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経済学のあけぼの:スペイン


「トマス・アクィナスの神学から出発した経済学」

人間の経済行為は、人間の歴史と同じく、長い期間を有します。衣食住などに関する経済行為(生産活動、消費活動など)を歴史として語ることはできますが、その経済行為が理論的、分析的、社会的、通商的に、総括的視点をもって語られるときに、「経済学」という学問が、本格的に登場したと思われます。

そのような観点で見るとき、経済学の歴史は比較的に新しく、16世紀をもって「経済学」は登場したと見做すことができます。以下に、スペインとイギリスを例として取り上げ、歴史的な流れを追ってみたいと思います。

1535年、ドミニコ会士のフランシスコ・デ・ビトリアがトマス・アクィナスの徴利(利子の徴収 / usura)論に関する講義をおこなったことをきっかけに、ドミニコ会学派における経済理論の研究が盛んになりました。

ビトリアを引き継いで、経済理論を本格的に展開することになったドミンゴ・デ・ソトは「公正価値論」を主張、さらにナバロ(マルティン・デ・アスピルクエタ)はソトの理論をもとに、貨幣数量説・購買力平価説を構築します。特に彼の貨幣数量説は、一般にこの学説の始祖とされるジャン・ボダンに時期的に先行するものです。

最後にルイス・デ・モリナが貨幣論・価格論を集大成し、経済学派としてのサラマンカ学派の知名度を一気に高めました。

サラマンカ学派(School of Salamanca)とは、16世紀から18世紀にかけてスペイン王国のサラマンカ大学を拠点として活動したスコラ学あるいは神学・哲学の学派です。

16世紀、サラマンカ大学のサン・エステバン神学院を拠点に、ドミニコ会士を中心にイエズス会士・アウグスチノ会士も加わっていた学派(ドミニコ会学派)と、17世紀〜18世紀の同大学サン・エリアス神学院を拠点とするカルメル会士の学派(カルメル会学派)に2大別され、ともにトマス・アクィナスの神学に基づく研究を行いました。

狭義の「サラマンカ学派」は後者を指しますが、前者のドミニコ会学派は、当時、顕在化していた価格革命の影響やインディアス先住民の問題に対応して活発に経世論を主張したことから、現在の国際法学・経済学の源流の一つと目されています。

「利益否定から利益肯定へ転じたトマス・アクィナス神学の学士たち」

彼らは、「生産コストに基づく公正な(客観的)価格」というスコトゥスの学説を否定し、「公正な価格」とは自然な交換によって確立された価格以上でもそれ以下でもないと定義づけました。

そしてトマス・アクィナス以来の自然法論に基づいて、独占を否定する一方で、徴利や為替取引については宗教倫理上の理由から出てくる非難をしりぞけて、肯定する立場をとりました。

彼らの経済理論は、スペインその他の西欧諸国が直面していた物価騰貴(価格革命)の原因を説明し、そうした現実とスコラ学(トマス・アクィナス)の調和をめざすものでした。

以上のようなサラマンカ学派の理論は、商業や金融による利益を否定していた中世スコラ学の立場から一歩抜け出し、それらを道徳的に擁護したという点で古典的自由主義の先駆と見ることができます。

面白いのは、スペインの大隆盛時代の経済現象を見つめていたドミニコ会士(宗教人)が、経済理論の構築に乗り出したという歴史的事実です。
 
「スペインが経済学の草創期となった背景」

スペインの隆盛は、大航海時代において、南北米大陸がヨーロッパ人による発見として認識された時期、すなわち、1492年から16世紀を中心に、新大陸の富を略奪、搾取した出来事の上に形成されたものです。

15世紀末のコロンブスによって大航海時代が本格化しますが、 経済的に大きな影響があったのは、南米のポトシ銀山(現在のボリビア南部)などから採掘された銀でした。

16世紀中から17世紀中にかけての約1世紀の間に、それまでヨーロッパに存在していた3倍の量の銀が流入したと推計されています。

これにより、物価革命(価格革命)と呼ばれる長期的な物価騰貴をヨーロッパは経験します。 銀の流入は利子率を低下させ、それが経済活動を刺激することになりました。ここから貨幣や利子率への関心が生まれていくのです。

価格革命とは、16世紀半ば以降、メキシコ、ペルー、ボリビアなどアメリカ大陸から大量の貴金属(おもに)が流入したことや、かつては緩やかな結びつきであったヨーロッパ等各地の商業圏が結びついて(商業革命)、需要が大幅に拡大されたことで、全ヨーロッパの銀価が下落し、大幅な物価上昇(インフレーション)がみられた現象を言います。

これにより、16世紀の西ヨーロッパは資本家的な企業経営にとってはきわめて有利な状況がうまれて、好況に沸き、商工業のいっそうの発展がもたらされましたが、反面、固定した地代収入に依存し、何世代にもおよぶ長期契約で土地を貸し出す伝統を有していた諸侯・騎士などの封建領主層には不利な状況となって、領主の没落を加速しました。

それに対し、東ヨーロッパでは、西ヨーロッパの拡大する穀物需要に応えるために、かえって農奴制が強化され、農場領主制と呼ばれる経営形態が進展しています。また、それまでの銀の主産地だった南ドイツの銀山を独占していた大富豪フッガー家や北イタリアの大商業資本の没落をもたらしました。

「物質と精神の結び付き」

学問への影響としては、当時、スペインのサラマンカ大学を中心に活動していた16世紀サラマンカ学派の神学者アスピルクエタやセリョリゴが、新大陸からの金銀流入と物価上昇を結びつけて捉え、今日でいう「貨幣数量説」に到達したことから、近代的経済学の先駆をなしたと言われています。

こうして、スペインの大学の神学部で学ぶドミニコ会学派などの学士たちが、近代経済学を開拓したという事実を前に、精神的(信仰的)分野に関わる学者たちが、物質的(経済的)分野の理論を構築するという対極の引き合いと融合が興味深いことであると言えるのですが、考えて見れば、人間において、心と体が不可分一体であるように、精神と物質もまた不可分一体であると言えます。


精神だけではどうにもならない、また、物質だけでもどうにもならないということでしょう。精神と物質は深く融合します。同様に、心と体は一体です。神学の学士たちが近代経済学を開拓したからと言って、何の不思議もありません。神学者たちが「かすみ定食」を食べて生きているわけではありません。

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