第1284回 新たな神社ができるまで

1、読書記録295

今回ご紹介するのはこちら。

多賀城市文化財調査報告書第155集

多賀城市の歴史遺産 補遺・総括編 2022年

宮城県多賀城市では平成25年度から市内全域を対象とした悉皆的な文化財調査を行なってきたとのこと。

その総括がこの度なされた、ということになります。

2、顕彰の歴史

報告書は旧村単位でまとめられ、

2014年 八幡村(一)
2015年 八幡村(二)
2017年 大代村 笠神村牛生 留ヶ谷村 高崎村 田中村
2018年 高橋村 新田村
2022年 浮島村 市川村

と続けられて来ました。

調査では地域の寺社は建築から絵馬などの奉納物、位牌や棟札まで漏らさず記録しています。

路傍の石造物はもちろん、板蔵・土蔵・石倉の墨書や民俗儀礼まで、点数で言うと1800点を超えるほどであったとのこと。

それでも

堰や灌漑用水、レンガ積の橋台を持つ鉄道橋梁などの近代化遺産についてはほとんど手付かずの状態である。

と今後の課題を明らかにしています。

それぞれの分野で大変興味深い事例がたくさんあるのですが、

今回掘り下げて紹介したいのは「多賀城」に対する認識について

近隣在住の我々にとっては古代の役所として東北を治める拠点となった遺跡として当たり前のことですが、

明治以前には予想以上に知られていなかったというのです。

幕末に近い嘉永五年(1852)に作成された文書には、

多賀城政庁の跡も畑となっており、アシが生い茂る一画は「御座の間」と呼ばれ怖れ多いところと伝えられている、

というあいまいな認識しかされていなかったようです。

これを受け明治時代の国語学者である大槻文彦が『陸奥太守義良遺蹟考』という著書の中で

宮城県の地には、天皇の遺跡が二か所あるにもかかわらず、古来誰も思いつかず、考えようともしない。そこで今事歴をあげて驚かそうと思う。その天皇とは外なら南朝の後村上天皇のことで、その遺蹟は宮城郡岩切村国府の館と牡鹿郡石巻港湊町御所の入である。

と記し、親王が国府に赴任したことを明確に言及したのは初めてのことだったということ。

さらに明治44年の『多賀城多賀国府遺蹟』では前説を撤回して多賀城の「御座の間」を義良親王と関連付けたというのです。

開闢以来、明治9年の御巡幸に到るまで、天子の奥州へ下向せさせ給ひしは、此時のみなるや

そうなんです。

陸奥くんだりまで下向された天皇は近世以前には一人しかいないのです。

もちろん天皇になる前ですが、義良親王のちの後村上天皇が滞在した、というのは戦前にはとても大きなことでした。

昭和9年には建武中興600年記念事業で多賀国府説が浸透し、

地元では保存会を設置し、鈴木省三という地元の名士が「後村上天皇御聖蹟」と揮毫した杉の標柱を建てたとのこと。
 
ただ、同時に建てられた「明治天皇御聖址」碑は稲井石製で髙橋是清が揮毫した、という格差があるのが印象的です。

これは当座のことであったようで、翌年には稲井石製の「後村上天皇御座之處」碑が建立され、文字の揮毫は齋藤実とのこと。

面目躍如、というところでしょうか。
 
しかし、同じく南北朝時代に義良親王が滞在された福島県の霊山という場所にはわずか8カ月しかいなかったのにもかかわらず、白河藩主松平定信が石碑を立て、明治14年には北畠3代を祀る霊山神社が建立されているといいますから、温度差があるのは間違いない。

宮城でも対抗して義良親王を祭神とした多賀城神宮を創建する運動が起こります。

しかしなかなか芳しくなかったらしく、昭和10年から国に請願を繰り返しますが、不採択となってしまうのです。

理由としては国の官寺がむやみに増えれば国家財政を圧迫しますし、他の神社の価値低下も予想される、ということのようです。

昭和15年からは県を挙げての団体、多賀城神社創建期成会が組織されますが、

結局は昭和25年に多賀城海軍工廠の奉安殿を移築して初めて悲願は達成されたことになります。

昭和48年からは史跡多賀城跡の環境整備事業に伴って現在地に移築され、平成26年には前述の2碑も境内に移築されています。

もとは奉安殿の多賀城神社 筆者撮影2020年10月
同じく後村上天皇御坐之處碑
同じく明治天皇御聖址碑

3、県内随一の先進地

いかがだったでしょうか。

文化財の悉皆調査、素晴らしいですね。

このレベルの調査が全県的に行われたら、

特に近世・近代の地域史の解像度はかなり上がりそうですね。

とはいえ、組織的にこのクオリティを出すための体制づくりは夢のまた夢なので

個人でもできることから始めていくしかないですね。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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