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「壬生義士伝」と「ゴジラ」

今回は、思い浮かぶままダラダラダラダラ書きたいと思います。多分長いし、ネタバレも含むので、お忙しい方、理屈言いにウンザリする方、両映画に興味ない方は、ご遠慮くださいませ。


「泣く話」というタイトルで、取り留めもなく書いた。最初に、映画「壬生義士伝」を拷問みたいに悲しい映画だ、と紹介した。別に腐しているわけではない。「泣ける映画」「泣かせる映画」の極北だと思うからである。あの映画には全ての泣ける要素が詰まっている。あれが武士かと言われたやつが、結局一番武士だった。そして人間だった。この逆説を噛み締めながら、観客はエンドロールを涙を流しながら見ることとなる。
 今、「壬生義士伝」には、泣ける全ての要素が入っている、と書いたが、舌の根も乾かないうちに恐縮だが、実はひとつ足りない。この映画で入れようにも絶対入れることのできない要素。それは「あー、よかった!」という安堵の涙である。先の拙文「泣く話」では、安堵の涙を雑に扱ったが、実は大切な、そして物語の大きな要素であることを、昨日「ゴジラ-1.0」を見てわかった。
結論めいたことを最初に書いてしまうと、私たち読者観客は、物語のラストを予め知っているということである。
 熱湯風呂というギャグがある。やるぞやるぞと思わせて、そして期待通りに熱湯に落として笑いを誘うアレである。ハプニング的な笑い全盛の昨今、何度やっても飽きさせないあの笑いの本質は、客が結末を知っていることに由来する。つまり客と物語を共有できているのである。
「壬生義士伝」は新撰組隊員の話である。結末は滅びることを客は知っている。ご丁寧にも、映画は新撰組の生き残りの斎藤一を最初に出して、主人公吉村貫一郎は死んでしまったことを暗示する。客は、主人公が死ぬのをわかっていて、物語を辿るのである。悲しいぞ悲しいぞと予想しながら結末はやっぱり悲しくて、涙涙である。しかも、この映画の場合、客を通俗なヒーローものの安易な涙に逃げることを許さない。
 もしこれをヒロイズムの涙として終わらせたいのなら、司馬遼太郎が「燃えよ剣」で描いた土方歳三のように、敵陣に突っ込むところで終え、その後を書かないことである。土方歳三がズタボロに殺されることを描けば、前向きのヒロイズムが、後ろ向きのヒロイズムになってしまう。「蒲田行進曲」のヤスになってしまう。(多分つかこうへい・深作欣二はそこを狙った)。主人公をカッコいいまま終わらせたければ、そこは書かないことである。映画「燃えよ剣」は、全体的に退屈な映画だが、ラストに土方が撃たれたところを描き、戸板に乗せられて運ばれる場面を描き、原作を台無しにしている。
 もとより「壬生義士伝」は、スーパーマン的なヒロイズムを拒否している。
 薩長軍に単身切り込んでいく場面がある。ここで終われば、司馬遼太郎の「燃えよ剣」になる。
 しかし、映画はその後も描く。ズタボロになった貫一郎は、それでもなお官軍に向かう。のではない。向かえば、殴られても殴られても立ち上がるボクサーのような、後ろ向きのヒロイズムが、そこに立ち上がる。だが、貫一郎は、戦場から離脱し、脱藩した藩邸に助けを求めるのである。彼の願いは生き延びることだった。中立を旨とする藩の意向は切腹せよ、であった。
 ああ、いかん。「壬生義士伝」の筋追いしすぎた。話をもどします。
つまり、
「壬生義士伝」→主人公死んじゃう→悲しい。
「ゴジラ」→ゴジラやっつけられる→安堵する。
この図式を予め観客は知っている、ということである。
今回の「ゴジラ」は、「ゴジラ」そのものに観客が感情移入できないように徹底して凶暴に描かれる。GOD(神)ZILLA的要素はまるでなく、これっぽっちも人間の味方にはならず、ただただ「ゴリラ」と「クジラ」の掛け合わせ通りの、怪獣「ゴジラ」がスクリーンにいる。
 だから観客はゴジラをやっつけてくれ! なんとかしてくれ! と強く思う。だから、皆んなで力を合わせてやっつけて、めでたしめでたしとなる。ゴジラは無事退治され、客は安堵する。せっかくラストでめでたしめでたしになったのだから、映画にでてくる人間ドラマもめでたしめでたしで終わらなければならないし、そうして映画は終わる。それで客は更に安堵する。全部終わって、あーよかった、と安堵の涙をとめどなく流す。(実際は、ゴジラ復活を思わせるワンカットが入るのだが、これは続編への布石のような、興行上の意味合いも含むので、ここでは無視する。典子のアザも同様である)。
「壬生義士伝」には、この安堵の涙がない。あーよかった、がない。だから拷問なのである。そして観客はそれを知っている。泣くために見ている。映画はヒロイズムを排した人間を見せてくるので、余計逃げ場がない。怒涛の涙。涙腺大崩壊である。これはこれでいい。
 結局、何が言いたいかというと、私は「壬生義士伝」が、「泣かせる映画」の極北だと思っていた。だが、今回「ゴジラ」を見て、そこにない涙の形を見つけた、と話したいのである。いや、安堵の涙は知ってはいたが、それで話を支えるのは難しいと考えていたのだ。
安堵して笑う、はよくある。ハッピーエンドである。ハリウッド映画は、殆どがハッピーエンドである。全世界の様々な国に売り込むには、ハッピーエンドは欠かせない。「壬生義士伝」のような悲しいお話はウケない。
 「ゴジラ-1.0」はアメリカで受けてるそうだ。ハッピーエンドだからだろう。それと、今回の「ゴジラ」が戦争をテーマにしたものだったからだろう。
 「ゴジラ」でめでたしめでたしで話は終わり、客は安堵するが、そこにあるのは安堵の笑いではなく安堵の涙だった。見てください。泣くから。
 なぜ笑えないかというと、テーマが戦争だからである。そこに先の震災を重ねる人もいるからである。生き残ったものの生きる責任を、突かれるからである。生き残ったことは確かにハッピーなのだが、それをあーよかった、と屈託なく喜ぶことはできないからである。でも、生き残ったことは、確かにハッピーなことなのだ。なんで俺だけがとか、なんで私がとか、考えてはいけない。生きてしまったのなら、生きていることを喜ぶべきだし、生きなければいけないよ。映画「ゴジラ」は、そう語っているように思う。生き残れてよかったね。よかったと思おうよ。そう語ってくれている。だから観客は涙をながすのである。
 アメリカでウケているのも分かる気がする。たぶん、ことに退役軍人たちに刺さる映画だと思う。アメリカはずっと戦争してきたし、またいつ始めるかもわからない国である。そうした人たちが、自国を説教されるのではなく、「ディアハンター」みたいに身につまされて語られるのではなく、「地獄の黙示録」みたいに、それは狂気だと語られるのでなく、「ランボー」みたいなおバカヒロイズムで語られるのでなく、構えず等身大で見ることができる映画が、自国から遠く離れたアジアの怪獣映画だったというわけなんだろう。
 言っちゃあなんだが、日本で戦争ということに真正面から取り組み、様々な角度で、途切れることなく、永続して語り続けたジャンルは、アニメと特撮なのだ。厚みが違うのだ。「ゴジラ」を見て、それを自分のこととして、アメリカ人に見させる技術なんて、とうに日本人は持ってる。「ゴジラ」では、米軍占領下の時代なのに、アメリカ人ひとりも出てこないしね。そこを制作側は見誤って、今回アメリカ封切りなるも、そんな当たると思ってなかったんで、吹き替え版つくってなかったとか。それでも当たっているスゴさ。
 長々書きました。すいません、行き当たりばったりに書いちゃって。まあ、なんと言いますか、要するに、「ゴジラ」面白かったってことです。最後に書かなかったけど、過去の、特に初期のゴジラ映画へのリスペクトが散りばめられて、それも楽しかったぞよ。

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