前にも後ろにも、進めない時もある
歳を重ねるにつれ、できないことが増えていく。
運転もそう。
前は高速だって何でもなかったのに、ある日疲れて一瞬ぼんやりとしたことがあって、それが無性に怖くなって、それ以来高速を走ることができなくなった。
大通りの右折もできない。
通りの真ん中で待つ間あれこれ考えてしまい、島にひとり取り残されたような気持ちになって、まがるタイミングがよくわからなくなった。
人付き合いだってそうだ。
以前はもっと純粋に、他人を信じることができていた。
それなのに、大人になった私は他人の本心ばかり探ろうとして、勝手に疲弊を重ねてしまう。
唯一、逃げ方だけはうまくなった。
本音を出してもいい人なのか、あるいは適切な距離が必要な人なのかを判断して、その分だけの意思を出す。
近寄りすぎないほうがいい時もある。
お互いにとって。それでぶつからずに済むのならば。
わざわざイヤな思いをしなくてもいいじゃないか。
そんな距離の取り方ばかり、上手になった。
***
4歳の娘が、幼稚園に行けなくなっている。
気持ちよく送り出した朝は、もう2週間も前のこと。
それまで元気よく登園していたのに、ある日を境に「行きたくない」と泣くようになった。
この2週間で行けた日もある。
といっても、泣き叫んで全力で抵抗する娘を先生に引き渡すという、母としては過酷な送り出し。続くとけっこうきつい。
一日中モヤモヤして何も手につかない。
子ども自身は「楽しかった!」と言ってケロッと帰ってくるのだけど、翌朝の登園時間になるとまた、大泣きになる。
***
原因は、お友だち問題。
転園後に仲よくなった子が、友だちを同類のネットで囲い込みたがるタイプのようで、持ち物や行動について細かく注意をし、娘を追い詰めているようだった。
「あなたは年少さんの時、違う幼稚園だったから遊んであげない」
「同じお箸セットじゃないと、一緒に給食を食べてあげない」
思わず二度聞きをした。
「え? ほんとうにそんなこと言われるの?」
「だからママ……、アナゆきのおはしセット、かってほしいの……」
目に涙をためてコトバを絞り出す娘。
ずっと我慢していたようだった。
アナ雪、見たこともないのに。
***
娘は、上にお兄ちゃんがいるせいか、私がサバサバしたほうだからか、お世辞にも女の子っぽい性格だとは言えない。
虫が好きだし、ドラえもんとかスポンジボブをよく見るし、楽しい時はゲラゲラ笑うし、なんでも頭に被ってみんなを笑わせたがるひょうきん者だし。
だから、その子と気が合うとは思えない。
幼稚園の先生も「ふたりは気が合わないです」と言っていた。
先月からクラス内の同じグループになったことで一緒に過ごす時間が増え、その子の発言がエスカレートしているようだった。
「その子と少し距離を置いたらどう?」
「違うグループにしてもらったらどうかな?」
と、娘に伝えた。
幼稚園の先生も、そのほうがいいですねと、グループを変える準備をしてくれていた。
それなのに、娘はある朝、
「Sちゃんと一緒に食べたい……」
と、言い出したのだ。
グループを変えたくない、と。
「え? なんで? また言われるよ?」
何度説得しても、「どうしても一緒に食べたいの」と揺るがない。
私にはさっぱり理解できなかった。
どう考えても気の合わないお友だちと、いやなことを言われると分かっているお友だちと、どうして無理に付き合わなければいけないのか。そのせいで、幼稚園にも行けなくなっているのに、どうして逃げないのか。
さっぱりわからなかった。
***
その後、何度説得しても、娘は自分の意思を変えなかった。
Sちゃんと仲良くしたい、と。
嫌なことも言われるけど、一緒にいて楽しいこともあるんだよ、と。
ハッとした。
その子の嫌な面ばかり見ていたのは私のほうだった。
嫌なことをすぐに切り捨てようとしていたのは私だ。
娘はもう、自分の世界をちゃんと生き始めていた。
そんな当たり前のことに気づかされた。
***
行きたい、けど、行けない。
朝、出かける直前になると、足が動かなくなる。
「行かなくていいよ」と言うと、「行きたい」と言って涙が出る。
前にも後ろにも、動けなくなる。
「行きたいのに、またいやなこと言われると思うと、脳も足も『イヤだ』ってなる」
ああ、そうなのか。
娘は今、自分の気持ちに正直なんだ。
仲よく遊びたい気持ちも、いやだって思う気持ちも、本物だ。
距離を取ることで解決しようする大人になってしまっていた私にとって、無防備のまま正面から立ち向かおうとする娘がまぶしかった。
彼女はまだ、逃げ方を知らない。
そんなものずっと知らないほうがいいのかもしれないし、傷を重ねていずれ知ることになるのかもしれない。
でも、これは彼女の人生だ。
彼女は自分の力で、この状況を乗り越えるのだろう。
すぐには無理かもしれないけど、この子のペースで、いやなものと楽しいものとの折り合いのつけ方を学んでいくのだろう。
逃げずに立ち向かっていく娘を、全力で応援したい。
彼女の人生はまだ、始まったばかりなのだから。
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