コンセプト・ブックシェルフ 4話『清き心は月ぞてらさむ』(8月)

タイトル『清き心は月ぞてらさむ』

 足が地面につかなかった。なぜなら、体が浮遊していた。
 砂浜から眺める分には、海は青く見えなくもなかった。けど間近だと、海水はエメラルドのように緑色に輝いていた。汚いというわけではなく、肌に触れても嫌悪感はなかった。
 9歳だった俺は、浮き輪を持たずに泳いだ。海面に浮かぶブイの紐を掴んで行けば、流されることはないと思った。砂浜から沖にかけて、縦にずっと続いていた黄色とオレンジのブイを引っ張って、奥へ奥へ辿った。
 やがてブイの群は、俺を阻むように、横に並んだ。
 縦ブイと横ブイの交差する、90度角のような、ブイの狭間。
 真正面には、ぎらぎら無情に照った太陽と、ありったけ広がる緑色の海が広がっていた――沖だった。
 波に体が飲まれた。ブイの紐を離してしまい、全身が海水に沈んだ。
 鼻の穴に、縦に水が入ると、恐怖そのものだった。ガツンと鼻筋と目頭が痛くなった。
 何とかしようと手でもがいた。だけど努力とは裏腹に、耳に海水が入り、頭のてっぺんまで冷たくなった。
 母さんの姿が頭をよぎった。
 必死に上を向いて、両手を、頭より上にした。
 濁っていた視界が、白く、光り輝いた。

 夏休みに突入してから3週間が経過した。
 常々思うのは、夏休みがうれしいのは初めの1週間だけだ。
 遊びに行く当てもない。殺人的な暑さと蝉のうるささにやられて、外出する気も起きない。日数が経つにつれて、楽しくも何ともない、虚無でだらけたものになる。

「うぇ……この家やだ。サウナみたい……」

 白シャツにグレーショートパンツの姉ちゃんが、リビングまでぽてぽてと歩いて来た。額に大汗をかいている。長ソファにぐたっとうつ伏せに寝転がり、動かない。

「おい。そこどけよ」
 そこに座ろうとしていた俺は大迷惑なんだが。台所から持ってきた麦茶をテーブルに置いて、だらしない姉ちゃんの手を退ける。ソファの端っこに腰掛けた。

「ちょっとバカ。何でわざわざ近くに座るのよ」

 俺のわき腹をぺちぺち叩いてくる。

「ノーパソがあるからだ。ここで作業してんの」
「どっか行きなさいよ……」

 かくんと首を垂らして、叩いてきていた右腕も垂らした。

「姉ちゃんがどっか行け。寝るなら自分の部屋行け! どっかに遊んでこないのかよ?」
「うるさいなぁ。暑いのが悪いんじゃん……」

 姉ちゃんのぐうたらさは、日光に当たった吸血鬼に匹敵するかもしれない。

「つまんない~……」

 か細くうめいて、完全に消沈した。言わないけれど、その言葉には、心底同意した。
 母さんはこんな猛暑の中、買い出しに出かけた。すごいと思うぜ。家の中で何かしようとしても、圧倒的な暑さが邪魔をする。正直、ぼーっとするほか、家でできることがない。

「先月は名古屋行って楽しかったな~……」

 その言葉にも、やはり声には出さないけど、同意した。
 ノーパソの蓋を広げる。プログラムが画面に表示される。頭に入ってこない。締め切った窓を通過する、蝉の音がやかましい。
 エアコンが壊れたせいだ。


 リモコンを操作すればピッとは鳴る。しかし涼しくならない。
 8月。お盆突入直前のことだ。父さんが修理の問い合わせをしてくれた。だが、エアコンの工事会社もお盆休みに入るらしい。
 俺たちは本当に蒸し風呂のような家で、お盆の長い期間を過ごさなければならないのか?
 結局エアコンのメンテナンスを、父さんにしてもらった。そして今日、8月12日……。

「お父さんが壊したんだ」

 寝そべった姉ちゃんが、ぽつりと漏らした。

「お父さんが触ったからだ。お父さんのせいだ……」

 実に恨めしそうだ。そして、すまん父さん。擁護はしない。
 俺たちの対面側、テーブルを挟んだところに、ひとり用ソファがある。そこに父さんが腰掛けていた。大汗をかいて、びくとも反応せず、広げた新聞に目を落としている。

「お父さん、聞いてる!?」

 姉ちゃんが背中を反らせながら起き上がった。

「ん……」

 父さんは小さくうめいた。身じろぎもなく、無表情である。
 見慣れた姿だ。すごく静かで、こんなに暑いのに冬眠前の熊みたい。
 新聞を掴む指の周りが、暗く湿っていた。思えば、ページをさっきからめくっていない。休暇3日目がこの蒸し暑さでは、父さんもたまらないのかもしれない。

「ふたりとも、アレか」

 父さんが言った。
 姉ちゃんはまた寝そべり、ごろんと背中を向ける。無視を決め込むらしい。
 しょうがないから、俺が反応する。

「アレじゃわかんないんだって、父さん」
「涼しいところに行きたいか」

 父さんが新聞から目を離さずに言う。
 姉ちゃんが、首だけ父さんに向けた。

「行くってどこに……?」
「お前たちにも馴染みがあるだろう」

 だらけた格好の姉ちゃんだが、目の奥にかすかな輝きが見える。

「お前たちふたり、面白いことしたいか」
「えっ!」

 ばっと身を起こした。

「行く! ディズニー! サマーランド! こんな暑いとこ出よう! 出発しよ! お父さん大好き!」
「母さん買い出しに行ってるんだから、せめて明日だろうよ姉ちゃん?」
「やだ! 今日行く! 今行く! やった~! お父さん大好き♡」

 完全に起き上がり、ふかふかとソファで上下して、あげた両手が俺の肩にぶつかり、非常にうっとうしい。

「現金なバカ……」
「何よ高志。そんな事言うなら、一緒にディズニー回ってあげない。わたしぜったいニモ乗りたい~!」

 父さんが新聞を閉じて、脇に置いた。テーブルに置いてある湯飲みを掴み、湯気の立つ中身をすすった。よく飲むぜ……。
 ソファに座り直して、改めて俺たちに向き直った。

「そんなに喜んでくれるならよかった。お前たちを誘っても、このごろは乗り気じゃなかったからな」
「何よそれ。水臭いなあ! 言ってくれたら、いつでもついて行くし!」

 父さんはゆっくり、深くうなずいた。

「新潟、帰るか」

 姉ちゃんはずっと膨れっ面だ。家族の誰が何を聞いても「知らない」としか言わなかった。
 父さん、母さん、姉ちゃん、俺。それぞれ荷物を持って家から出発した。 タクシーに乗って、東京駅に着き、地下深くまでエスカレーターを下る。
 新幹線発車の合図であるけたたましいベルを、車内の座席で聞いた。
 トンネルを抜けた窓の景色は、ハーフミラーでギラギラ輝く高層ビルだった。それがあっという間に屋根の低い一軒家群に変わる。やがてそれも過ぎ去り、森や、田園や、遠くの山稜の光景――俺のよく知っている新潟になった。
 駅から出た。ロータリー東側にある駐車場で、じいちゃんがワゴン車で待っていた。

「高志~! おめぇ、遅かったじゃねえか。でかくなったなあ、おい!」

 じいちゃんはいつも豪快だ。今日は家族の誰よりも先に、俺に話しかけてきた。でも、2年ぶりに見たじいちゃんは、ずいぶん小さくなっていた。もちろん背以外は、まったく変わっていないけど。

「遅くねえよ。伝えたどおりの時間には来ただろ?」
「ワシゃぁ2時間も前からここにいて待ちくたびれたぞ?」
「そんな前から?」

 じいちゃんは背筋をぴんと伸ばして「がははは!」と豪快に笑った。その後せかせかとワゴン車のトランクを開けて「おい、ここのよ、ここに荷物全部乗せんかい!」と俺たち家族を急き立てた。


 ワゴン車は、最初は舗装された道路を進んだ。
 新潟の駅前って年々にぎやかになってきてる。正直東京とそんなに変わらない。
 でも少し走って道をいくつか曲がれば、あっという間に森の中に突入する。
 土の道だから揺れがすごい。曲がっているのか直進なのか、後部座席だとわからなかった。

「酔う……気持ち悪い……最悪……ディズニー……」

 後部座席で、俺の隣にいる姉ちゃんは、怨嗟でうめいていた。

「さっきから美咲はどうした? おい、風邪引いてんのか! 家帰ったら休め!」

 運転しているじいちゃんが、前を向きながら大声を張り上げた。

「うるさいし~……聞こえてるっつうの~」
「この子ったら、ディズニー行きたいとかプール行くとか言って、今朝から聞かないんです。すみませんね、おじいちゃん」

 後部座席の母さんが、それとなくフォローした。

「何だよ、そんなことか。ならディズニーなんぞより面白いものがよ、こっちにゃたくさんあるじゃねえか! はっはっは!」
「何よ、面白いものって~」
「川もありゃ花火もある!」

 じいちゃんの励ましに、姉ちゃんはこてんぱんに沈んだ。頭を窓にもたれさせて、一切聞く耳持たずになった。


 車が停まる。運転席の真後ろに座っていた、母さんから降りる。姉ちゃんは相変わらずぐったりしたままだったので、俺が手を引いて一緒に降りた。
 日光の遮りが何もない、まっさらな平地……眩しくて、手をひさしにする。視界が徐々に開けてくる。小石の敷き詰められた駐車場。周囲は畑と、果樹園。風がそよいで、みかんとねぎの香りがする。
 蝉がけたたましくて、暑いけど、蒸し蒸ししてないから、東京よりはずっと涼しい。
 駐車場から歩いてしばらくすると、純和風の大きな家に着いた。
玄関にはばあちゃんが待っていた。

「おかえり。まあ、大荷物じゃないの。麦茶飲むかい。スイカも切ってあるけど、食べるかい?」

 ばあちゃんの申し出に、俺も姉ちゃんも、1も2もなくうなずいた。

 とうもろこしが出てくる。トマトも出てきた。きゅうりも。冷やされたのも茹でたのもわんさと出てくる。ばあちゃんが俺たちに食べさせようとしてくる。
 夕食前だけど、もう腹いっぱいだった。
 けど、腹いっぱいなのに、またアスパラを出されて、齧ると甘くて、おいしく食べられる。

「高志もここでなら食べられるのにね。普段からそのくらい食べなさいよ」

 居間を通りかかった母さんに、不服そうに言われた。

「あ~あ。お母さんかわいそ~」

 隣できゅうりをしゃきっと齧る姉ちゃんに言われた。

「そう言われても、食べられるもんはしょうがねえよ」

 最後のアスパラを口に入れて食べ終えると、父さんとじいちゃんが、俺たちのいる居間に来た。瓶ビールと、空のコップ2つを持っている。


「よかったなあ~高志。そうか! いや、よかった高志! 心配してたぞ!」

 じいちゃんがやたら大きな声をあげて、俺の肩をばんばん叩く。
 夕食ができるまでの間に、父さんとじいちゃんは居間で晩酌をはじめた。 姉ちゃんは縁側で涼んでいる。苦しそうにお腹を抱えてるから、腹ごなしだろう。あとは酔っ払いに絡まれないための自衛か。

「ずっと便りがなかったからなあ、おい。高校、大丈夫そうか!」
「別に行きたくなくて、行かなかったわけじゃないし。行けるようになったから。今はまあ、ぼちぼちだよ」
「ぼちぼちかぁ! 何だぁお前、関西弁みたいじゃねえか。はっはっは!」

 酔っ払いのダル絡みに辟易とする。その話題はいやなのに。学校に行っていなかったのは、そりゃ悪いとは思ってるけど……。返事をせず黙っていた。肩も背中もばんばんと叩かれる。容赦ないから痛い。
 じいちゃんは、ごきゅっ、と喉を鳴らした。雫が伝う空のコップを、カン、と音を立ててちゃぶ台に打ち付けた。

「もう何杯目だよ。やめとけって、じいちゃん」

 じいちゃんは構わずに瓶ビールの蓋を開ける。注ぎ口からしゅわしゅわと泡がこぼれる。それを父さんのコップにビールを注ぐ。

「何のまだまだ。なあ、篤志!」

 じいちゃんが父さんの名前を呼んだ。

「ん……」

 父さんはいつもの調子だ。視線をどこに合わせているのやら、ちゃぶ台の中央を見つめている寡黙さだった。
 静かで無表情なのに、顔じゅうが真っ赤。じいちゃんのハイペースに合わせているんだからしょうがない。

「ん、おい、つまみがねえな。ばあさん! おい、早く持ってきてくれ!」
「はいはい。今行きますよ、おじいさん」

 ばあちゃんが台所からやってきた。枝付きの枝豆と、同じく枝付きのそら豆を、器に山盛りにして持ってきた。晩酌どころかそのまま夕食になりかねないほどだ。

「枝付きはうめえぞ。何たってコクが違えんだ……」

 じいちゃんは早速そら豆のさやを枝からちぎる。さやを向き、手づかみのそら豆を、俺に食わそうとしてきた。青臭さがぷんと鼻につく。
 俺は左手でそれを制しつつ、右手でさやの豆を手に取って口に含んだ。豆なはずなのに、噛むと牛乳みたいに濃厚で、たしかにおいしい。腹いっぱいだけど、これなら食える。

「何だよ水臭いな。俺に食わさせたっていいじゃねえか」
「じいちゃん、何かはめ外してる?」

 俺が聞くと、

「にぎやかにやらねえと。久々だからな……」

 すっかりできあがっている風だ。そのじいちゃんは、ふと、ぎょろりと目を父さんに向けた。

「篤志。お前、向こうに出てから何年経つ?」

 急に真面目な顔になって言うから、俺はきょとんとする。

「ん」

 父さんがうめきか返事か、よくわからない声を出した。じいちゃんはしばらく父さんを見つめて待った。やがて、手のひらで顔を覆い、あちゃ、と言った。

「お前よ、もっとしっかりしろってんだよ、おい! ばあさん、篤志が出て行ってから何年だ!」
「はいはい、今年で28年になるんじゃないですか、おじいさん」

 茹だった枝付きのそら豆を、器に入れて持ってきたばあちゃんが、ちゃぶ台に置きざまに答えた。ちゃぶ台がグリーンになっていく。

「んんむ、28年てなると、当時のワシは何歳で、お前は何歳だ? んん……?」

 じいちゃんは腕を組んで考え込む。

「じいちゃん、横になって休みなよ。相当酔っぱらってんじゃん。父さんは50だろ」

 先月、改めて父さんの年を知る機会があったから覚えていた。

「そうか、50か」

 じいちゃんは腕を組んだ姿勢のまま、真剣な目をした。

「お前ももう、50だ」

 ビールの入ったコップを、ちゃぶ台にカン、と音を立てて置いた。頑なとして手放さなかったのに。

「28年もここを空けた。ならきっと、最後まで向こうでやり切るんだろ。ワシもそれがいいとは思うぞ。だがな、篤志、その先はどうするつもりだ?」

 ばあちゃんは台所に戻らず、その場に座った。縁側にいた姉ちゃんも立ち上がり、近寄って、居間と縁側の敷居をまたぐ形で正座した。

「ん……」

 父さんは視線をちゃぶ台に向けたまま、ビールをすすった。

「定年まで先が見えてきた。なあ、そうだろ。再雇用で、会社に入りなおすか? それともきっぱりやめるか」

 定年という単語にも、じいちゃんの脅しのような言い方にも、どきっとした。

「こっちに戻ってくるのか? お前、仕事とは別にやりたいことはあるのかよ。それとも、高志と美咲が働きだすまでは、向こうにいるのか。どうするんだ? おい!」

 じいちゃんのまなざしがいつになく真剣に見えた。

「うん……」

 これだけ言われても、父さんはやっぱりいつもの調子だ。なかなか問答にならない。

「本当お前、これじゃ話になんねえよ……ったくよ」

 じいちゃんは皿に手を伸ばして、枝豆のさやをもぎった。ぷちっと指で腹をつまんで、豆を口に放る。

「おじいさん。篤志はこういう子なんですから、あんまり問い詰めないでくださいな」

 ばあちゃんが助け舟を出した。

「篤志はこれでいいんですよ。昔から、やりたいことはこれだってのがない子だったんですから。でもあたしにはわかりますよ。これでいいんです。満足していますよ」

 にこやかに言うばあちゃんを、じいちゃんが睨んだ。ばあちゃんは微笑んだままで、一歩も引かない。
 ふたりのにらみ合いの真ん中で、父さんが静かにビールをずず、とすすった。

「別にさ、どっちでもいいじゃん」

 姉ちゃんが言った。

「お父さん、新潟に戻るかもしんないし。でも東京にずっといるかもしれないし。そんなのわかんないよ。そのときになったら結論が出るよ。それじゃダメなの?」

 姉ちゃんの言葉に、じいちゃんも、ばあちゃんも、何も言わなかった。じいちゃんはうつむいて、やがてコップを掴み、中身のビールを一気にあおった。

「っぷはぁ。晩飯がないぞ。早く持ってこないか!」

 ガン、とコップの底を打ち付けたじいちゃんに、ばあちゃんは「はいはい」と調子を丸く合わせて、台所へ行った。じいちゃんは瓶を掴んで、ビールを父さんのコップに注いだ。

「ほら、飲みやがれ! ほらほら!」

 父さんが俺に向いて、目が合った。
 しばらく無言で見つめあった。やがて父さんは、また視線をちゃぶ台にやった。コップを口に持ってきて、泡をすすった。
 ……何だよ、ぼんやりしちゃって。

 ちゃぶ台は多種大量だ。茹でたとうもろこし、トマト、きゅうり、アスパラ。枝豆とそら豆。
 タコとまぐろの刺身。エビフライと唐揚げ、その裏に千切りキャベツ。大根とこんぶの煮付け。かまぼこ、こんにゃく。きんぴらごぼう。白菜のおひたし、たくわん。もやしと豆腐の味噌汁。ご飯の湯気が鼻にかぶって、甘い香りがする。その横から、肉汁や醤油や酢だとかの匂いも混じる。
 これだけ大量だと、どれから手を付ければいいかわからない。だけど、不思議と腹が減ってくる。いただきますを、居間に揃った全員で唱えた。

「腕によりをかけたんだから。あんたたち食べなさい」

 母さんが言った。タコを醤油皿につけてから噛む。歯ごたえが新鮮ですぐに噛み切れて、旨味が舌に広がる。

「あ。こんぶおいしい~。これどう作ったの?」
「さあな。ばあさんに教えてもらえ! はっはっは!」

 姉ちゃんの疑問をじいちゃんが豪快に吹き飛ばす。姉ちゃんはじいちゃんを睨みながら、今度は大根に手を伸ばす。口に入れると、ほっぺを手に当てて瞳をとろませる。
 父さんは、ばあちゃんにすすめられるまま、何でも食べていた。とうもろこし。トマト。きゅうりアスパラ。もっぱら畑でとれたものを食べさせたいらしい。
 新潟の食べ物はうまい。姉ちゃんも母さんもじいちゃんも、食べていて喜んでいる。けど父さんは、好き嫌いがなくて良いというより、自分の意志がないように見える。
そんなじいちゃんは食べてる途中で横になった。何事かと思ったら、いびきが聞こえた。

「ああ~もう。お夕飯食べ辛いよ~。何でよりによってわたしの隣で寝るのさ~!」

「美咲、寝かせてあげなさい。おじいさまはお疲れなのよ。迎えに来てくれて、野菜だってたくさん収穫してくれて。」

「別に寝るのはいいんだけど、何で隣……」

 姉ちゃんはまだぶつくさ言う。
 じいちゃんの飲みが止まったので、父さんももう飲まなくなった。枝豆やそら豆も、ばあちゃんが居間に座るまでは手をつけていなかったのに、今はもう言われるがまま食べる食べる。
まるっきり父さん自身がどうしたいのか、何を飲み食いしたいのか、わからない。

「唐揚げもらうぞ? あとタコも」

 メインディッシュの大皿には、父さんの分だけが残っている。だから聞いたのに、返事はない。両方とも俺が食べる。

「あ、高志それお父さんのよ。何やってんの?」
「知るかよ」

 母さんから叱られても構わない。のんきに、枝豆を噛んでいる父さんが、むかつく。

 学校でハブられる原因になったのは、自分の意見を言ったり、行動で表したりするのが、苦手だったからだ。
 4月。入学式が終わって、クラス分けがされた。
 体育の選択で、本当は剣道がやりたかった。
 けど希望者多数で抽選になったから、俺は降りた。不人気だった柔道にエントリーした。みんながそんなに剣道がいいなら、俺は譲ろう。剣道やりたいと言うのも、竹刀を振るうのがかっこいいと、何となく思っただけだった。
 でも、いざ柔道が始まってみるときつかった。先生が厳しい。受け身が痛い。水を飲めない。他組合同で行われる、不人気な柔道の授業には、つまるところ得意な人しか集まらない。
 話し相手がいない中、2時限連続で行われる柔道を、ずっとひとりで耐える。
 何より……授業の最後で、相手と組んで実践をする時間があって、張り切ってる他クラスの相手は、本気で取り掛かってきて。
 容赦ないから何度も投げられて。逃げようとしても大外刈りをくらって。立ち向かおうものなら組み伏せられて。
 腕を引き寄せられずに、背負い投げをされたから。陣地をはみ出して、壁に激突して、ガシャン、と音がした。窓が割れた。
 腰がいかれるんじゃないか、という痛みの中、やっと立ち上がった。体育教師に「いきのいいのが入学してきたな」と耳元で言われた。俺は肩を、思いっきり、たぶん全力の握力で掴まれた。激痛だった。指が肩の変なところに食い込んだ。
 投げたそいつと一緒に、空き教室へ連れていかれた。説教と反省文だった。痛む体で、ずっと作文していた。投げたそいつは「ふざけんなよ。お前のせいでこうなっただろ」と言ってきた。
 俺はもう、本気で嫌だった。望んだわけでもないのにきついのには耐えられなかった。
 体育のある日は学校へ行くのがイヤになった。
 クラスは、当時は人間関係が構築されつつある最中だった。けれど俺は柔道の一件以来、生徒と関わるのが嫌で、避けてきた。
 そしたら、気がつけばどのコミュニティからもあぶれていた。
 悩みを相談できる相手も、愚痴れる存在も、楽しくしゃべるのも、学校には、姉ちゃんしかいなかった。
 不登校への第一歩だった。
 でも、だ。
 俺のこの損な性格は、父さん譲りなんじゃないの? 
 元々、剣道をやりたかった。どうせ譲ることになろうと、抽選くらい受けてもよかったんじゃないのか。当たったら当たった、外れたら外れたで、それがコミュニティでの話題になったはずだ。
 柔道は、経験者しかいないような有様だった。俺は未経験者だから、先生に相談すれば、何か手はあったんじゃないか?
本気でかかってきた相手にも、何か言えば、違ったんじゃないの?
 クラスで孤立したのも……俺が、一方的に、もう学校のことを嫌いになったからだ。
 自分の意見を言ったり、行動で表したりすれば、何か別の道があったんじゃないのかよ。
 父さんが煮え切らないのがいけないんだよ! 
 俺は父さんの背中を見てきたから、そうなっちまうのは、もうどうしようもないんだよ。
 ずっとそれは意識しないようにしていたけど。もう、ひとたび思うとダメだ。
 父さん。俺が苦しんだの、父さんのせいじゃないのかよ?

 新潟での翌日は、ブラスバンドの応援と、大きな歓声、実況の声で目が覚めた。
 居間のテレビが高校野球を映していた。今日は9日目で、1回戦を勝ち上がった各校が対戦する。
 父さんしかいなかった。ただただ、テレビを見ている。ラップされたそら豆と枝豆の残りが、ちゃぶ台の上にある。水気が滴っている。
 父さんは時々真剣になる。母校でも出ているのだろうか。……と、思いきや、全然関係ない地方の代表校同士。関西と九州だ。

「あ……おはよう、父さん。じいちゃんはいないのかよ?」

 昨日の寝つきが悪かったのは、正直、父さんのことを悪く思っていたからだ。布団をかぶってからすぐ、悪い考えが頭から離れなかった。
 父さんは「ん」と答えた。それきり何も言わない。
 今朝、こういう機会があるってことは、仲直りしろってことなんだろう。

「埼玉大会の鴻巣高校、負けちゃったな。地区予選で。でも今年は結構いいとこまで行ったよな、ベスト16だし。あ、岩手大会の決勝で、大船渡の佐々木が出なかったよな。どう思う?」

 野球の話題を振ろうと思った。幸い、地区予選は熱心に見ていた。
でも、母さんの母校も、父さんの母校も負けてからは、見なくなった。ニュースで名前を聞くぐらいだ。
 俺の高校、ひいては東東京大会については、最初から追っていない。

「肩が減らないのはいいけどさ、やっぱり甲子園を経験してから、プロ入りして欲しかったな」

 無言がずっと続くので、必死に高校野球の話題で話を続ける。すると、

「監督の判断を外部がとやかく言うことじゃない」

 突き放すような返事が来た。
 ……昨日の今日だから、辛かった。

「なあ、俺とコミュニケーションとる気、あんまない?」

 そう言っても、やっぱり返事はなかった。じっと、テレビに注目するばかりだ。

 蛍光色の赤や青が、川面をほのかに照らした。ドド、ン、と、体を揺るがすような破裂音が遅れてやってきた。
 ちゃらんちゃらんと、賑やかな三味線、笛、太鼓が、遠くから聞こえる。川べりをずっと伝った向こう側に、夕暮れの色に溶けた、提灯の明かりがあった。
 みんな高台に集まって賑わっていた。出店も高台を囲うように出ていた。踊る人あり、食べる人あり、道行く人大勢。母さんや姉ちゃん、じいちゃんばあちゃんも、あの祭りの場にいる。
 俺は、大勢の笑顔の人たちに混ざる気分じゃない。
 ひゅー、と甲高い音がした。種火が燃え立つ空に打ち上がる。本番前の試し打ちだ。ドドン、パラパラ、と、破裂音。
 川面にほのかな色が浮かんでも、空にはほぼ何も見えない。一瞬きらりとするけど、すぐ夕暮れに負ける。
 かやくの刺激臭が、ぷんとした。鼻を通って、目の奥が痛む。いじけてひとり行動をしている俺には、お似合いかもしれなかった。誰もいないところを選んではいるが、俺のいるこの岸辺も、夜になればあっという間に人でいっぱいになる。

「高志、ここにいたのか」

 声がした。遠くからだ。

「探したぞ。お前何やってるんだ」

 振り向くと父さんだった。大柄な体を、のっそのっそと、熊のように歩ませていた。サンダルは甲しか留まらず、かかとが浮き上がるタイプで、歩きにくそうだった。

「別に何も」

 そう言ったけど、父さんは全然聞こえてない風に、耳に手を添えて「何だ」と言った。だから「別に!」と大声で返した。
今、一番会いたくなかったのは、父さんだ。

「そうか。帰るぞ」

 俺のそばまで来て、肩に手をかけてきた。握られる。トラウマがふっと蘇るが、ぐっと我慢する。
 父さんは無表情な顔で俺を覗き込む。

「老後、どうするんだよ父さん」
「何でそんなことを聞くんだ」

 父さんが手を放して、隣に座った。

「昨日、じいちゃんに言われても、ろくに考えてなかっただろ。なるようになるって顔してた」

 返事はない。ドド、ンと、響く。近くの水面が波紋を起こす。

「やりたいことなんてないんだろ。定年退職して、そのまんま家にいるようになったら、ぼけーっとして毎日過ごして、老け込んじまうんじゃねえのか」

 父さんは何も言わず、正面を見つめている。丸まった背中姿はやはり熊みたいだ。

「今の仕事が楽しい、ってのはわかるよ。どんなに忙しくても、やめられないって顔してる。でもよ、なら父さんは、仕事以外は、何をしてるんだ? 何が好きなんだよ? せめて老後は、父さんには、楽しく過ごしてもらいたいんだよ」
「高志、お前」
「でも父さんいつも無表情で何考えてるかわかんねえ!」 

 叫ぶと、喉が痛んだ。

「父さん、何考えてんの? 俺わかんねえよ」

 服を脱いで、投げた。もともとTシャツだけ着ていて、下は水着だった。オレンジ色の川に向かう。

「お前何してる。危ないぞ!」
「そうかよ」

 ばしゃん、と飛び込んだ。
 もともと泳ぐつもりでいた。ただ、ずっと考え込んでいたせいで、夕暮れまでもつれ込んだだけだ。
 泳ぎは苦手だ。クロールは、腕を回しているうちに、自分が何をどうしてるのかわからなくなる。息継ぎのタイミングや、今どっちの腕を回してどっちをひっこめたとか、何かひとつがわからなくなると、連鎖してどんどんわからなくなる。
 けど今は、わからなくなっても、体力を無理に使って泳ぎきれる。9歳の頃とは違う。
 川の中央に小島があるから、そこまで行こうと思った。水流は右から来ていた。
 ある地点から、圧が右から左に切り替わった。
 体が一回転した。鼻に水が入った。鼻筋と目頭が痛くなる。恐怖を感じる。
 顔を思い切り川面から跳ね上げた。
 真っ赤な夕焼けに染まった川。
 見慣れた景色と違う、と気づいた。
 ぞっ、とした。
 俺は、なんて無鉄砲に任せて、ここまできてしまったんだ。
 パシャパシャと、泳いできている姿があった。
 サメ……か? 一瞬絶望するが、いや、ここ信濃川だ。すぐにそうではないとわかる。
 くまだった。父さんだ。
 俺の近くで停止して、浮き上がった。

「高志。帰るぞ」
「……何やってんだよ。服、脱いだのか?」
「パンツだけだ」
「それどうかと思うんだけど」

 俺がそういったのにも構わず、父さんは背を向けて、川岸に泳いでいった。

 ゆっくりした平泳ぎで、岸へ引き返す。
 夕焼けが薄暮れになる。
 9歳のころ、エメラルドの海、横と縦のブイの狭間。引き上げられた記憶が、ふいに脳裏をよぎった。
 暗い視界が、眩しくなったんだ。激しく咳き込む俺を、父さんが抱えた。
 あのときの、咳き込みながらした呼吸は、鼻も目も痛くてたまらなかったけど、うまかった。空気ってこんなにうまいものなのかと、そのときに初めて知った。
 新潟の海は、俺はそれ以来行っていないけど。
 岸についた。あがって、水に滴るまま、その場に腰を下ろした。父さんは本当にパンツ一丁で川に飛び込んだみたいで、ズボンを履くのをどうするか迷った挙句、俺の隣に座った。
 提灯灯りのある遠くから、音楽と、『ご来場の皆さま』というアナウンスが響いて来た。
 ドド、ン、パラパラの音は、いよいよ本格的になった。薄暮れの空に大量の花火が舞い散る。花火がなくなると、雲の色よりも濃い煙が、竜巻のように昇った。

「高志。戻るぞ」

 父さんが立ち上がり、ズボンと上着を着た。

「父さんは、何考えてるんだよ」
「お前たちがいれば、それですべていいんだよ」

 連続してあがった花火はぱちぱちと、まるで薪が燃えるような音だった。バイオリンの音楽、色とりどりのネオン。巨大な花を咲かせて、残り火が柳の木みたいに垂れさがる、金色の花火。

「お前たちの幸せのためなら、死んでもいいと誓ったんだ」

 すっかり暗くなった空の下、花火の光で、父さんの横顔が照った。ちらちらと光るその目は、力強く、火花を散らしているように見えた。

 新潟から、自宅に戻ったのは18日だった。
 19日の月曜日から、父さんは何事もなかったように働きに出る。
 朝7時。スーツ姿の父さんは、リビングのソファから立った。長ソファに座っていた俺も父さんを追いかけて、玄関まで来た。

「行ってくる」

 それだけ言って、父さんは背中を向けた。玄関の扉が開かれると、嫌になるくらいむわっとした気温が、家の中に入り込んだ。
蝉の音がミンミンミンと、やかましく大きく聞こえた。父さんの……何も言わない背中を、扉が閉まるまで、じっと見つめた。

 コンセプトブックシェルフ 8月『清き心は月ぞてらさむ』 完

 これで町田家の家族のお話はおしまいです。
 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
 後日、ちょっとした発表をいたします。
 よろしくお願いいたします。