第1178回 流転の山形城から見えるもの
1、読書記録247
本日ご紹介するのは
山形県山形市埋蔵文化財調査報告書第40集
史跡山形城跡 本丸西堀・土塁址発掘調査報告書
-史跡山形城跡(霞城公園)整備報告書Ⅵ-
2020
本書は史跡整備の国庫補助事業として平成23~30年度に実施した発掘調査の報告書。
山形城の歴史を大まかに区分すると
山形城Ⅰ期 南北朝時代に入部した斯波兼頼の築城(のちの本丸程度か)
山形城Ⅱ期 最上氏時代
山形城Ⅲ期 鳥居忠政から保科正之、正保絵図に描かれた松平直基時代
その後堀田・秋元・水野と譜代大名や幕府領となって頻繁に主が交代したため、城普請に関する資料は乏しい。
ということでした。
明治になると払い下げられ、農耕地や薪切地となってしまいます。
明治29年には第8師団歩兵第32連隊が二の丸に、その練兵場が三の丸におかれ、城郭遺構の大きな改変がされたようです。
第2次大戦後には一時連合軍が接収しますが、日本政府から市に払い下げられ「霞城公園」として開放されます。
昭和60年に国指定史跡となり、市は本丸堀と土塁、本丸御殿の復元を目指し、二の丸の諸施設を移転する計画を策定。順次整備を進めてきたとのこと。
この位置図を見ただけでも近代以降に大きく改変されていて、復元するために調査をすることの大変さがよくわかります。
しかも三つの時代のどの遺構なのかを特定しなくてはいけませんしね。
それにしてもこの作業風景は圧巻です。
近世の城郭建築は瓦を多用しますし、葺き替えした際に廃棄されたものが埋められていることはままあります。
2、スタンプとお団子
そこで今回はその多量に出土した瓦の一要素に注目してご紹介します。
まずは刻印について。
刻印とは瓦に押されたスタンプのこと。
上の写真でもいくつか種類があることがわかりますが、今回の報告では
「日足」「大」「三」「陰菱」「二重丸」「角九曜」「楕円」「半裁竹管」「分銅」
の九種類が列記されています。
他の遺跡で出土した瓦には職人の名前等が刻まれていることがあるのですが、今回は見つかっていないようです。
それでも一定の瓦職人や工房、系統を示すのではないか、との解釈が一般的ですが詳細は不明です。
軒瓦の模様は家紋だったり、巴文だったりと時代や職人を系譜を追うのにしばしば用いられた要素ですが、刻印はまだわからないことが多いのです。
全ての瓦に押されているのではないので、例えば10枚作ったら一つ押す、というように作業上の工程で用いられたものなのかもしれません。
ちなみに我が地元の瑞巌寺の瓦についても本堂の修理の際に刻印の集成が行われ、より豊富な例が掲出されています。
こちらは一棟分まるまる瓦をおろして分類しているので
ある程度年代のわかる瓦との対応関係も探れているので比較検討の重要性があるかと思います。
例えば分銅型は共通していますし、同じ模様を山形城では「日足」という日輪の模様と見ているのに対して、瑞巌寺では「みかん割」という認識をしているのは興味深いです。
さらに山形城にしかない「角九曜」という刻印も気になります。
もっと各地の瓦刻印の類例を集めて傾向を見てみたいところですね。
もう一つ瓦について触れるとすると
籾団子と呼ばれる付着物が瓦にみられること。
窯道具というキャプションのある通り、瓦を焼くときに別の瓦と接着しないように、もしくは剥がしやすいように挟むもののことで、籾殻を粘土の塊に付着させたもののこと。
瓦の窯で出荷前に選別されるのが普通です。付着物がある、失敗品はその場に捨てられてしまうのが想定できますが、
納品先である城にある、というのはどういう状況を想定すればいいでしょうか。
報告書では秋元氏時代の修理で瓦を城内で製作した、という記録があるそうで、この出土品はそれを裏付ける証拠になったわけです。
3、瓦礫も秋の賑わい
いかがだったでしょうか。
「瓦礫」として邪魔者のように扱われてしまう瓦ですが
膨大なその史料の中に分け入れば色々な史実を明らかにしてくれるものになるのでしょう。
まだまだ研究途上ですが進展が楽しみですね。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?