
せっかく畳んだのにぐちゃぐちゃになるから?

その瞬間、となりから威勢のよい声がした。
「やれやれ~! もっとやれ~!」
母だった。目を輝かせ、子どもたちを見て笑っている。
そうか、私はこうやって育ったのだった。
するすると、肩の力が抜けていく。

気づけば、だめだめ星人になっていた。
それはきっと、子どものためとか言いながら、先回りして自分の手間を省くためだったのかもしれない。子どもを信頼し、自分なりに何かを得ていく手助けをするのが、私の考える、親の役目じゃなかったのか。


***

もちろん、やってはいけないことはある。
でも、やらないと分からないこともある。

石蹴りであっても、頭ごなしに「石は蹴ってはいけない」と伝えるのではなく、そこがどんな道なのか、人がいるかいないか、どのくらいの力だったらどのくらい飛ぶのか。

大事なのは、状況を見て自分で判断をすることであって、本能を消すことではなかったはずだ。これはいい、これはだめ、と決めつける大人がキライだったくせに、気づけばそんな大人になって(なりかけて)いた。
いろいろ加減がむずかしい。

(それにしても、サッカーボールをおもいきり蹴りとばすというのは、スカーッとするものですね。)






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