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論理的に不安を打破する(認知行動療法)

沈む船

もう20年以上昔です。
当時勤務していた組織の中での異動で、あるプロジェクトのために、様々なセクションから集められた混成部隊に放り込まれ、業務についての経験や相場観がかなり違う中で、精神的に不調に陥ってしまいました。

社内のさまざまな業務を整理統合したり効率化したりする司令塔を期待された部隊でしたが、そのために集められた各セクションの社員たちは、全社一丸となっての改革を担うには、余りにも自分たちの出身母体組織の期待や理屈を背負ってました。

表面的には全社的な発展のために企画や調整を叫ぶのですが、互いに本心を隠したまま、いかに自分の出身母体に有利なようにプロジェクトを導くかと、水面下での足の引っ張り合いや隠密行動。

指揮命令系統にある役員や上司たちもそうした各部署からのたすき掛け人事で、部下たちはその母体出身の筆頭格の役員を中心に自然と派閥的な意識を持つようになってました。自分の目の前に座っている上司との相談も、隣席にいる他派閥の同僚に聞かれないように、メールや別室でヒソヒソ行ったり、他の派閥の動きを察知して出身母体の部署に情報を流したり。

当然そんな組織に全社的な改革の企画が出来る訳もなく、調整の過程で八方美人の妥協を重ねた様々な企画は経営会議で破棄ることも多い日々が続きました。

いらだつ社長など経営上層部は外部コンサル頼りの企画案をとりまとめるようになります。
実情も現場も分かっていない企画の実行だけが我々に下ろされ、当然その実行は様々な軋轢を生むわけです。

また諸派閥のなかであるグループに、そこの所管であることもないことも、外部コンサルとの折衝を含め全て一手に企画を任せるようになっていきました。
これもその他のグループにすると、自分の所管に手を突っ込まれて、改革の名のもとに実現可能性が精査されていない企画の実行だけを任されることになり、当然の反発を招いてました。

沈みゆく船というものは、こんなにボロボロになるもんだと思いました。

そんな中で体調の異変を感じた私は、精神科のクリニックを受診しました。抗うつ剤なども処方されましたが、この先生に勧められたのが、認知行動療法という精神療法でした。

認知行動療法との出会い

今思うと、この先生から認知行動療法を教えてもらって良かったなぁと思います。

僕のモノの見方に革命的な視点をインストールしてくれたからです。

目の前で起きている出来事が悲しかったり辛かったり、あるいは、何かの出来事にぶつかって、それを悩んだり心配したりしたとしても、その出来事が即そのまま、悲しかったり辛かったり、心配させるようなこととは限らない。
悲しく思ったり、辛く感じる自分の気持ちと、目の前で起きている事象との間に、自分の「思考」というものが介在しているということが学べたからです。

これは、その後の僕の生き方や、ストレス軽減や自己啓発のための他の取組み、あるいは禅や信仰などの取組みの中でも、基本的なベースになったように思います。

認知行動療法とは

厚生労働省の「うつ病の認知療法・認知行動療法:治療者用マニュアル」によると、認知療法及び認知行動療法とは

人間の気分や行動が認知のあり方(ものの考え方や受け取り方)の影響を受 けることから認知の偏りを修正し、問題解決を手助けすることによって精神疾患を治療することを目的とした構 造化された精神療法

厚生労働省「うつ病の認知療法・認知行動療法:治療者用マニュアル」

と定義されています。

心理学や精神科の専門的な教育やトレーニングを受けていない僕が、こうしたことを語るのは弊害や危険があるかもしれないので、専門的なことはその道の情報をご覧ください。
(例えば、国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター内認知行動療法センターに、大変分かりやすい解説があります)

導入的に、僕なりの拙い理解でいうと、

水が半分はいってコップを見て、それを、
・もう半分しかない
と思うのか、
・まだ半分もある
と思うかの違いで、その後に湧き上がってくる気分や感情が変わる。
その受け止め方(認知)が、悲観的な方向や一方的な決めつけの方向に偏っていたりすると、感情が不適切に形成されてしまう。

認知療法は、そういう「主観的」な認知を、意識的に客観視することで、認知の「歪み」を矯正していくためのトレーニングであり、
それを思考訓練だけに留まらず、日常生活の行動に規律を与えるも併用し、思考と身体の双方からアプローチする場合は、認知行動療法と呼ばれる

ということかなと思ってます。

僕の場合は、布団や家から出れない・動けないといった程度の進んだうつ症状ではなかったこともあり、不安や心配の気分を修正していくために、「認知の修正」に重きを置いた、どちらかというと「認知療法」的なアプローチでカウンセリングしてもらっていました。

クリニックでのカウンセリング

認知行動療法と出会ったことは僕の人生にとってかなり大きかったと思います。
そのクリニックには2年近く通ったと思いますが、診察とカウンセリングというパターンはそのうち1年半くらいだったと記憶しています。

最初はカウンセリングも毎回行われ、集中的に認知療法を浴びせられたし、そのメソッドで取り組めるプリントを渡されて、日常の出来事のなかでの出来事と自分の思考・感情を書き込むように指導されました。

その時のプリントはもう手元にないが、
①起こった出来事(例えば、新しい業務が増えた、とか)
②その時考えたこと(例えば、上手くいきそうにない、とか)
③その時の気持ちとその程度(例えば「不安70%」とか)
という、自分の主観を記述させる部分と、

④どうして②のように考えたのか(例えば、前も失敗したから、とか)
⑤その考えは合理的なのか(例えば、前も失敗したから今回も必ず失敗するのか、とか)
という、自分の主観を第三者になったつもりで検証していくパートに分かれていたように記憶しています。

カウンセリングでは、そのプリントを基にカウンセラーと一緒に追体験したり僕の考えを検証したりするのですが、最初のころは、④や⑤は難しかったです。
自分がある感情を抱いた理由を、筋道立てて客観的に説明するということはなかなか難しい。
それだけ、①⇒②⇒③と、自分の頭の中では一瞬に反応していたということだと思います。
専門的には「自動思考」というそうです。

例えば、上司からある仕事を言いつけられて、

「いや、そりゃ無理でしょ」
「うまくいかないに決まってる」
「それをさせられる自分は面倒に巻き込まれる」
「いやだな、不安で仕方ないよ」

というようなっことが、頭の中で一瞬にして成立しているところを、

「なんで、あの時、うまくいかないと思ったかというと…」
「そうそう、以前、類似の事案を処理させられた時があった」
「その時、あのセクションと、こういうふうに折衝でトラブったことがあった」
「それを踏まえて、今回のことを考えると、またあのセクションからこういう反対の声に直面するだろう」
「それは多分うちのセクションとしては受け入れられない声だろう」
「その両者の板挟みになるポジションに自分は追い込まれてしまうだろう」

といったふうに分解して説明しなければならないのでかなり面倒。

さらに、これらを⑤のところでは、自ら反駁していかなければならないのだが、これがまた難しい。
自動思考というくらい、自分の頭の中では、当然のことと考えているからです。

それを、敢えて第三者になったつもりで反論をしていかなければならない訳ですが、これは「自分の思考に距離を置く」という事だと思うけど、なかなかこの距離を置くのが難しい。

認知の歪み・偏りのパターン

先生からは、自分のことだ思わず、「友達がそういう状況で悩んでいたとして、どうアドバイスするか」を考えてみるとよいとも言われてました。

また、こういう視点で反論してみて、とも言われてました。

  • ゼロか100かの二者択一みたいになってないか。

  • 悪い方へ、悪い方へとマイナスのことのみ考えていないか

  • マイナスに思えたことを、さらに拡大して考えていないか

  • 絶対にこうだ、と極端に決めつけていないか

専門的には、こういうことだそうです。
⇒ 認知の偏りのパターン<認知行動療法>

例えば、
・前回上手くいかなかったからといって、今回も同じようにうまくいかないと思う根拠は、本当にそうなのか。
・反対の声が上がるとして、それは受入れる余地が全くないものだと、聞いてもいないうちから何故そう思えるのか。
・両論の板挟みになるとしても、それを自分だけで調整しなければならないと考えるのは何故か。

などを考えていくわけです。

そうやって、細分化して検証していくうちに、自分が思っていたことが必ずしも合理的な根拠がある訳ではない気がしてきます。
他に考えようがあったかもしれないと思うようになります。

ただ、当たり前ですが、一回こういうトレーニングをしたからといって、不安や心配を持たずに済むような性格に変われるわけではありません。
自動思考は癖長年染みついたクセのようなもの。
それを修正するのにも長い時間がかかるのは当然です。
なので、コツコツとトレーニングするしかない。
ただ、紙と鉛筆と時間さえあれば、いつでもどこでもトレーニングできる方法だと思います。日記でもいいと思います。

実際、世の中には、本屋でもネット上でも、セルフケアとして、認知療法を取り組む方法を教えてくれる情報は多いです。

【セルフ認知行動療法のやり方・ポイント】自分の考えを見つめ直し、心を軽くする

【NHK健康チャンネル】

心がスッと軽くなる 認知行動療法ノート

2015 福井 至 (監修), 貝谷 久宣 (監修)

上記以外にも、ネットを検索すれば、ノートの無料フォーマットや動画解説などたくさんの情報が得られるのですが、個人的な体験から考えると、しっかりと取り組む場合には、最初の数か月は専門のカウンセラーの指導のもとで取り組んだ方がいいと思います。
独りよがりな自己検証は、かえって自動思考を固定化してしまう恐れがあるんじゃないかと思います。

あと、このトレーニングをするうちに、ストレス対応というだけでなく、理詰めで考えるというトレーニングにもなったように思う。
ロジカルシンキングみたいなもんだったと思います。
先ず現状を並べて、それを客観的に理詰めで検証していく。
検証するうちに、足りなかった部分や思い込みの部分が見えて、他のアイデアも浮かぶ。
そういうフォーマットを自分の中にインストールできたのは、よかったなと思っています。

かなりパワフルな思考メソッド

若いうちに認知行動療法に触れられて良かったなと思います。
出来事と感情の間に、自分の思考というものが介在しているということを学べたのは、その後の生き方に大変役に立ちます。
感情と思考(あるいは理性)というのは対立するものだとも思われがちですが、その感情も、何か自分なりの理屈があって生じるのもの。
なんだ、ものは考えようというだけじゃないか、と思われるかもしれませんが、
「そう、じつは世の中、そういうものだ」
と理論的に教えられるというのは、理屈っぽい自分にとっては大きかったです。

ABC理論

後で知ったのですが、専門的にいうと、ABC理論というそうです。

出来事(Activating Event)を、自分の思考や信念(Belief)で解釈して、その解釈を基に感情や行動(Consequence)が現れる

(参考)ABC理論~出来事に対しての考え方で感情が変わる<SoftAtWork>

人間はそうやって生きているのだと、心理学の知見が教えてくれます。
これは、ずいぶん後になって学んだ仏教にも通じるものがありました。
そしてその為に、長年にわたり積み上げられた心理学の理論や技術が、構造化・体系化されたメソッドを用意してくれてます。
初めは専門のカウンセラーや精神科医など、専門的な知識と技術を学んだ方について取り組んだ方が絶対にいいと思いますが、ある程度訓練をつけてもらうと、自分でも日常生活の中に取り入れることが出来ます。

自分を見つめる

またそうやって自分の思考を振り返ることで、自分というものを見つめ直す練習にもなったように思います。
自分の思考はこういうクセがあるなぁと分かっておくと、それを知らずに毎日を過ごしその中で感情の波に翻弄されることがあっても、
「いや、待てよ」
と、ちょっと立ち止まって考えられるようになった気がします。

また、カウンセリングで学んだ随分とあとに、自分の思っていることや不安をノートに書きだしていくという、一種のジャーナリング(書く瞑想)に取り組んだのですが、その際に昔やってた認知療法を思い出しました。

汎用性が高い

認知療法は徹底的に自己を懐疑してみるということにもつながりますが、その際に合理的に詰めて考えるという練習にもなります。
これはメンタルヘルスだけでなく、仕事の中でも生きてくると思います。
いま取り組んでいるプロジェクトについて自分の思っていること・考えていることを洗い出して、それを第三者の視点で客観的に検証していく。
そういうメタ認知的なメソッドの訓練にもなったような気がしています。
もともと慎重で心配性な性格の自分は、リスクマネジメント的に仕事を検証する際や、プロジェクトマネジメントを行う際にこういうメソッドが役に立ちました。

合う・合わないはある

他方で、やはり個人差で合う合わない、効果が出る出ないはあると思います。
先ず、かなり頭を使うので、急性期のうつ症状の人は避けた方がいいと言われます。
そういう時期は「何も考えない」というのが一番の薬のように思います。
急性期から回復して、ある程度日常生活を送れるようになってから取り組むべきだと思います。

また、私の場合は力点が少なかったですが、毎朝定時に起床するとか散歩するとか等の「行動」療法の部分を取り入れる方がいいと思います。

さらに、理屈っぽい自分にはフィットしたのですが、いろんなことを考えるということが苦手な人も多くおられると思います。
そもそも一回行うのに時間がかかりますし、その間に自問自答しながら思索を深めるので、そういう取組みが面倒臭くかんじられるかもしれません。
カウンセリングで行うとお喋りの延長線上として位置付けることも出来ると思うので、やはり専門家についてみることが最良だと思います。

セルフでもできるけど先ずはカウンセラーと

もともと「自動思考」というくらい、自分では無意識のうちにそういう方向で思考してしまうクセを直そうというものですから、そのクセを指摘してくれたり修正のヒントを与えてくれるカウンセラーと、ある程度の期間は、一緒に取り組むべきだと思います。

また、自分で思考を掘り下げていく場合にはリスクもあります。
望ましくない方向に思考が巡っていったり、自動思考がかえって固定化されてしまう場合も大いにあると思います。

カウンセリングは敷居が高いと思われる場合は、信頼できる友人や家族を相手に、自分の思考を開陳して、それにアドバイスしてもらうという方法もあると思います。
ただ、やはり専門的な教育や訓練を受けていないと、いくら友人として相手をしてあげてても、つい自分の考えを押し付けたり、傾聴できなかったりと、うまく行かない場合が多いんじゃないかと思います。

最近は、オンラインでカウンセリングしてくれるサービスが増えましたので、精神科を受診することが億劫な人はそういうサービスを利用することも一手だとも思います。

でも、やはり望ましいのは、先ずは精神科を受診して、認知療法を受けるに適した時期か、薬物の併用が必要な状況ではないか等々を、しっかりと診断してもらうことだと思います。

最後に

最後に、認知行動療法、特に認知療法のスキームが僕自身の思考に与えた影響を考えてみたいと思います。

私が影響を受けたのは、認知療法のテクニック自体もさることながら、その基本的な考え方である、
「自分が体験することは、それに対する自分の捉え方で、その体験についての自分の感情を作る」
というところ、いわゆるABC理論です。

それは、
“世界は自分の目を通してしか認知されない”
というふうな意識を僕に植え付けたように感じます。
これは後に、私が唯識論などに惹かれていく要因の一つにもなったように思います。

自分はこの世界の一つのパーツなのではなく、
自分は、この世界から分離された、この世界の観察者である、
というような感覚です。

もちろん、いつもそんな感覚で暮らしている訳ではありません。
むしろ、この世界の日常の中の疾風怒濤に飲み込まれ、その荒波に翻弄されてしまうことのほうが多いです。

海の波が大きくなって、やがて桟橋の上で眺めていた自分の足元も濡れ始め、徐々に身体にも波しぶきがかかり、ついには波に飲み込まれてしまうような感じ、です。

ただ、意識を戻せば、以前は波を眺めていたのに…ということは自覚できるような気がしています。

世界と自分の分離
打ち寄せる波と、それを桟橋から眺める自分

客体と主体
客体と思っていたものは、主体である自分の主観

うまく言えないけど、認知行動療法のトレーニングを通じて、なんかそういう意識がインストールされたような気がします。

拙文でしたが、最後まで読んでくださってありがとうございました。

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