第1455号 受け入れなかった文化
1、読書記録341
本日ご紹介するのはこちら。
関根達人2023『つながるアイヌ考古学』
「ゴールデンカムイ」の流行もあって注目を集めるアイヌの文化。
考古学的にはどこまでわかっているのか、それを確認するにはぴったりの本です。
2、発生と終焉
まず大きな問題は「アイヌ文化」のはじまりについて。
東北地方まで弥生時代になった頃には続縄文文化であった北海道は、オホーツク文化と擦文文化と呼ばれる文化圏で形成されるようになります。
オホーツク文化は5世紀から10世紀にかけて沿海州やサハリンの先住民族が南下してきたもので、のちに「ニヴフ民族」となる人たちと共通する先祖を持つとされています。
一方で擦文文化は本州の影響を受けて縄文が施されなくなる土器を用いることが最大の特徴です。東北の蝦夷社会の生活様式が多く持ち込まれていたようです。
オホーツク文化と擦文文化、そして本州のヤマト文化が影響しあってどのようにアイヌ文化が生まれたのか。
それを探る上で前近代のアイヌは文字を必要としなかったので、考古学的研究が重要になってきます。
筆者は生業、生活用具、儀礼などそれぞれの分野でアイヌ文化の文化要素をどの文化に起源を持つものなのかを丁寧に検証していきます。
例えば海獣類の猟についてはオホーツク文化、木綿の衣や鉄鍋はヤマト文化、タマサイと呼ばれる首飾りは擦文文化、というように。
そして、日本の中世的社会とアイヌ文化の関わりが語られていくわけですが、
やはりアイヌが受け入れなかったもの、が個人的には印象的です。
それは仏教と陶磁器。
後者を少し掘り下げてみますと
13世紀以降は特に水運が発達し、広域の物流が盛んに行われるようになると
国産の壺甕すり鉢という実用的な器物、中国産の碗皿という高級食器が全国に流通していくようになります。
そんな中にあって北海道から出土する中世の陶磁器はわずかで、
同じ本州産でもアイヌが好んだのは漆器類でした。
これを評して著者は
と語ります。
ヤマト社会では三種の神器のうち、刀剣のみが宝物の地位を保っていましたが、
アイヌ社会では20世紀に至るまで玉も鏡も宝物として珍重された、
そのことも「古代」を志向したことの証左としています。
アイヌ文化が陶磁器を受け入れるのは19世紀。
肥前系磁器膾皿、上野・高取系甕、徳利(肥前笹絵徳利・コンプラ壺・越後産焼酎徳利)という3点セットを使うようになったのは
交易品の生産から、和人が経営する漁場労働者となっていったアイヌの姿を表しているとのこと。
考古学から社会の変化を描き出す好例だと言えるでしょう。
3、相互理解は歴史認識から
いかがだったでしょうか。
はじめにも触れたように、エンタメの充実でかつてないほど関心を集めているアイヌ文化。
著者は
とあとがきに記しています。
多様化した社会で、相互理解を深める上で歴史認識の重要性は増していく一方です。
歴史、考古学の果たす役割も高まっていくのを感じます。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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