コンセプト・ブックシェルフ 4話『清き心は月ぞてらさむ』(8月)
タイトル『清き心は月ぞてらさむ』
足が地面につかなかった。なぜなら、体が浮遊していた。
砂浜から眺める分には、海は青く見えなくもなかった。けど間近だと、海水はエメラルドのように緑色に輝いていた。汚いというわけではなく、肌に触れても嫌悪感はなかった。
9歳だった俺は、浮き輪を持たずに泳いだ。海面に浮かぶブイの紐を掴んで行けば、流されることはないと思った。砂浜から沖にかけて、縦にずっと続いていた黄色とオレンジのブイを引っ張って、奥へ奥へ辿った。
やがてブイの群は、俺を阻むように、横に並んだ。
縦ブイと横ブイの交差する、90度角のような、ブイの狭間。
真正面には、ぎらぎら無情に照った太陽と、ありったけ広がる緑色の海が広がっていた――沖だった。
波に体が飲まれた。ブイの紐を離してしまい、全身が海水に沈んだ。
鼻の穴に、縦に水が入ると、恐怖そのものだった。ガツンと鼻筋と目頭が痛くなった。
何とかしようと手でもがいた。だけど努力とは裏腹に、耳に海水が入り、頭のてっぺんまで冷たくなった。
母さんの姿が頭をよぎった。
必死に上を向いて、両手を、頭より上にした。
濁っていた視界が、白く、光り輝いた。
◇
夏休みに突入してから3週間が経過した。
常々思うのは、夏休みがうれしいのは初めの1週間だけだ。
遊びに行く当てもない。殺人的な暑さと蝉のうるささにやられて、外出する気も起きない。日数が経つにつれて、楽しくも何ともない、虚無でだらけたものになる。
「うぇ……この家やだ。サウナみたい……」
白シャツにグレーショートパンツの姉ちゃんが、リビングまでぽてぽてと歩いて来た。額に大汗をかいている。長ソファにぐたっとうつ伏せに寝転がり、動かない。
「おい。そこどけよ」
そこに座ろうとしていた俺は大迷惑なんだが。台所から持ってきた麦茶をテーブルに置いて、だらしない姉ちゃんの手を退ける。ソファの端っこに腰掛けた。
「ちょっとバカ。何でわざわざ近くに座るのよ」
俺のわき腹をぺちぺち叩いてくる。
「ノーパソがあるからだ。ここで作業してんの」
「どっか行きなさいよ……」
かくんと首を垂らして、叩いてきていた右腕も垂らした。
「姉ちゃんがどっか行け。寝るなら自分の部屋行け! どっかに遊んでこないのかよ?」
「うるさいなぁ。暑いのが悪いんじゃん……」
姉ちゃんのぐうたらさは、日光に当たった吸血鬼に匹敵するかもしれない。
「つまんない~……」
か細くうめいて、完全に消沈した。言わないけれど、その言葉には、心底同意した。
母さんはこんな猛暑の中、買い出しに出かけた。すごいと思うぜ。家の中で何かしようとしても、圧倒的な暑さが邪魔をする。正直、ぼーっとするほか、家でできることがない。
「先月は名古屋行って楽しかったな~……」
その言葉にも、やはり声には出さないけど、同意した。
ノーパソの蓋を広げる。プログラムが画面に表示される。頭に入ってこない。締め切った窓を通過する、蝉の音がやかましい。
エアコンが壊れたせいだ。
リモコンを操作すればピッとは鳴る。しかし涼しくならない。
8月。お盆突入直前のことだ。父さんが修理の問い合わせをしてくれた。だが、エアコンの工事会社もお盆休みに入るらしい。
俺たちは本当に蒸し風呂のような家で、お盆の長い期間を過ごさなければならないのか?
結局エアコンのメンテナンスを、父さんにしてもらった。そして今日、8月12日……。
「お父さんが壊したんだ」
寝そべった姉ちゃんが、ぽつりと漏らした。
「お父さんが触ったからだ。お父さんのせいだ……」
実に恨めしそうだ。そして、すまん父さん。擁護はしない。
俺たちの対面側、テーブルを挟んだところに、ひとり用ソファがある。そこに父さんが腰掛けていた。大汗をかいて、びくとも反応せず、広げた新聞に目を落としている。
「お父さん、聞いてる!?」
姉ちゃんが背中を反らせながら起き上がった。
「ん……」
父さんは小さくうめいた。身じろぎもなく、無表情である。
見慣れた姿だ。すごく静かで、こんなに暑いのに冬眠前の熊みたい。
新聞を掴む指の周りが、暗く湿っていた。思えば、ページをさっきからめくっていない。休暇3日目がこの蒸し暑さでは、父さんもたまらないのかもしれない。
「ふたりとも、アレか」
父さんが言った。
姉ちゃんはまた寝そべり、ごろんと背中を向ける。無視を決め込むらしい。
しょうがないから、俺が反応する。
「アレじゃわかんないんだって、父さん」
「涼しいところに行きたいか」
父さんが新聞から目を離さずに言う。
姉ちゃんが、首だけ父さんに向けた。
「行くってどこに……?」
「お前たちにも馴染みがあるだろう」
だらけた格好の姉ちゃんだが、目の奥にかすかな輝きが見える。
「お前たちふたり、面白いことしたいか」
「えっ!」
ばっと身を起こした。
「行く! ディズニー! サマーランド! こんな暑いとこ出よう! 出発しよ! お父さん大好き!」
「母さん買い出しに行ってるんだから、せめて明日だろうよ姉ちゃん?」
「やだ! 今日行く! 今行く! やった~! お父さん大好き♡」
完全に起き上がり、ふかふかとソファで上下して、あげた両手が俺の肩にぶつかり、非常にうっとうしい。
「現金なバカ……」
「何よ高志。そんな事言うなら、一緒にディズニー回ってあげない。わたしぜったいニモ乗りたい~!」
父さんが新聞を閉じて、脇に置いた。テーブルに置いてある湯飲みを掴み、湯気の立つ中身をすすった。よく飲むぜ……。
ソファに座り直して、改めて俺たちに向き直った。
「そんなに喜んでくれるならよかった。お前たちを誘っても、このごろは乗り気じゃなかったからな」
「何よそれ。水臭いなあ! 言ってくれたら、いつでもついて行くし!」
父さんはゆっくり、深くうなずいた。
「新潟、帰るか」
◇
姉ちゃんはずっと膨れっ面だ。家族の誰が何を聞いても「知らない」としか言わなかった。
父さん、母さん、姉ちゃん、俺。それぞれ荷物を持って家から出発した。 タクシーに乗って、東京駅に着き、地下深くまでエスカレーターを下る。
新幹線発車の合図であるけたたましいベルを、車内の座席で聞いた。
トンネルを抜けた窓の景色は、ハーフミラーでギラギラ輝く高層ビルだった。それがあっという間に屋根の低い一軒家群に変わる。やがてそれも過ぎ去り、森や、田園や、遠くの山稜の光景――俺のよく知っている新潟になった。
駅から出た。ロータリー東側にある駐車場で、じいちゃんがワゴン車で待っていた。
「高志~! おめぇ、遅かったじゃねえか。でかくなったなあ、おい!」
じいちゃんはいつも豪快だ。今日は家族の誰よりも先に、俺に話しかけてきた。でも、2年ぶりに見たじいちゃんは、ずいぶん小さくなっていた。もちろん背以外は、まったく変わっていないけど。
「遅くねえよ。伝えたどおりの時間には来ただろ?」
「ワシゃぁ2時間も前からここにいて待ちくたびれたぞ?」
「そんな前から?」
じいちゃんは背筋をぴんと伸ばして「がははは!」と豪快に笑った。その後せかせかとワゴン車のトランクを開けて「おい、ここのよ、ここに荷物全部乗せんかい!」と俺たち家族を急き立てた。
ワゴン車は、最初は舗装された道路を進んだ。
新潟の駅前って年々にぎやかになってきてる。正直東京とそんなに変わらない。
でも少し走って道をいくつか曲がれば、あっという間に森の中に突入する。
土の道だから揺れがすごい。曲がっているのか直進なのか、後部座席だとわからなかった。
「酔う……気持ち悪い……最悪……ディズニー……」
後部座席で、俺の隣にいる姉ちゃんは、怨嗟でうめいていた。
「さっきから美咲はどうした? おい、風邪引いてんのか! 家帰ったら休め!」
運転しているじいちゃんが、前を向きながら大声を張り上げた。
「うるさいし~……聞こえてるっつうの~」
「この子ったら、ディズニー行きたいとかプール行くとか言って、今朝から聞かないんです。すみませんね、おじいちゃん」
後部座席の母さんが、それとなくフォローした。
「何だよ、そんなことか。ならディズニーなんぞより面白いものがよ、こっちにゃたくさんあるじゃねえか! はっはっは!」
「何よ、面白いものって~」
「川もありゃ花火もある!」
じいちゃんの励ましに、姉ちゃんはこてんぱんに沈んだ。頭を窓にもたれさせて、一切聞く耳持たずになった。
車が停まる。運転席の真後ろに座っていた、母さんから降りる。姉ちゃんは相変わらずぐったりしたままだったので、俺が手を引いて一緒に降りた。
日光の遮りが何もない、まっさらな平地……眩しくて、手をひさしにする。視界が徐々に開けてくる。小石の敷き詰められた駐車場。周囲は畑と、果樹園。風がそよいで、みかんとねぎの香りがする。
蝉がけたたましくて、暑いけど、蒸し蒸ししてないから、東京よりはずっと涼しい。
駐車場から歩いてしばらくすると、純和風の大きな家に着いた。
玄関にはばあちゃんが待っていた。
「おかえり。まあ、大荷物じゃないの。麦茶飲むかい。スイカも切ってあるけど、食べるかい?」
ばあちゃんの申し出に、俺も姉ちゃんも、1も2もなくうなずいた。
◇
とうもろこしが出てくる。トマトも出てきた。きゅうりも。冷やされたのも茹でたのもわんさと出てくる。ばあちゃんが俺たちに食べさせようとしてくる。
夕食前だけど、もう腹いっぱいだった。
けど、腹いっぱいなのに、またアスパラを出されて、齧ると甘くて、おいしく食べられる。
「高志もここでなら食べられるのにね。普段からそのくらい食べなさいよ」
居間を通りかかった母さんに、不服そうに言われた。
「あ~あ。お母さんかわいそ~」
隣できゅうりをしゃきっと齧る姉ちゃんに言われた。
「そう言われても、食べられるもんはしょうがねえよ」
最後のアスパラを口に入れて食べ終えると、父さんとじいちゃんが、俺たちのいる居間に来た。瓶ビールと、空のコップ2つを持っている。
「よかったなあ~高志。そうか! いや、よかった高志! 心配してたぞ!」
じいちゃんがやたら大きな声をあげて、俺の肩をばんばん叩く。
夕食ができるまでの間に、父さんとじいちゃんは居間で晩酌をはじめた。 姉ちゃんは縁側で涼んでいる。苦しそうにお腹を抱えてるから、腹ごなしだろう。あとは酔っ払いに絡まれないための自衛か。
「ずっと便りがなかったからなあ、おい。高校、大丈夫そうか!」
「別に行きたくなくて、行かなかったわけじゃないし。行けるようになったから。今はまあ、ぼちぼちだよ」
「ぼちぼちかぁ! 何だぁお前、関西弁みたいじゃねえか。はっはっは!」
酔っ払いのダル絡みに辟易とする。その話題はいやなのに。学校に行っていなかったのは、そりゃ悪いとは思ってるけど……。返事をせず黙っていた。肩も背中もばんばんと叩かれる。容赦ないから痛い。
じいちゃんは、ごきゅっ、と喉を鳴らした。雫が伝う空のコップを、カン、と音を立ててちゃぶ台に打ち付けた。
「もう何杯目だよ。やめとけって、じいちゃん」
じいちゃんは構わずに瓶ビールの蓋を開ける。注ぎ口からしゅわしゅわと泡がこぼれる。それを父さんのコップにビールを注ぐ。
「何のまだまだ。なあ、篤志!」
じいちゃんが父さんの名前を呼んだ。
「ん……」
父さんはいつもの調子だ。視線をどこに合わせているのやら、ちゃぶ台の中央を見つめている寡黙さだった。
静かで無表情なのに、顔じゅうが真っ赤。じいちゃんのハイペースに合わせているんだからしょうがない。
「ん、おい、つまみがねえな。ばあさん! おい、早く持ってきてくれ!」
「はいはい。今行きますよ、おじいさん」
ばあちゃんが台所からやってきた。枝付きの枝豆と、同じく枝付きのそら豆を、器に山盛りにして持ってきた。晩酌どころかそのまま夕食になりかねないほどだ。
「枝付きはうめえぞ。何たってコクが違えんだ……」
じいちゃんは早速そら豆のさやを枝からちぎる。さやを向き、手づかみのそら豆を、俺に食わそうとしてきた。青臭さがぷんと鼻につく。
俺は左手でそれを制しつつ、右手でさやの豆を手に取って口に含んだ。豆なはずなのに、噛むと牛乳みたいに濃厚で、たしかにおいしい。腹いっぱいだけど、これなら食える。
「何だよ水臭いな。俺に食わさせたっていいじゃねえか」
「じいちゃん、何かはめ外してる?」
俺が聞くと、
「にぎやかにやらねえと。久々だからな……」
すっかりできあがっている風だ。そのじいちゃんは、ふと、ぎょろりと目を父さんに向けた。
「篤志。お前、向こうに出てから何年経つ?」
急に真面目な顔になって言うから、俺はきょとんとする。
「ん」
父さんがうめきか返事か、よくわからない声を出した。じいちゃんはしばらく父さんを見つめて待った。やがて、手のひらで顔を覆い、あちゃ、と言った。
「お前よ、もっとしっかりしろってんだよ、おい! ばあさん、篤志が出て行ってから何年だ!」
「はいはい、今年で28年になるんじゃないですか、おじいさん」
茹だった枝付きのそら豆を、器に入れて持ってきたばあちゃんが、ちゃぶ台に置きざまに答えた。ちゃぶ台がグリーンになっていく。
「んんむ、28年てなると、当時のワシは何歳で、お前は何歳だ? んん……?」
じいちゃんは腕を組んで考え込む。
「じいちゃん、横になって休みなよ。相当酔っぱらってんじゃん。父さんは50だろ」
先月、改めて父さんの年を知る機会があったから覚えていた。
「そうか、50か」
じいちゃんは腕を組んだ姿勢のまま、真剣な目をした。
「お前ももう、50だ」
ビールの入ったコップを、ちゃぶ台にカン、と音を立てて置いた。頑なとして手放さなかったのに。
「28年もここを空けた。ならきっと、最後まで向こうでやり切るんだろ。ワシもそれがいいとは思うぞ。だがな、篤志、その先はどうするつもりだ?」
ばあちゃんは台所に戻らず、その場に座った。縁側にいた姉ちゃんも立ち上がり、近寄って、居間と縁側の敷居をまたぐ形で正座した。
「ん……」
父さんは視線をちゃぶ台に向けたまま、ビールをすすった。
「定年まで先が見えてきた。なあ、そうだろ。再雇用で、会社に入りなおすか? それともきっぱりやめるか」
定年という単語にも、じいちゃんの脅しのような言い方にも、どきっとした。
「こっちに戻ってくるのか? お前、仕事とは別にやりたいことはあるのかよ。それとも、高志と美咲が働きだすまでは、向こうにいるのか。どうするんだ? おい!」
じいちゃんのまなざしがいつになく真剣に見えた。
「うん……」
これだけ言われても、父さんはやっぱりいつもの調子だ。なかなか問答にならない。
「本当お前、これじゃ話になんねえよ……ったくよ」
じいちゃんは皿に手を伸ばして、枝豆のさやをもぎった。ぷちっと指で腹をつまんで、豆を口に放る。
「おじいさん。篤志はこういう子なんですから、あんまり問い詰めないでくださいな」
ばあちゃんが助け舟を出した。
「篤志はこれでいいんですよ。昔から、やりたいことはこれだってのがない子だったんですから。でもあたしにはわかりますよ。これでいいんです。満足していますよ」
にこやかに言うばあちゃんを、じいちゃんが睨んだ。ばあちゃんは微笑んだままで、一歩も引かない。
ふたりのにらみ合いの真ん中で、父さんが静かにビールをずず、とすすった。
「別にさ、どっちでもいいじゃん」
姉ちゃんが言った。
「お父さん、新潟に戻るかもしんないし。でも東京にずっといるかもしれないし。そんなのわかんないよ。そのときになったら結論が出るよ。それじゃダメなの?」
姉ちゃんの言葉に、じいちゃんも、ばあちゃんも、何も言わなかった。じいちゃんはうつむいて、やがてコップを掴み、中身のビールを一気にあおった。
「っぷはぁ。晩飯がないぞ。早く持ってこないか!」
ガン、とコップの底を打ち付けたじいちゃんに、ばあちゃんは「はいはい」と調子を丸く合わせて、台所へ行った。じいちゃんは瓶を掴んで、ビールを父さんのコップに注いだ。
「ほら、飲みやがれ! ほらほら!」
父さんが俺に向いて、目が合った。
しばらく無言で見つめあった。やがて父さんは、また視線をちゃぶ台にやった。コップを口に持ってきて、泡をすすった。
……何だよ、ぼんやりしちゃって。
◇
ちゃぶ台は多種大量だ。茹でたとうもろこし、トマト、きゅうり、アスパラ。枝豆とそら豆。
タコとまぐろの刺身。エビフライと唐揚げ、その裏に千切りキャベツ。大根とこんぶの煮付け。かまぼこ、こんにゃく。きんぴらごぼう。白菜のおひたし、たくわん。もやしと豆腐の味噌汁。ご飯の湯気が鼻にかぶって、甘い香りがする。その横から、肉汁や醤油や酢だとかの匂いも混じる。
これだけ大量だと、どれから手を付ければいいかわからない。だけど、不思議と腹が減ってくる。いただきますを、居間に揃った全員で唱えた。
「腕によりをかけたんだから。あんたたち食べなさい」
母さんが言った。タコを醤油皿につけてから噛む。歯ごたえが新鮮ですぐに噛み切れて、旨味が舌に広がる。
「あ。こんぶおいしい~。これどう作ったの?」
「さあな。ばあさんに教えてもらえ! はっはっは!」
姉ちゃんの疑問をじいちゃんが豪快に吹き飛ばす。姉ちゃんはじいちゃんを睨みながら、今度は大根に手を伸ばす。口に入れると、ほっぺを手に当てて瞳をとろませる。
父さんは、ばあちゃんにすすめられるまま、何でも食べていた。とうもろこし。トマト。きゅうりアスパラ。もっぱら畑でとれたものを食べさせたいらしい。
新潟の食べ物はうまい。姉ちゃんも母さんもじいちゃんも、食べていて喜んでいる。けど父さんは、好き嫌いがなくて良いというより、自分の意志がないように見える。
そんなじいちゃんは食べてる途中で横になった。何事かと思ったら、いびきが聞こえた。
「ああ~もう。お夕飯食べ辛いよ~。何でよりによってわたしの隣で寝るのさ~!」
「美咲、寝かせてあげなさい。おじいさまはお疲れなのよ。迎えに来てくれて、野菜だってたくさん収穫してくれて。」
「別に寝るのはいいんだけど、何で隣……」
姉ちゃんはまだぶつくさ言う。
じいちゃんの飲みが止まったので、父さんももう飲まなくなった。枝豆やそら豆も、ばあちゃんが居間に座るまでは手をつけていなかったのに、今はもう言われるがまま食べる食べる。
まるっきり父さん自身がどうしたいのか、何を飲み食いしたいのか、わからない。
「唐揚げもらうぞ? あとタコも」
メインディッシュの大皿には、父さんの分だけが残っている。だから聞いたのに、返事はない。両方とも俺が食べる。
「あ、高志それお父さんのよ。何やってんの?」
「知るかよ」
母さんから叱られても構わない。のんきに、枝豆を噛んでいる父さんが、むかつく。
◇
学校でハブられる原因になったのは、自分の意見を言ったり、行動で表したりするのが、苦手だったからだ。
4月。入学式が終わって、クラス分けがされた。
体育の選択で、本当は剣道がやりたかった。
けど希望者多数で抽選になったから、俺は降りた。不人気だった柔道にエントリーした。みんながそんなに剣道がいいなら、俺は譲ろう。剣道やりたいと言うのも、竹刀を振るうのがかっこいいと、何となく思っただけだった。
でも、いざ柔道が始まってみるときつかった。先生が厳しい。受け身が痛い。水を飲めない。他組合同で行われる、不人気な柔道の授業には、つまるところ得意な人しか集まらない。
話し相手がいない中、2時限連続で行われる柔道を、ずっとひとりで耐える。
何より……授業の最後で、相手と組んで実践をする時間があって、張り切ってる他クラスの相手は、本気で取り掛かってきて。
容赦ないから何度も投げられて。逃げようとしても大外刈りをくらって。立ち向かおうものなら組み伏せられて。
腕を引き寄せられずに、背負い投げをされたから。陣地をはみ出して、壁に激突して、ガシャン、と音がした。窓が割れた。
腰がいかれるんじゃないか、という痛みの中、やっと立ち上がった。体育教師に「いきのいいのが入学してきたな」と耳元で言われた。俺は肩を、思いっきり、たぶん全力の握力で掴まれた。激痛だった。指が肩の変なところに食い込んだ。
投げたそいつと一緒に、空き教室へ連れていかれた。説教と反省文だった。痛む体で、ずっと作文していた。投げたそいつは「ふざけんなよ。お前のせいでこうなっただろ」と言ってきた。
俺はもう、本気で嫌だった。望んだわけでもないのにきついのには耐えられなかった。
体育のある日は学校へ行くのがイヤになった。
クラスは、当時は人間関係が構築されつつある最中だった。けれど俺は柔道の一件以来、生徒と関わるのが嫌で、避けてきた。
そしたら、気がつけばどのコミュニティからもあぶれていた。
悩みを相談できる相手も、愚痴れる存在も、楽しくしゃべるのも、学校には、姉ちゃんしかいなかった。
不登校への第一歩だった。
でも、だ。
俺のこの損な性格は、父さん譲りなんじゃないの?
元々、剣道をやりたかった。どうせ譲ることになろうと、抽選くらい受けてもよかったんじゃないのか。当たったら当たった、外れたら外れたで、それがコミュニティでの話題になったはずだ。
柔道は、経験者しかいないような有様だった。俺は未経験者だから、先生に相談すれば、何か手はあったんじゃないか?
本気でかかってきた相手にも、何か言えば、違ったんじゃないの?
クラスで孤立したのも……俺が、一方的に、もう学校のことを嫌いになったからだ。
自分の意見を言ったり、行動で表したりすれば、何か別の道があったんじゃないのかよ。
父さんが煮え切らないのがいけないんだよ!
俺は父さんの背中を見てきたから、そうなっちまうのは、もうどうしようもないんだよ。
ずっとそれは意識しないようにしていたけど。もう、ひとたび思うとダメだ。
父さん。俺が苦しんだの、父さんのせいじゃないのかよ?
◇
新潟での翌日は、ブラスバンドの応援と、大きな歓声、実況の声で目が覚めた。
居間のテレビが高校野球を映していた。今日は9日目で、1回戦を勝ち上がった各校が対戦する。
父さんしかいなかった。ただただ、テレビを見ている。ラップされたそら豆と枝豆の残りが、ちゃぶ台の上にある。水気が滴っている。
父さんは時々真剣になる。母校でも出ているのだろうか。……と、思いきや、全然関係ない地方の代表校同士。関西と九州だ。
「あ……おはよう、父さん。じいちゃんはいないのかよ?」
昨日の寝つきが悪かったのは、正直、父さんのことを悪く思っていたからだ。布団をかぶってからすぐ、悪い考えが頭から離れなかった。
父さんは「ん」と答えた。それきり何も言わない。
今朝、こういう機会があるってことは、仲直りしろってことなんだろう。
「埼玉大会の鴻巣高校、負けちゃったな。地区予選で。でも今年は結構いいとこまで行ったよな、ベスト16だし。あ、岩手大会の決勝で、大船渡の佐々木が出なかったよな。どう思う?」
野球の話題を振ろうと思った。幸い、地区予選は熱心に見ていた。
でも、母さんの母校も、父さんの母校も負けてからは、見なくなった。ニュースで名前を聞くぐらいだ。
俺の高校、ひいては東東京大会については、最初から追っていない。
「肩が減らないのはいいけどさ、やっぱり甲子園を経験してから、プロ入りして欲しかったな」
無言がずっと続くので、必死に高校野球の話題で話を続ける。すると、
「監督の判断を外部がとやかく言うことじゃない」
突き放すような返事が来た。
……昨日の今日だから、辛かった。
「なあ、俺とコミュニケーションとる気、あんまない?」
そう言っても、やっぱり返事はなかった。じっと、テレビに注目するばかりだ。
◇
蛍光色の赤や青が、川面をほのかに照らした。ドド、ン、と、体を揺るがすような破裂音が遅れてやってきた。
ちゃらんちゃらんと、賑やかな三味線、笛、太鼓が、遠くから聞こえる。川べりをずっと伝った向こう側に、夕暮れの色に溶けた、提灯の明かりがあった。
みんな高台に集まって賑わっていた。出店も高台を囲うように出ていた。踊る人あり、食べる人あり、道行く人大勢。母さんや姉ちゃん、じいちゃんばあちゃんも、あの祭りの場にいる。
俺は、大勢の笑顔の人たちに混ざる気分じゃない。
ひゅー、と甲高い音がした。種火が燃え立つ空に打ち上がる。本番前の試し打ちだ。ドドン、パラパラ、と、破裂音。
川面にほのかな色が浮かんでも、空にはほぼ何も見えない。一瞬きらりとするけど、すぐ夕暮れに負ける。
かやくの刺激臭が、ぷんとした。鼻を通って、目の奥が痛む。いじけてひとり行動をしている俺には、お似合いかもしれなかった。誰もいないところを選んではいるが、俺のいるこの岸辺も、夜になればあっという間に人でいっぱいになる。
「高志、ここにいたのか」
声がした。遠くからだ。
「探したぞ。お前何やってるんだ」
振り向くと父さんだった。大柄な体を、のっそのっそと、熊のように歩ませていた。サンダルは甲しか留まらず、かかとが浮き上がるタイプで、歩きにくそうだった。
「別に何も」
そう言ったけど、父さんは全然聞こえてない風に、耳に手を添えて「何だ」と言った。だから「別に!」と大声で返した。
今、一番会いたくなかったのは、父さんだ。
「そうか。帰るぞ」
俺のそばまで来て、肩に手をかけてきた。握られる。トラウマがふっと蘇るが、ぐっと我慢する。
父さんは無表情な顔で俺を覗き込む。
「老後、どうするんだよ父さん」
「何でそんなことを聞くんだ」
父さんが手を放して、隣に座った。
「昨日、じいちゃんに言われても、ろくに考えてなかっただろ。なるようになるって顔してた」
返事はない。ドド、ンと、響く。近くの水面が波紋を起こす。
「やりたいことなんてないんだろ。定年退職して、そのまんま家にいるようになったら、ぼけーっとして毎日過ごして、老け込んじまうんじゃねえのか」
父さんは何も言わず、正面を見つめている。丸まった背中姿はやはり熊みたいだ。
「今の仕事が楽しい、ってのはわかるよ。どんなに忙しくても、やめられないって顔してる。でもよ、なら父さんは、仕事以外は、何をしてるんだ? 何が好きなんだよ? せめて老後は、父さんには、楽しく過ごしてもらいたいんだよ」
「高志、お前」
「でも父さんいつも無表情で何考えてるかわかんねえ!」
叫ぶと、喉が痛んだ。
「父さん、何考えてんの? 俺わかんねえよ」
服を脱いで、投げた。もともとTシャツだけ着ていて、下は水着だった。オレンジ色の川に向かう。
「お前何してる。危ないぞ!」
「そうかよ」
ばしゃん、と飛び込んだ。
もともと泳ぐつもりでいた。ただ、ずっと考え込んでいたせいで、夕暮れまでもつれ込んだだけだ。
泳ぎは苦手だ。クロールは、腕を回しているうちに、自分が何をどうしてるのかわからなくなる。息継ぎのタイミングや、今どっちの腕を回してどっちをひっこめたとか、何かひとつがわからなくなると、連鎖してどんどんわからなくなる。
けど今は、わからなくなっても、体力を無理に使って泳ぎきれる。9歳の頃とは違う。
川の中央に小島があるから、そこまで行こうと思った。水流は右から来ていた。
ある地点から、圧が右から左に切り替わった。
体が一回転した。鼻に水が入った。鼻筋と目頭が痛くなる。恐怖を感じる。
顔を思い切り川面から跳ね上げた。
真っ赤な夕焼けに染まった川。
見慣れた景色と違う、と気づいた。
ぞっ、とした。
俺は、なんて無鉄砲に任せて、ここまできてしまったんだ。
パシャパシャと、泳いできている姿があった。
サメ……か? 一瞬絶望するが、いや、ここ信濃川だ。すぐにそうではないとわかる。
くまだった。父さんだ。
俺の近くで停止して、浮き上がった。
「高志。帰るぞ」
「……何やってんだよ。服、脱いだのか?」
「パンツだけだ」
「それどうかと思うんだけど」
俺がそういったのにも構わず、父さんは背を向けて、川岸に泳いでいった。
ゆっくりした平泳ぎで、岸へ引き返す。
夕焼けが薄暮れになる。
9歳のころ、エメラルドの海、横と縦のブイの狭間。引き上げられた記憶が、ふいに脳裏をよぎった。
暗い視界が、眩しくなったんだ。激しく咳き込む俺を、父さんが抱えた。
あのときの、咳き込みながらした呼吸は、鼻も目も痛くてたまらなかったけど、うまかった。空気ってこんなにうまいものなのかと、そのときに初めて知った。
新潟の海は、俺はそれ以来行っていないけど。
岸についた。あがって、水に滴るまま、その場に腰を下ろした。父さんは本当にパンツ一丁で川に飛び込んだみたいで、ズボンを履くのをどうするか迷った挙句、俺の隣に座った。
提灯灯りのある遠くから、音楽と、『ご来場の皆さま』というアナウンスが響いて来た。
ドド、ン、パラパラの音は、いよいよ本格的になった。薄暮れの空に大量の花火が舞い散る。花火がなくなると、雲の色よりも濃い煙が、竜巻のように昇った。
「高志。戻るぞ」
父さんが立ち上がり、ズボンと上着を着た。
「父さんは、何考えてるんだよ」
「お前たちがいれば、それですべていいんだよ」
連続してあがった花火はぱちぱちと、まるで薪が燃えるような音だった。バイオリンの音楽、色とりどりのネオン。巨大な花を咲かせて、残り火が柳の木みたいに垂れさがる、金色の花火。
「お前たちの幸せのためなら、死んでもいいと誓ったんだ」
すっかり暗くなった空の下、花火の光で、父さんの横顔が照った。ちらちらと光るその目は、力強く、火花を散らしているように見えた。
◇
新潟から、自宅に戻ったのは18日だった。
19日の月曜日から、父さんは何事もなかったように働きに出る。
朝7時。スーツ姿の父さんは、リビングのソファから立った。長ソファに座っていた俺も父さんを追いかけて、玄関まで来た。
「行ってくる」
それだけ言って、父さんは背中を向けた。玄関の扉が開かれると、嫌になるくらいむわっとした気温が、家の中に入り込んだ。
蝉の音がミンミンミンと、やかましく大きく聞こえた。父さんの……何も言わない背中を、扉が閉まるまで、じっと見つめた。
コンセプトブックシェルフ 8月『清き心は月ぞてらさむ』 完
これで町田家の家族のお話はおしまいです。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
後日、ちょっとした発表をいたします。
よろしくお願いいたします。