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悲運の被害者か、無知の加害者か『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』

 きっとこの映画を観なければ、そんな事件があったことを知らぬまま生涯を終えていただろう。「芸術点」という採点の基準が呑み込めず、勝手に好き嫌いで距離を置いていたフィギュアスケート。それを題材にした作品に足を運んだきっかけは、監督の過去作『ラースと、その彼女』がどうしようもなく大好きで、主演があのマーゴット・ロビーだったから。それだけの動機で観に行ったのに、どこか忘れがたい余韻が胸に残り続けている。

1991年の全米フィギュアスケート選手権にて、トーニャ・ハーディングはアメリカ人初のトリプルアクセルという偉業を成し遂げた。誰もが彼女を賞賛し、誰からも愛されるスケート選手に登りつめたトーニャ。しかし、1994年の五輪選考会の大会にて、ライバルのナンシー・ケリガンが脚を殴打される事件が発生。その関与を疑われたことで、彼女の輝かしいスケート人生は転落の一途を辿ってゆく。

 アメリカ人としては前人未到の大技を達成したトーニャ・ハーディング。本作では、俳優が演じる事件の当事者のインタビューを経て、トーニャの生い立ちと一時の栄光、そして彼女が辿ることになる転落人生が描かれる。トーニャ本人はもちろん、元夫や母親、コーチによって語られるトーニャ像と事件の真相、その証言とドラマ内で起こる事実の不一致こそが、本作の興味深いポイントだ。真相を語る上で当然外すことの出来ない被害者、ナンシー・ケリガン側の供述をあえて挟まないことで、我々は一方に偏った供述を聞かされていることを、常に意識しなければならない。

 加えて本作がユニークなのは、登場人物が「第四の壁」を飛び越えこちらに語りかける演出が頻繁に挟みこまれることで、それぞれが自分に都合の良い証言を語り出す点にある。保身に余念のない登場人物のクズさが際立つのはもちろん、実話映画ならではの重々しさ、堅苦しさを抜け出したユーモアがあり、ひと時も退屈などさせない

 このように、本作は常に信用できない語り手による偏向的な真実を述べつづけ、観客を惑わすような瞬間さえある、実話を題材にするにしては危険な語り口が設けられている。そしてトーニャは口々に、まるで私のせいではない、という旨の言葉を口にしている。

 本作の描写を鵜呑みにするのなら、トーニャに同情的な視線を送るのは自然な流れと言えよう。幼き頃から母親の厳しい教育の元、全てがスケート中心の人生を歩むことになったトーニャ。厳しい言葉を浴びせられ、体罰も受けたというその心には、母親に認められたい心情と、拒絶感が同居した複雑なものに見える。

 成長して出会った、夫となる男性ジェフも、トーニャに対し暴力を振るうようになる。暴力、謝罪、セックス。どうしようもないダメ男を選んでしまったトーニャだが、彼女自身も暴力を振るわれることにどこか諦観があり、時に激しく抵抗する。嘘か誠か、夫婦喧嘩でショットガンを持ち出したらしいのだが、夫婦揃って気性が荒いのだ。

 そんな壊れた人間関係の中で生きていくしかなかったトーニャが、それでもなお打ち込めるのはスケートただ一つだった。恵まれた運動神経と努力によってのし上がり、常に大会上位者であったトーニャ。それでも得点が伸び悩むのは、彼女の選曲とパフォーマンス、そしてイメージが掟破りすぎたからだ。清楚で氷上を舞う淑女が求められるスポーツにおいて、彼女の破たんした家族関係は決して良い印象をもたらすことはなかった。確かな技術を持ちながら、生まれもった環境に足を引っ張られてしまう現実。スポーツマンにとって、これほど理不尽な扱いはないだろう。

 そんな現実を見返すためには、ただただ技術を向上させるしかなかった。その執念が成し遂げた、米国人初のトリプルアクセル成功という偉業。他者からの愛と承認を求め続けた彼女は、一夜にして全米から愛される存在になった。同時に、どんな困難にも負けない不屈の根性とスケート技術だけは、紛れもない真実であることは観客の胸に刻まれる。

 しかし、その栄光も長く続きはしなかった。ナンシー・ケリガン襲撃事件の発生、その関与を疑われた途端、彼女への尊敬の視線は、一気に疑惑へと転換する。その事件の経緯を知るに至ると、「事実は小説よりも奇なり」の言葉がどうしても頭をよぎる。児童虐待、DV、貧困、誇大妄想狂。一人の人間が抱えるにはあまりに巨大すぎる問題を前に、トーニャはその実力を発揮できなくなっていく。次第に追い詰められていくトーニャを演じるマーゴットの表情、取り繕った笑顔の裏に隠された焦りや後悔の念に、目が離せなくなってしまう。

 上述の通り、本作は公平な事実を描こうとするのではなく、トーニャとその周辺人物の心境と行動の様子から炙り出た虚と実をそのまま映像化している。この時、トーニャ・ハーディングを裁く立場に立たされたとしたら、どのような判決を下すだろうか。貧しき生まれと周囲の人間の浅はかさによってキャリアを汚された被害者か、あるいは己の無知や欠けた想像力によって周りの凶行を止められなかった加害者か。少なくとも私は、肉体的・精神的な暴力に囲まれながら生きてきたトーニャの意図せぬ没落を、無責任に非難することは出来なくなってしまった。一体どこで間違ったのか、どうすれば愛されるスケート選手でいられたのか。

 そこに答えは得られぬまま、トーニャは新たなリンクへと、生きる場所を移していた。より直接的な暴力が行き交う、ボクシングというスポーツの中で、彼女は血反吐を吐きながらも、自分の人生を生きていた。そこに救いを感じながらも、奪われてしまった栄光と承認のことを思うと、どうしようもなく切ない。ただ愛されたかった少女の苦悩は、本作の中でも数少ない真実の一つであったのだと、胸に留めておくとしよう。

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