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私にとってデンマークは、「私と社会」を考えたくなる場所なのかもしれない

コペンハーゲン大学に交換留学生として通い、デンマークに1年間住んでいた日々からもう4年が経った。「もう4年も経ったの」という気持ちも、「その4年でいろいろあったなあ」という気持ちも、両方ある。

留学中にデンマーク社会から様々な発見や刺激を受け、それを共有し合う中でアイディアが生まれ、発足したNO YOUTH NO JAPAN。当時一緒に立ち上げたメンバーと、今活動しているメンバーたちと、この9月、デンマークに戻ってくることができた。

たった1週間だったけど、私の中で “democracy” がとても大切にしている価値観だったことを思い出すことができた。そして、今の自分にとっての「わたしの生きたい社会」ってなんだったっか、改めて考えたくなった。考えたくてうずうずしながら帰国した。

デンマークにいた当時書いた自分のnoteを読み返し、その時考えていたこと、大切にしようと思った価値観を思い出した。もちろん今と共通する考えもあるけど、4年間、様々な選択と新しい経験をし、環境が変わる中で生きてきた今の私の考えを、久しぶりにnoteに残してみようと思った。

#わたしたちの生きたい社会をつくろう

NO YOUTH NO JAPANの活動を始めた2019年7月の参院選挙の時から使っている、私たちのメッセージ。自分たちが生きる社会を、自分たちでつくっていくデンマークの同世代たちの感覚に魅せられていた中、生まれた言葉。
私の中では「つくろう」というところにばかり意識が向いて、自分にとっての「わたしたちの生きたい社会」が何か、考えるのが疎かになっていた。

嫌なこと

「わたしの生きたい社会」をスッと考えるのが難しくて、嫌なことから思いつくままノートに殴り書きした。(ちなみに、想いのままに言葉にするのは、今でも私は紙とペン派だ。)

  • 何も悪くない人が命や生活を奪われること(戦争、治安が悪いこと、自然災害など)

  • 無力感、諦め、「どーせ無理」

  • 他人事、他人のせい、フリーライダー

  • 独裁、一部の権力者が良い思いをして、そのために他の人を搾取すること

  • 意見を言えないこと、嫌なものを嫌と言えないこと

  • 嫌なものが嫌だと分からないこと

  • 自分が/今が良ければそれで良いっていう考え

  • 国籍、バックグラウンド、性別による差別

  • 自然がないこと

  • 無機質で画一的な街

  • 不均一でアンフェアな分配

  • 人としてフェアに対等に扱われないこと

  • 見下されたり、意味なく尊重しないといけないこと

  • 意思に反して勝手に決められること

  • 違いを個性ではなく優劣ととらえること

  • 食事や栄養を取れないこと

  • 食べ物を無駄にすること

  • 自己犠牲、自分に対して「かわいそう」と思ってしまうこと

  • 同調圧力、考えることをしない人

  • 資源がないこと、資源を無駄にすること

  • ぎすぎすした人間関係、言いたいことを言えずに気を遣うこと

  • 価値観の押し付け、自分が正解でそれ以外が誤りという考え

  • 生きることが苦しくて辛いこと、生活できないこと

  • 頼れる人がいないこと

  • 消費が目的化すること

嫌なことを書き出したら1ページがあっという間に埋まった。他にもあるだろうけど、一旦挙げてみた嫌なことの逆が「わたしの生きたい社会」のはずだと思い、考えた。

誰もが一人の個人として かつ、society/communityの中でright と responsibilityを持った一員として 健康に生きている社会

これが今の時点での、私の生きたい社会。
いろいろ盛り込みすぎて漠然としているかもしれないけど、自分の中では結構しっくりきている。

「誰もが」

言うまでもなく人種や国籍、年齢、性別を越えて、未来の世代も含めたあらゆる人。

「一人の個人として」

  • 広い視野を持って、自由に思考できること。ある種の、「自立」。

  • 自由に自分を表現できること。言論に限らず、あらゆる自己表現。

  • 嫌なものが「嫌だ」と、不当なものを「不当だ」と分かること。

こういう個人を育てるのが、(公)教育の役割なんじゃないか?と思った。
デンマークの高校、エフタスコーレ(義務教育ではない、10年生の学校)の先生たちは、教育の目的として口を揃えて「デモクラシー」と答えていた。日本の先生たちに「どんな人を育てようとしているのか」と聞いたら、自分なりの答えを持っているのか?なんて答えるだろうか?疑問に思った。
もしこの先自分が教育を仕事にすることにしたら、「どんな人を育てたいか?」の問いに、この3つを答えたい。

「society/community の中でright と responsibility を持った一員として」

  • 人とつながりを持ちながら生きられること。究極、独りでは生きられないと思うから。

  • society/communityの中で長期的で利他的な(自分たち以外のsociety/communityのことも考えた)valueやvisionを共有していること。

  • 個の違いが認められ、フェアで対等な存在として目標のために協力し、補い合えること。

  • 「皆でどうより良く生きるか」を皆で考え、コミュニケーションによりagreementに達することで、良い変化を起こせること。

society/communityとして、あえて「社会」としなかったのは、必ずしも自分が所属意識を持つ集団が「国」や「自治体」だけではないと思ったから。勤める企業や、NPO、趣味のサークル、保護者たちによるPTA、マンションの管理組合…等々。人が何か共通の目的を持って集っているものを指したかった。
でも一方で、今の世の中の秩序や仕組みの中で、多くの人は「国」や「自治体」の一員である、という側面から逃れることはできない。だからそういう「社会」に対してもrightとresponsibilityを持つべきだと思っていて、だからこそ「政治参加を促進したい・カルチャーにしたい」という思いでNO YOUTH NO JAPANの活動をし続けている。

「健康に生きている」

  • 十分な食事や栄養が取れること。

  • 不当に命や生活が奪われる心配がないこと。

  • 澄んだ空気、青くて広い空、きれいな水、青々とした濃い緑が生活の中にあること。

気候変動をなぜ自分は問題視しているのか、今回併せて少し考えていた。今の結論は、私が考える「誰もが 健康に生きること」への脅威になっているから。

気候変動は、大規模な自然災害や海面上昇を引き起こして人々の命や生活を奪ったり、食料不足や紛争の原因になったりする。乾燥した大地が増えれば、水や緑は減っていく。人間の営みで化学物質がそのまま放出されれば、澄んだ空気やきれいな水、更には生き物の健康が失われる。

状況は日々悪化するばかりで、脱炭素・気温上昇を止めるなど早く変化を起こさないと、未来に益々負荷がかかる。啓蒙だけで多くの人々の今の行動・生活様式を変えることは難しいと思うから、ビジネスを通じて取り組みたいと思って、私は企業の一員として挑戦している。

「デンマークは考えさせてくれる場所」

今回一緒にデンマークに戻った友達がそう言っていた。たしかにそうかも。
沢山のインプットから刺激を受けて、自分を見つめて、考えて、言葉にしたくなったからnoteを書いた。

会社で勤め始めてから1年半、年齢も考え方も経験も違った人たちとチームとして一緒に仕事をしていくなかで、改めて「人それぞれに正義がある」と感じていた。だから、「良い」社会も、人によって違う。
「じゃあ私が望んでいるのはどんな社会か?」
「社会を良くしたい、の『良い』ってなんだ?」

そんなことを今年の夏、片道約2時間半の山に一人で登りながら考えていた。でも、答えが出ないまま山頂に着いてしまい、思考が止まっていた。今回のデンマーク渡航で、山で漠然と考えていたことの続きを考え、帰国した今言葉にして、腹落ちできたような気がする。

誰もが一人の個人として かつ、society/communityの中でright と responsibilityを持った一員として 健康に生きている社会

そういう社会を成り立たせるのが、democracyであり、democraticなコミュニケーションや人間関係、組織の在り方なんだと思う。

元々私はデンマークで、自分の「こだわりポイント」を探そうと思っていた。言い換えれば、自分が仕事をする上で大切にしたいこと。譲りたくないこと。でもこれも結局は「わたしの生きたい社会」に通じているんだ、と気づいた。

今の私はこう考えている。また時間が経ったら自分の考えが変わってるかもしれない。けど、それはそれでいいかな。

自分の好きな価値観、大切にしたいこと、ありたい姿を、改めて考える機会をつくってくれてありがとう、デンマーク。
そして、いろんな発見や気づき、考えを共有してくれた、今回一緒にデンマークへ行ってくれたみんな、ありがとう。

最後まで読んでくださってありがとうございます!