見出し画像

葉桜の頃になると

葉桜の頃になると、いつも亡くなった叔父のことを思い出す。

叔父は大学に入学して間もなく重い病に倒れ、右半身の自由を失ってしまった。その頃は今のような福祉の助けはなかったから、叔父は学業をあきらめ、仕事に就くこともなく、実家の兄の元でひっそりと生涯を終えた。

一人っ子だった私は、絵本を見るのも、庭で花や虫を見るのも、ままごと遊びもいつもひとり。でも、家にはいつも叔父がいた。母が畑仕事に行っているときも、買い物で留守番するように言われた時も、幼い日の私が無邪気に遊んでいる傍らには、いつでも叔父のやさしい視線があった。

高校を卒業して車の免許をとってから、私はよく、叔父を車に乗せてドライブに出かけるようになった。今みたいに、出かけた先はバリアフリーではなかったし、叔父は車椅子も持っていなかったから、車から降りて買い物をしたり食事をしたり等ということはできなくて、ただ車から外の景色を眺めて帰るだけだったけれど、ほとんど家から出かけることのなかった叔父は、私との一時間程度のドライブをとても喜んでくれた。

寒い冬は、体の不自由な叔父を陰鬱にさせたのだと思う。「早くあったかくなるといいね。」と、誰に言うともなく、よくつぶやいていた。だから、春が来るとうれしかった。桜が咲くと叔父を喜ばせたくて、美しい並木のある場所を見つけては車を走らせた。

その年の桜がもう散りはじめる頃、「これで桜も終わりだね」と名残惜しい気持ちで、叔父を乗せて最後の桜を楽しんだ。遠く町が見下ろせる、小高い岡に咲く桜はすでにおおかたの花が散っていて、満開の美しさが過ぎていたから、私は少し残念な気持ちだった。

その時、叔父は言ったのだ。「でもねぇ、おじさんは葉桜も好きだよ。葉桜もいいねぇ。」

それはやけにしみじみとした口調だったから、私はもう一度桜の木を見上げた。わずかに薄ピンクの花を残して赤茶の萼ばかりが残された桜は少しもきれいではなく、なんだかみっともない。そこに緑の葉が所々のぞいていた。

「葉桜もいい」叔父の言葉を、私は毎年思い出した。そして、どうしてもいいとは思うことはできなかった。満開の桜の元に大勢の人が集まり、風で散っていく中を去っていく。咲き終わった桜に関心を持つ人はほとんど居ない。残された残骸のような時期の桜は哀れで、私には美しいとは思えなかった。

今年の春はそもそも桜を楽しむ気持ちになれなかった。目をそらしていた桜が目に入ったのは、もう花も散り終わる頃だった。地面に敷き詰められた花びらが雨で湿っていた。うつむいたまま「今年も桜の時期は過ぎていくんだなぁ」そう思いながら顔を上げた。わずかに残った花の枝近く、芽吹きはじめた桜の葉の緑が目に入った。美しいと思った。

「葉桜も好きだよ」「葉桜もいいね」

叔父の言葉が空から響いて来た。あれから、ずっとこの言葉の意味を考えてきたんだよ。叔父さん、やっとわかった。葉桜っていいね。やっとわかったよ、叔父さん。なんだかうれしくて、私はどこかで見つめてくれている叔父に何度も呼びかけていた。


いただいたサポートは、本の購入に使わせていただきます。