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レジカウンターで退職を申し出るみじめさが、書店員の愛と誇りを知っている(#転職を余儀なくされる書店員の赤裸々)

「それでは、内定をお受けする形でお願いします」

正式に入社の意向を伝え、内定先との通話を切る。スマホをエプロンのポケットに戻し、深いため息とともに椅子に沈む。

家で落ち着いて電話を受けるつもりが、急遽出勤せざるを得なくなり、30分だけ職場の書店が入った建物のテラスまで抜け出してきた。

顔を上げると、換気のために開け放された窓から本棚が見える。転職活動をしていることは職場には伝えていない。レジに立つ同僚は死角にいるとはいえ隔てるものはなにもない。先ほどまでのやりとりが届いていないことを願う。


ひとりに任せきりにするわけにもいかず、ノートをたたみ立ち上がる。本当ならこの勢いで退職の申し出をしたかったが、シフト変更の理由が店長の不在なので仕方ない。

なんど経験しても「辞めます」と伝えるのはきつい。どれだけ「辞めてやる、こんちくしょう」と内心啖呵を切ったって、「これまで耐えてきた理不尽のすべてをぶちまけてやらあ」と爽快な去りぎわを妄想したって、いざ現実に移すとなると足がすくむ。


この数ヶ月のうちにも新しい仕事を覚え、朝令暮改されるシステムに順応してきた。心はどうあれ今後もここで働くという暗黙の前提を、私と職場との間に共有しているからだ。なんのアクションも起こさなければ、翌月も翌々月も翌年もシフトは組まれる。それがたったひとこと口にした瞬間、決定的に変わってしまう。

物語の主人公の最大の任務は”終わらせる”ことだ。主人公が渾身の力で振りかざした剣は、因縁の敵をぶった切ると同時に、終息に向けて舵を切る。自ら終わりへ向かわせなければならない恐怖と孤独を乗り越える時、だれもがスポットライトの中心となるのかもしれない。



数日ぶりに店長が出勤してきた朝、納品された本をラックに並べながら「話したいことがあるのですが」と切り出した。「それは大事な話ですよね」と確認され、覚悟を決める。

午前中のシフトはふたりきり。午後からもうひとり出勤してくる。話はそのあとだろうと、にわかに緊張しながら接客や伝票処理をこなし、昼前には客足も落ち着いた。レジの釣銭を確認し、あと30分ほどかと時計を見上げる。

「話、ここでもいい?」

予想だにせぬタイミングに、「え」と声が漏れる。私は1台しかないレジの前に立っていて、店長は問合せ対応兼作業用のカウンターに座っている。

こういう話は絶対バッグヤードだろ。

入念にイメージトレーニングしていた昨夜までの自分が脳内で吠える。


「裏でもいいけど、どっちにする?」


戸惑いが顔に出ていたのか、店長にゆだねられる。どうやら同僚の出勤を待つという選択はなさそうだった。



できることならバックヤードで落ち着いて話したい。退職日や書類の手配などの相談が来客によってとぎれとぎれになるのは困る。そもそも従業員の事情をあけっぴろげるのはよくないのではないか。しかし、レジをがら空きにするのはもっとよくない。店内をぐるりと見回してみる。幸い、客の姿はない。仕方なく「ここで」と答えた。


あまりに想定と異なるシチュエーションに気が抜けたのか、お客さんが来る前に終わらせなければという別のプレッシャーにすり替えられたのか、するりと本題を口にすることができた。会社の経営状況や運営方針などを鑑み、意向はすみやかに受け入れられた。


話を終え、昼休憩をもらって、バッグヤードに引き上げる。お弁当の包みをほどいて、冷えたご飯を咀嚼していると鼻の頭がじんわり熱くなって、涙があふれてくる。ティッシュで拭った途端に、ごまかしようもなく自分が泣いていることに気づいて、コントロールできなくなる。


ミッションを終えた安堵感とこれでもう本当に後戻りできない実感がこみ上げる。過去にもこの瞬間を潜り抜けてきたはずだが、今回は塩辛い涙の中に悔しさが混じっている。


入社後、経理担当を任された私は、勤務時間の半分をバックヤードでパソコンと伝票を相手に過ごしてきた。その仕事の重要性をわかっていながら、心は幾度もレジカウンターの方へ引きつけられた。作家や編集者が丹精込めてつくりあげた1冊を最後に手渡すあの場所は、私の神聖な場所。そこで「使命を手放したいです」と打ち明けるのは、これまで積み重ねきた仕事を自分で踏み躙るようで苦しかった。


本屋で働いていると告げると、みんな口を揃えた。

「今は休憩中みたいなものだね」
「正社員じゃないから、フットワーク軽くいられるでしょ」
「ずっと働いていくならの話だけど」


あらゆる語彙を駆使して「お前はふらふらしている」「どうせ腰掛けだろう」と突きつけてきた。実際、経営は苦しく、正社員登用の見込みはない。入社1年経たずしてシフトは削られ、到底大人ひとり生きていける給与もない。ずっと本屋でいられないことは、だれより私がはじめからわかっていた。


だけど、今ぜんぶ蹴散らせてやる。この涙で。


レジカウンターで退職を申し出るたったそれだけに、泣くほどの悔しさを感じる人が、この世にどれだけいるというのだろう。



いつか離れることになるとわかっていても、情熱は変わらずに注いできた。膨大な伝票を処理する傍ら、売上とにらめっこして毎日棚を並べ替えた。退勤後は家までの本屋を片っ端から梯子して情報を集め、衣食住を削ってできる限りの本を買った。レジに持ち込まれた1冊1冊を、折れや汚れがないか確かめ、丁寧にカバーをかけ、どうかこの本があなたの支えになりますようにと願いを込めて手渡した。

間違いなく本気で本を届けてきた。

のどを流れ落ちていく涙をのみ込みながら、スポットライトに照らされている今だけはみっともなくあろうと決める。全世界に一抹の恥もなく証明してやる、書店員の愛と誇りを。



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