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「完璧」な結末の先へ。賛否両論の『トイ・ストーリー4』を、僕は全力で支持する。

【『トイ・ストーリー4』/ジョッシュ・クーリー監督】

「おもちゃ」の擬人化。量産型の無機物に、「命」を吹き込む。それは、今から24年前、ピクサー・アニメーション・スタジオが起こした奇跡であった。

しかし、そんな『トイ・ストーリー』シリーズには、いつかは真正面から向き合わなければならない一つのテーマがあった。

(以下、『トイ・ストーリー4』の重要なネタバレを含みます。)




今ならこう思う。

あの『トイ・ストーリー3』のラストを「完璧」な結末と評することで、僕たちは一種の思考停止の状態に陥っていたのかもしれない。

アンディとの別れ。その先に待っていた新しい出会い。ウッディやバズたちの幸福な日常は、またここから始まる。そう、信じ込んでいた。

しかしピクサーは、自分たちが作り上げたその結末を徹底的に批評し、本来描くべきはずであったもう一つの結末を描いた。


『トイ・ストーリー4』において、自分自身を「ゴミ」だと思い込むフォーキーに、ウッディは「おもちゃ」として生きることの意義と幸福を説く。

ウッディが語る「おもちゃ」の役割を、使命を、いや、もっと言えば、その生き様を、今まで僕たちは疑いもしなかった。『3』のゴミ焼却場のシーンにおいて、全ての「おもちゃ」がいつかは辿り着く「死」の場所が描かれたからこそ、それはある意味で仕方のないことだったのかもしれない。

しかし今作は、「おもちゃ」にとって、子供に遊んでもらうことこそが一番の幸福である、という、価値観は、大いなる誤解、そして欺瞞であると訴える。その鋭利すぎるほどのメッセージは、過去3作に心を動かされた人ほど、深く痛切に突き刺さるはずだ。


今から振り返れば、『2』において悪役として設定されていたプロスペクターは、「博物館に寄贈されたい」という切なる想いを抱いていた。それでは、彼のそうした願望は、本当に間違ったものであったのだろうか。

また、「完璧」な結末と評されていた『3』のラストシーンについて、ウッディは、あくまでも受動的に、次の子供に引き継がれるという「おもちゃ」としての運命を受け入れただけに過ぎない、と考えられるとしたら。

僕が『4』を観てハッとさせられたのは、「おもちゃ」として生まれたてのフォーキーが、ある意味で最もフラットな視点を持っていることだ。(また彼は、「おもちゃ」として生きる意義を後天的に押し付けられたキャラクターであるとも言える。)

そして、19年ぶりに僕たちの前に現れたボー・ピープ。彼女が、「おもちゃ」の役割に縛られずに自由に生きようとする女性として描かれていることこそが、何より決定的であった。


たとえ、過去3作の冒険の全てを否定することになったとしても、僕はこう思う。

僕たちの人生が無限の選択肢と可能性に満ちているように、「おもちゃ」の生き方に正解はない。もちろん、間違いもない。だからこそ、彼ら・彼女らには、自分の人生を謳歌して欲しい。

永遠なんてないのかもしれないけれど、新しい別れと、新しい出会いの先に、たしかに人生は続いていく。たとえどれだけ、辛くても、悲しくても、切なくても、子供部屋の外に広がる世界は、きっと広いと信じたい。

賛否両論が巻き起こることを覚悟した上で、それでも、「おもちゃ」の自由意志を描いた今作を、そして、そのテーマに真正面から挑んだピクサーを、僕は全力で支持する。



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