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きっと僕らは、この世界のことを何も知らずに生きていくんだろう

#見えている世界 #自分を守るため #知ること #セクシャルマイノリティ #障がい #少数派 #当事者 #病気 #アクションしてもいいし #しなくてもいい #どれだけ見えている世界を広げるか #自分次第 #とにかく今日も生きよう   

どうも。一度悩みだしたら、キリが無くなりそうな気がする、じーもです。今回も少し考えてみたことについて、書いてみようと思います。よかったら、昨日の記事も今まで意識できていなかったことについて書いているので、よければお読みください。


見えている世界

私たちの見えている世界は、ほんの一部分でしかない。頭ではわかっているつもりですが、勘違いしてしまうこともあります。インターネットによってさまざまな情報を得られるようになった(自由に発信できるようになったことも大きいかもしれません)からです。

普段、多くの人は、自分の住む地域の慣習や職場の常識など。自分が生活している範囲のことしか見えていないと思います。あとは自分から情報を得ようとしない限りは。

私の場合だと、家族のこと。小学校教育のこと。和楽器のこと。地域のこと。それも、断片的な地方における特性として、知っていることがほとんどです。

実は、これまでテレビなどでもドキュメンタリーなどのリアルを追いかける番組よりもバラエティなどを見ることの方が多かったんです。あえて避けていたところもあります(今はテレビ自身をあまり見なくなってしまいましたが)。

たぶん、新しい世界を知るのを避けていたんだと思います。自分よりも頑張っている人や厳しい環境にいる人たちのことを見たくなかったんだと思います。だって見てしまえば、自分が甘えている現状を見つめなくてはならないから。つまり、逃げていたんです。

逃げているというのは、ネガティブな意味だけではなく。自分を守るためにも必要だったとも考えられます。世界にはまだまだ多数の課題があります。選択肢がない、生きることも辛い。いや、今この瞬間を生き残ることが第一のような。そんな場面を知ってばかりいると、自分の心がもたないと思ったんです。

私の手が届く範囲は広くありません。差し伸べられる手の数も限られています。私一人がそんな世界を知ったところで、できることは限られていて。それでも報われない人たちがいることを意識してしまっていては、私が辛いんです。

もしかすると、今見えている世界というのは、自分が自分を保てる範囲での世界を選択している、ということなのかもしれません。

セクシャルマイノリティや障がい、病気のこと

男性と女性が結ばれ、子どもが産まれる。それは生物的に考えれば正しいように思います。ですが、人間界ではそれだけの話ではありません。

セクシャルマイノリティと言われる立場の人もいます。詳しい説明は避けますが、ここではある集団での少数派の人たち、という認識で考えてみます。

少数派ということなので、当事者が少ないということです。人は共感するためには自分の感覚とつながっていなければ理解しにくいので、当事者が少なくなればなるほど、理解は進みにくいでしょう。この場合でもそうだと思います。

障がいもそうです。最近では、発達障害なども取り上げられることが増えてきたと思います。話題に取り上げられることは増えていますが、当事者はやはり少数派だと思います。

セクシャルマイノリティや障がいにしても。知らなければ、それに対して避難しようとする人もいると思います。でも、当事者の人からすれば、それがいつもの「見えている世界」なわけで。だからこそ、他の人たちが見えている世界に違和感を抱くのだと思います。

人は自分の見えている世界とは異なる世界をもつ人たちを排除しようとする傾向にあると思います。それは、だから悪いとかいうレベルの話ではなく。その人個人が自分の身を守るための防衛本能に近いような気もします。

生物にとっては、この世界は生きることがサバイバルであり、競争なわけです。他を傷つけたとしても、まずは自分が生き残ることが最優先の世界です。それは冷たいというわけではなく、この世界での自然の理のように思います。

だから仕方ない、と言いたいわけではありませんが、そのことを理解したうえで、様々な世界を見たり、その(見えている)世界を周囲に広めることを考えた方がいいように思うのです。

ちなみに、不思議と、人は「病気」と聞くと何か諦めたかのように、相手を攻撃することをやめる傾向にある気がします。それほど、人にとって病気というのは自分では避けられない要因の一つだという共通認識が出来上がっているのかもしれません。

世の中知らないことだらけ

きっと私たちは、ほんとに何も知らないんです。世の中に起きていること。世界で今この瞬間に起こっていることを。

誰かが苦しんでいるかもしれない。誰かの命が今にも奪われそうになっているかもしれない。

そうだとしても。そのことを知らずに生きていくことは可能なんです。だって、自分に関係あるのは自分の周りに起きることだけだから。

自分の見えている世界をどれほど広げていくのか、それは私次第。あなた次第。あの人次第。要するに自分で決めるしかないと思うんです。

知ったからといって向き合わなければいけないわけでもないし。解決につなげなくてはいけないわけでもない。もちろん、何かのアクションを起こすことでもいい。何でもいい。

私たちは、この世界のことなんて、これっぽっちも知らずに生きていくんです。それがいいとか悪いとかではなく。

だって、もし、今日の食べるものさえ困っているような人たちが、毎日残った食べ物を捨てているような私たちのことを知れば、どう思うでしょうか?それこそ、自分の立場を悲観し、生きる気力を失ってしまうこともあり得るのではないでしょうか。

知ることが善。知らないことが悪。それは、その人の立場や環境にもよると思うんです。

最後に。

なんだか、昨日書いた記事とは逆の意見のような気もしますが。所詮、人間はそんなもんなんだと割り切りまして。いえ。どちらもその時々。真剣に考えた結果ではあります。どちらの考えも大切にし、今を生きていきたいですね。

以上。最近は少しまじめな話が多くなってしまっている気がする、じーもからでした。(笑) ありがとうございました。よければまたお会いしましょう。では。


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