【読書メモ】『舞姫・うたかたの記―他3篇』(著:森鴎外)
森鴎外の自伝的な小説とも言われている一編となります。実際には、身近な友人と自身の経験をない交ぜにしたもののようで、「うたかたの記」や「文づかひ」ともあわせて三部作的な位置付けとも言われてるのでしょうか。
相変わらずに美しく流れる文体も堪能しましたが、内容も当時の状況を敷衍しているかのようで何気に興味深く、「誰」に感情移入するかで読み解き方は変わるのかなと感じたのを覚えています。
さて、主な登場人物はこちらの3人。
主人公:太田豊太郎
踊り子:エリス
友人:相沢謙吉
政府の公費でドイツに留学した秀才肌の主人公・太田豊太郎、彼が留学先で踊り子・エリスと恋に落ちたところの回想から物語は始まります。その恋に溺れていった豊太郎、仲間の心無い讒言などもあり、一度は政府から罷免されて、エリスと暮らしながら現地の新聞記者として糊口をしのいでいました。
そこに、友人・相沢謙吉からの再チャレンジの誘いがあり、記者として培った知見や語学力で政府関係者から評価され、祖国に復職することが夢でなくなっていく、と言った流れが大筋となります。
ただ、相沢からあわせて「エリス」とは袂を分かつべきとの提案もなされたところから、悲劇の歯車が回りはじめます。
恋をとるか仕事(出世)をとるか、現代の視点で観ればエリスを連れて帰るとの選択肢もあったのでしょうが、政府役人との立場ではそれも難しかったのかな、といった当時の世相を感じてみたりも(今でも治安や外交などの重要事案に携わる役人さんには制限事項があるようですが)。
結末から遡れば、酷薄で不義理であるとの断罪にもなりますが、これは当時も同じであったようで、自身でも「ニル・アドミラリイ(何事にも動じない)」とのフレーズを文中で使っているのが印象的でした。
確かに、この悲劇は豊太郎の優柔不断さに起因していると思いますが、同時に明治時代の優秀かつ野心的な若者であれば誰しもが持っていた立身出世への強い想いもまた読みとることができ、そんなエリートの煩悶が籠められた物語なのかな、とも。
鴎外自身の経験を投影しているとも言われていますが、当時はこれに類する話は他にもいろいろとあったのも想像できます。そういった意味ではよい小説は時代を映すということを感じることができ、長く読み継がれているのもなるほどなぁ、と。
豊太郎の境遇を慮ればこそ、「エリス」を切り捨てよとの言葉を発した相沢。豊太郎を愛すればこそ、不安と絶望を押し隠しながらも堪えきれずに狂気に行きついたエリス。そしてそれらのすべてを実感していながらも、決断しきれずに煩悶とし続けた豊太郎。
そして豊太郎はまた一生涯、相沢への「我脳裡に一点の彼を憎むこころ」との屈託を見せることは無かったのだろうなぁ、とも。
三者三様の他人を思いやっての想いがちょっとしたボタンの掛け違いで、取り返しのつかない悲劇に至ってしまう、この物語の大枠だけ見れば今現在でも転がってそうな設定で。人の行為はそうそう変わることが無いのかなぁ、との普遍性を感じてみたのもまた、覚えています。
ふと仮に、豊太郎が優秀ではあっても自分だけ最優先する人間であったらば、なんのてらいもなく、生活のためにエリスを切り捨てたか、もしくは友人の真摯な誘いであっても一顧だにしなかったのかも、とか思ってみたりも。
明治といえば福沢諭吉翁の「国を支えて国を頼らず」との気概を思い出しますが、今の日本に足りないのは、こうした気概(ノーブレス・オブリージュ)を持ったエリートかなとも、考えてみたりしています。
初めて読んだのは確か高校生くらいの頃、その時は豊太郎の不甲斐なさや不義理さに違和感と反発しか残りませんでした。ただ年を経てからの再読で俯瞰して見ると、豊太郎の心の動きを理解できる気もします。それはどこか、息子なり甥っ子なりといった眼で豊太郎を見ているからなのかもしれませんが。
そして自分が、もし相沢と同じ立場になったら、、「切り捨てよ」と言わない自信は正直持てません。親しい間柄であればできうる限りに、大過なく過ごして行ける最適解を選んでほしい、と思うでしょうから、、と、そんな風にも考えさせられる一編です。
もう一つ興味深かったのは、どこの国でも、どの時代でも、芸妓が性サービスと密接にかかわりがあるとの視座でした。確か同時代のドガ(フランス,1834年 - 1917年)も「舞台の踊り子」などでも舞台裏にいるパトロンの様子を描いていますが、その背景を初めて知った時はなかなかの衝撃でした。久々にドガの作品を見てみたいところですが、、国立西洋美術館に常設展示があったなぁ、、確か。
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