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考えるに自分の価値を置いた人間


考えるに自分の価値を置いた人間のゆく末

言葉にして無形の気持ちに外形をつけることに価値を置いた人間のゆく末

それを伝えることを使命とした人間のゆく末


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7月半ば、はっきりと私の中に《曖昧性》が潜り込んできた瞬間があった

自分の0100(極端過ぎる)思考が悪いことはとうの昔から本を通して知っていた

原因も本が、ネットが、教えてくれた

無論、治るわけなく、あー治らないなあ、またこれだなあと日々を過ごしてきた

それなのに、『好きな人』というパワーは計り知れず、好きな人に私の思考が極端なことに違和感を覚えると言われた。(愛してるよ)
その日からの私は、曖昧性と複雑性を受け入れた。


実際に、曖昧で、複雑が「事実」ということは往々にしてあると思う

ただ今までの私は23年間と10ヶ月もの間、その曖昧性を嫌って、だから考えて、整理して、(整理できないものも、つまり事実として曖昧なものを整理整頓しようと、つまりできないことをできるようにもがいて苦しんだ、いつまでもゴールに辿り着かないのだから。)を繰り返してきた。


先日実家に帰っていたが、私は3歳だったり、言葉を理解することから「どうして」を求めてきたそうだ。だからすごく困ったと。まま、ありがとうね、大好きだよ。

ままは要素が少ない。

私は要素が多過ぎる。複雑なんだ。

私こそ複雑なので、複雑を受け入れることはつまり私を受け入れるということなのだ。

だからきっと、曖昧性、複雑性を受け入れることができたのは
非常に私を生きやすくするし、『本来の姿』により近づいたんだと思う。


ただ、ひっかかるのだ。

これでいいのか。

そのまま、気になる人にこの話をした。

最近曖昧を覚えた、でも曖昧を許容して良いのか時々不安になる


そうしたら、

なんだか、和やかに、にこにこした気持ちで「それはいつか自然とわかるんじゃないかなあ」

答えを出すことを、私と同じく言語化に意識を置いてきた、自分の価値としてきたあなたが、曖昧性を、曖昧性を持ち出してきた。

あなたがそういうなら、考えず、流され、たどり着くんだろうね。


私ってこんなに意固地で芯も意思も人一倍強いのに、とっても人に影響されやすいの。可愛いでしょう?

私は少し、肯定されすぎているよね。甘えすぎている。これが良いか悪いか分かんない。ここはまだ、曖昧でいい、かな?

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