第1171回 伊達家の愛されプリンセスその2
1、読書記録244
本日ご紹介するのはこちら。
角田市文化財調査報告書第54集
『牟宇姫への手紙 二 伊達政宗ほか男性編』
伊達政宗の次女に関する文書の記録の二冊目です。
一年以上前に一冊目のレビューをしていました。
2、いったい政宗は何通手紙を書いたんだ
今号で収録されているのは父政宗や夫である石川宗敬、兄秀宗・忠宗ら男性陣からの手紙。
身内への手紙ということで心を許しているからこそ、送り主のひととなりもわかるというものです。
例えば宗敬の祖父は石川昭光といい、伊達輝宗の弟。つまり姫と宗敬また従兄弟にあたります。
歳も近く、5人の子どもにも恵まれ、夫婦仲は概ね良かったようです。
採録されている手紙は、一門である伊達安芸定宗の屋敷で能を舞い、
伊達政宗をはじめ多くの列席者に褒められたことを知らせるもの。
皆で喜んでくれ、とか侍女の名前を列記してまで話して聞かせるように、と指示したりとなんだか微笑ましい様子です。
個人的には伊達光宗からかと思われる手紙も残っているのが驚きでした。
光宗は伊達政宗の孫にあたるので、姫からみると甥っ子ですね。
二通とも年月日はありませんが、国元仙台に逗留中に書いたものと推定されているので、
正保元年(1644)10月から翌年2月までのものと考えられています。
内容は御礼とまた春にはお会いしてお話ししましょう、という程度の内容ですが、親しみを感じさせる文章です。
仙台を出立して江戸に戻る際に読んだ和歌が『伊達治家記録』に採録されており
宮城野の若草枕しきすてて いつか小萩の花は見てまし
とありますが、なんと光宗はこの年の9月8日に若くして亡くなってしまいます。
いつか見たいと言っていた宮城野の萩を見ることは叶わなかったという悲しみ。
そしてまた悲しい別れをした兄宗高も紹介しておきます。
宗高は伊達政宗の七男で、姫とは同母兄妹です。
政宗に従って初めて江戸に上るにあたり、どうにか直接会いたいと気持ちを述べる手紙を残し、ついに叶わなかったものの、
江戸からも「兄忠宗さえも御小姓並に使われている」と忙しさを伝えています。
徳川秀忠・家光父子に謁見し、
さらに京へ上洛することができる、と喜びを伝えていますが
なんと京都で天然痘に罹患し、急逝してしまうのです。
仙台出立前に会えなかったことが悔やまれます。
そして最後は父政宗からの手紙。
石川家に伝わり、現在角田市の郷土資料館に収蔵されている12通。
『仙台市史』の政宗文書編に収録されている他館所蔵の手紙を合わせて50通が本書で紹介されています。
「覚書」と呼ばれる石川家文書に含まれるメモには328通と記されていることからその多くが散逸したことになります。
その膨大な手紙の中から少しだけ紹介すると、
寛永10年(1633)江戸にいた政宗が帰国が許されないのは
「黒田騒動」という福岡藩のお家騒動が原因だ、と知らせたもの。
本書では「政治的な話題も姫なら理解できるだろう」と政宗が判断した、ということを特記しています。
政宗は妻の愛姫にもそうですが、女性にも分け隔てなく情報を共有しているようです。
それと関連するものかどうか、政宗が姫から送られたリンゴを将軍秀忠に献上した、と知らせたものがあります。
さらに本書のコラムでは、『伊達治家記録』に秀忠がリンゴの木を所望している、という記事も紹介されています。
姫への手紙の方が年月日が不詳なので確証がありませんが
姫が送ったリンゴを秀忠が気に入り、木を送るよう政宗に指示した、という流れであれば非常に面白いエピソードですね。
3、兄弟でもいつでも会えるわけではない
いかがだったでしょうか。
江戸時代の人でもこれだけ手紙が残っていると
人間関係や人柄がよく伝わるものです。
何度も会いたい、と手紙でやりとりしていたのに結局会えず、
今生の別れとなってしまうくだりも劇的です。
角田市では『牟宇姫への手紙 三』も計画しているようですので、楽しみですね。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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