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【小説】「ポチ子奇談」犬を撫でに来る女1/3


1 庭にいた女


 穏やかな夜です。
 ポチ子が係留の鎖をカチャカチャいわせて騒いでいるので、私は夕食の洗い物を中断すると、居間へ行き、カーテンを少しだけ開いて、庭を覗きました。
 犬小屋から出て、嬉しそうに飛び跳ねるポチ子の前に、女性が一人しゃがんでいました。
 こちらに背を向けているので、彼女の顔は見えません。ただ黒髪と白い服が、闇の中にぼんやり浮かび上がっています。
「ねぇ、誰か来ているけれど」
 振り返って、夫のキクオに声をかけました。
「こんな時間に? 誰が来たのさ?」
 本を閉じると、彼は自分で車椅子を動かして、傍らにやって来ました。
「知らない人よ。犬小屋の前で――」
 彼に場所を譲るため、私は脇に退きます。
 しかし庭を覗いたキクオは、すぐにこちらを振り返り、変な顔をします。
「誰もいないじゃないか」
「え? 嘘!。女の人、確かにいたもの」
 私は再び庭を覗きましたが、彼の言うように、確かに、もう誰もいませんでした。
 僅か数秒の間に、彼女は消えていました。

不安な夜

慌てて庭に出てみると、ポチ子が小屋の中で、何もなかったように、丸くなって眠っていました。 あたりには梅雨の生ぬるい風が吹き、ピンクの紫陽花が闇にぼんやり浮かんでいました。

2 棕櫚のある家に住む私たちのこと


 私、尾美みる子は三三歳。夫のキクオは三五歳です。
 私たちは東京で暮らしていましたが、キクオが車椅子の生活になってしまったため、去年から、東京より北に位置する、この客人町(まろうどちょう)の大字玉来(おおあざたまき)にあるキクオの実家に移り住みました。

 客人町は、里山に囲まれた古い町で、田畑が広がり、果樹園や雑木林や鎮守の森があるばかりののどかな町です。

水田

 東京ではデザイン事務所で働いていたキクオは、ありがたいことにフリーランスのデザイナーとして、最近ぼちぼちと家で仕事ができるようになりました。 私は週に三日、近くの道の駅の中にある、天然酵母のパン屋さんで働いています。

 キクオの父は開業医です。そろそろ八十歳という高齢なので、閉院を考えているのですが、
「尾美診療所がないと困る。総合病院は混んでいるし、遠いから車がないと行けなくて大変だ」
 などと近所のお年寄りたちが訴えるものですから、いまだに現役です。
 看護師兼受付として、ずっと夫を支えてきた義母も、同様に自宅隣の診療所に出向いて働いています。
 そんな義父母の楽しみは、庭の一隅に作った畑で、季節の野菜を育てることです。 私とキクオの暮らす家は、その菜園の奥に残されていた、尾美家の古い離れ屋です。
 傍らに大きな棕櫚の木が植わる、青い瓦屋根の小さな平屋で、ポチ子の犬小屋は、その棕櫚の樹の下にあります。

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3 迷い犬に雑炊


 ポチ子は、今年の早春、庭へふらっと迷いこんできた、大きな茶色の雌犬です。
 これまで色々な所を歩いてきたらしく、汚れた被毛は枯れ草のようで、あばらの骨が浮くほど痩せていましたが、不遇らしき身の上などお構いなしに、嬉しそうに庭を走り、私たちにじゃれてきました。太い首には今にもちぎれそうな、ボロボロの赤い首輪が巻かれていますが、そこには迷子札も鑑札もついていません。
 私は急いで、残りご飯とあまり野菜を煮干しで煮て、最後に卵でとじたものをこしらえました。
 キクオと二人で見守る中、犬はアッという間にオジヤを平らげると、お腹を見せて身をくねらせ、それから日溜まりの中で丸くなり、ぐっすりと寝込んでしまいました。
 私はまたもや急いで、今度はホームセンターに行き、犬用の係留ロープや新しい首輪、おもちゃのボールを買いこみ、家に戻ってみれば、犬はまだ日溜まりの中で寝息をたてているのでした。
「温厚な子だね」
 と、キクオは嬉しそうです。



 私たちは『迷い犬』のチラシを作って、飼い主の現れるのを待ちましたが、どこからも連絡は来ません。
 季節は春から初夏を過ぎ、そして、とうとう梅雨入りをしたのは数日前のこと。
 その間、旬の野菜や肉や魚をせっせと食べさせた甲斐もあり、今ではポチ子の体つきは豊かに、被毛も艶やかになりました。
「アキタじゃないのかな」
 と、義父母は言いますが、動物病院の先生の見立ては、
「洋犬の血が少し入っている日本犬」
 とのこと。
 加えて、
「年齢は四、五歳で、健康そのもの」
 ということでした。
 立ち耳で巻尾、黒曜石のような丸い目をして、素直で大人しくて愛想がいい。ポチ子はそんな犬です。
 先週、保護して四ヶ月を迎えたので、私たちの犬として、ポチ子を町役場に登録してきました。
 窓口で鑑札をもらい、一心地ついたばかりでしたが、そんな矢先に見知らぬ女性が密かにポチ子を訪ねて来たのですから、
(まさか今になって、前の飼い主がポチ子を探し出してやって来たのでは?)
 と、モヤモヤと不安になってきました。

ポチ子

「ポチ子奇談」犬を撫でに来る女2/3に続く。

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