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母と、わたし2


先日、母と電話をしていたら、母が、こんなことを言い始めた。

「最近テレビで、虐待のニュースとかよくやってるでしょ?お母さん、あれ見てて、あんた達に同じようなことやっていたよなって思うのよね」




たしかに、母は、しつけに厳しかった。
わたしが小さかった頃、とあるグループに定期的に参加しており、そこの風習が母に影響していたのではないかと思う。

わたしはわりと早熟で、小さい頃からまわりが何を求めているかがわかった。
なので、うまく立ち回っていたが、妹がよく怒られていたのは覚えている。

当然だ。
まだ幼児と乳児の境い目くらいから、きちんと座って話を聞くことを強いられ、そうできなかったら罰せられる。
確かに、虐待に近いものがあるかもしれない。

まぁ、ちなみに、早熟だったわたしは口が非常に達者だった。
そのため、わたしの反抗期はなかなかで、母と言い合いになり、わたしに口で勝てなかった母は、扇風機を投げつけてきたことがある。
これは、まあ、今思えばお互い様だ(笑)



母がしつけに厳しい、というより、こどもをきちんとさせられない母親でいるのが、しんどかったのだろう。
まわりの目や圧力で、そうせざるを得なかったんじゃないかな。

また、母は、わたしたちに厳しくして、正しい行いをさせることが、わたしたちを救えるとも思っていたのだと思う。
そうすることで、人は救われると教える集まりだったから。




その背景には、母の子育て環境があった。
父は、仕事人間で帰ってこない。
酒を飲み、暴れる人だった。
父は、母を強く否定する人でもあった。




母の両親と同居はしていたが、母はほぼひとりでわたしたち姉妹を育てたと言っても過言ではないだろう。
ちなみに、わたしたち姉妹は、四姉妹である。




きつかっただろうな。
孤独だったろうな。

今、自分が親になったからこそ、容易に、実感を持って想像できるが、しんどい状況だったのだと思う。
自己肯定感の低い母が、心の拠り所として、そのとあるグループに入れ込んでしまうのは、想像するに難くない。




ずーーーっと、両親が嫌いだった。
父の機嫌をとり、平穏を保つことが、大切なことだった。
それができない母を、見下していた。
わたしたち姉妹を、過酷な環境においた両親を許せなかった。




でも、この歳になって、冒頭の母の言葉を聞いた時、考えるより先に「そんなことないよ」と言っていた。


母は、わたしたちを守るのに必死だった。
そのために、自分を守ろうともしていた。
だから、まともに考えればちょっと信じられないような教えのグループにも、のめりこんでしまった。
父も、わたしたちのために家に帰れないくらい働いていた。
だから、酒に頼ったり、自分の威厳を力で表現したりしてしまったのだろう。


ぜーんぶ、愛だったのだ。
やっとわかった。


子供に厳しいしつけをしたり、手をあげることを容認したりするつもりは全くない。
でも、そこには、当人達にしかわからない愛が存在することもある。
本当にしあわせなことに、我が家はそうだった。
それだけは忘れずにいたいと思った。



こんな家、一刻も早く出て行きたい、もう二度と戻らないと思っていた。
きっと、四姉妹みんな、そう。

でも、今孫達が生まれ、家族が再集合するようになった。
家族のグループLINEで孫の成長を共有し、季節の節目にみんなで集まる。
こんな穏やかな時間が我が家に訪れるとは思わなかった。
うまくいかない時間がすんごくすんごく長かったけど、父と母の愛は、今こんな形に実を結んでいる。

それがわかったら、わたしは母にやっと甘えられそうだ。
思春期から社会人まで、妊娠期も出産直後も、わたしは母に甘えなかった。
甘えられるような人じゃないと思っていたから。(母は末っ子なので、どちらかというと甘える方の人である)
でも、ほんとうは、わたしが甘えようとしていなかっただけなのである。



来月、夫の出張の時に、母がうちに一泊していってくれることになった。
むすめっこをがんがんお任せして、家事もちょこちょこやってもらって、夜は久しぶりにゆっくり話して、ほぼ生まれてはじめて母に甘えてみようと思う。

だって、わたしも、赤ちゃんの頃はお母さんが大好きだったはずだから。
自分の、叶えられなかった思いを、大人になってから叶えてやろう。




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