第987回 墓地から見える湊町の風景

1、続く近世墓研究

日本考古学協会の発行する『日本考古学』第51号より

関根達人2020「寺院過去帳を用いた近世墓標研究の視点と方法ー陸奥盛岡藩領北部田名部を例としてー」

をご紹介します。

実は前回も同じ著者の論文をご紹介していました。

2、調査データの量が本質を語る

陸奥盛岡藩領北部田名部とは現在の青森県むつ市。

下北半島でも陸奥湾に面し、天然の良港、大湊を有しています。

明治維新後は旧会津藩士らが移住して斗南藩の中心としたところでもあります。

著者はこれまで弘前、黒石、松前、小浜と近世墓標調査と並行して

寺院過去帳の調査・分析を積極的に進め、大きな成果を挙げてきました。

城下町の武家であれば俗名が刻まれた墓標も多く、藩士名簿などから個人を特定できる可能性が高いという利点があります。

今回はあえて湊町を選んで、手法の有効性を検証しようというものになっています。

対象は3カ寺で、過去帳の調査が許されたのはその内の一つ、徳玄寺。

墓標では明治4年以前の死者に関する文字情報は全て読み取ることとし、

過去帳と照らし合わせます。

墓標138基から360人の情報が、過去帳からは3286人分のデータが抽出されたとのこと。

照合率は76.4%。

これを高いと見るかどうか。

照合できなかったのは墓標が風化し文字が不明瞭だったことが最大の理由だとしていますが、

さらに結論部分では下北半島の住人の多くが北海道、さらには樺太や国後、択捉まで出稼ぎにでかけ、彼の地で死亡した場合は現地で墓標が建てられたのではないか、という推論も語られています。

データの分析は多岐にわたり、

死亡年の抽出からは平年よりも突出して死者数が多い「死亡クライシス」を見出し、他地域との比較で地域性を明らかにしていますし、

享年から生年を割り出し、その年の出生数や平均寿命まで読み取っています。

系図の復元もかなりの圧巻ですが、プライバシーへの配慮で全てアルファベット表記で「家」を区分しているのがわかりづらさも演出しています。

18世紀には盛んに墓標を立てていた家が、19世紀には全く見られなくなるという例も少なからずあり、

家意識は一種の宗教である

と断じた磯田道史氏の文を引用しながら、江戸時代に生きた人々の心性に肉薄していきます。

もちろん従来の考古学的手法である、墓標の石造物としての側面を分析した結果も記されており、

高さ(規模)については小型化と大型化の波が明らかになったし、

石材については北陸の笏谷石や瀬戸内からの石材が流入していることが明らかになり、日本海海運との強い結びつきが明確になってきました。

過去帳に記された檀家の出身地も同様で日本海側に偏っています。

仙台藩からは1人もいないようです。

3、広がっていくべき手法

このような様々な分析結果から墓標と過去帳の相性の良さを改めて示されたことになります。

近世墓研究のベストパートナー

と著者は絶賛しています。

ならば仙台藩領内でも同じような手法でデータを収集することにも大きな成果が期待できます。

過去帳を研究資料として提供していただけるまでに寺院と調査者の信頼関係をいかに築くか、というところがハードルになりそうです。

日本海交易とは直接的に接続していない当地域にはどのような傾向がみられるのでしょうか。

考古学者に求められる課題は山積して

いつまでも仕事がなくなることはなさそうですね。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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