理解しようとすることは、思い上がりなのか?

職場の先輩と同期と三人で飲みに行った。

休日何してるのと聞かれたので、
先週はウィーン・モダン展で5時間かけて展示を観たのに良さが全くわからず、それが悲しくて美術を基礎から学びたくなったと話した。

それに対して先輩は知ろうとするのは思い上がりだよ、感性のまま感じればいいんだ、とフォローしてくれた。

知ろうとするのは思い上がりなんだろうか。

前述のウィーン・モダン展で何これ、と嗤って通り過ぎられている作品があった。

フランツ・クサーヴァー・メッサーシュミット
究極の愚か者
(「 性 格 表 現 の 頭 像 」シ リ ー ズ よ り )
1770 年以降
Wien Museum, Inv. No. 67.137

ウィーン芸術に影響を与えたフリーメイソンが人間の顔を重視していた、という説明に用いられていた。

私はその作品を観て、心理学と法学が想起された。ロンブローゾ、生来的犯罪人説である。

生来的犯罪人説によると、
人口の何割かは遺伝的に犯罪を犯す素質があり、その特徴は体格や顔に現れる。
犯罪と肉体に関連性を見出す、ダーウィンの影響を受けた考え方だ。
もちろん、現在では否定されている。

では、ロンブローゾは、『究極の愚か者』の像は、嗤って通り過ぎていいだけの代物なのだろうか。

現代の犯罪学の大きな問題として自由意思の問題がある。
実は我々が自由意志で判断したと感じるより先に脳が行動を決定しているというのだ。

つまり、意識は決断しておらず、肉体が決断していることになる。
犯罪と肉体を関連付けた点でロンブローゾと同じである。

しかしもし、自由意志がないなら、
脳が電気的に判断してるなら、
罪を犯した人間に帰責性があると言えるのだろうか。
国家が犯罪者に刑罰を課し人権を制限する根拠は何だろうか。

我々の社会も相当未開かもしれない。
相当未開かもしれない社会の価値観を無批判に受け入れることこそ、異なる思想への冒涜・思い上がりではないか。

だから私は知りたい。

目の前にある常識は愚かしいかもしれない。
故にそれを無批判に受け入れたら、野蛮に人を傷つけるかもしれない。

私の人生であるのだから、
私は人を傷つける根拠くらい自分で定義したい。それが責任を持つことだろう。

もしかしたらこの決定したのも脳で、自由意志でないかもしれない。
それでも、私であり続けるために学び続ける。
少なくとも学んだことは脳が決定するときの材料にはなるだろう。

そうでもしないと、私は『究極の愚か者』像に嗤われるかもしれない。

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