第834回 終戦の日にお墓の話

1、『日本考古学』より

例年は考古学協会で配布される雑誌、今年は郵送で届いていましたが、ようやく開いてゆっくり見ることができました。

その中から関根達人2020「近世武家の儒葬ー『庚申喪事記』の検討を中心に」『日本考古学』第50号をご紹介します。

2、儒教式の葬儀の実態解明に向けて

進展著しい近世、江戸時代を対象にした考古学研究では大名のお墓については大きく進展し、儒教に基づいた作法で行われた葬儀の広がりも確認されているとのこと。

一方で、一般の武士階級にはどこまで儒教式の葬儀が広まっていたか、については記録が少なく、発掘調査と対比して見ることが出来る恵まれた状況はなかなかなかったようです。

そこに来て、著者が入手したのが『庚申喪事記』という書物。

安政七年(1860)に新発田藩士の七里義道が、父の葬儀を行うに当たって、子孫の参考になればと詳細な記録を残したものです。

本論には全文が掲載されているので、資料としても大変貴重なものとなっています。

3、色んなヒントが散りばめられている

まずはこの書物がどれだけ緻密な記録か、ということをお伝えします。

義道の父、義従が亡くなったその日の午後には棺桶が発注され、3日後には完成して納棺が始まっています。

棺桶のサイズはもちろん、内側はカンナで丁寧に仕上げ、外側は松脂をぬるので馴染みやすくするためにそのまま仕上げるとのこと。

松脂の厚さは上下四方全て五分掛(1.5センチ)になるようにというこだわり。

棺桶の下部には遺体から出る屍汁が落ちるために7箇所の穴が開けられた七曜板がはめられ、

外箱、槨、土箱と何重にも包まれて納められます。

植物の根から守るために炭の粉末を敷き詰める層もあったようですし、なかなか大変な作法です。

墓誌石には表に故人の略歴が記され、裏面には

此下に棺あり あわれみてほることなかれ

と刻まれているそう。

著者によると近世墓誌の常套句とのこと。

掘り返されてしまうことが少なくなかったということでしょうか。

この墓誌に文字を刻むのは一文字35文で、
地表にある墓石は一文字100文(翻刻には貮百文と書いてあるように見えますが)
と値段もしっかり書いてあるのは面白いです。

一方で、マニュアル通りの作法と実態が異なる部分もあったようです。

墓石の形は上部が三角(圭頭)であるのが正式なのですが、義従の墓石は上が丸く(円頭)となっているのです。

関根氏は父母の墓石に合わせることを優先したのではないか、と推定しています。

きっちりマニュアルを守る所とそうでは無いところの違いに当時の人の考え方がよく現れていますね。

4、墓石の見方が変わったかな

この記録を活かして子孫が儒教式で葬儀をしたことはあったのでしょうか。

明確には言及されていませんが、

関根氏がこれまで調査してきた松前や北陸等との比較も通じて1つの家の中に仏式と儒教式が混在するのは珍しいことではなかったのではないか、としています。

お盆の季節。人の家の墓石を眺めるのはちょっと抵抗があるかもしれませんが、ここにも儒教式のお墓があるのではないか、と見渡してみたくなりますね。

本日も最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。



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