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「普通」を求められる世の中だから 

 誰から「ブス」と言われなければ、自分が不細工であることに気が付かなかった。
 誰かから「バカだ」と言われなければ、自分がバカだったことにも気づかなかった。
 誰かから「キチガイ」と言われなければ、自分の行動が愚かに映っている事を知らなかった。
 誰かから「デブ」と言われなければ「ガリガリで気持ち悪い」と言われなければ、自分の容姿が誰かから醜く映っているという事を知らなかった。 
 私たちの姿も生き方も常に誰かの目があって、成り立っているのかもしれない。世の中に承認欲求という言葉がこれでもかというぐらい浸透したのもそのような背景があるからだろう。

 インターネットが普及する前は、常に多数の目にさらされながら生きるという生き方が無かったので、面と向かって悪口を言われなければ、分からなかった。自分の身の周りの世界が狭かったから、美男美女のレベルだって、頭の良さも学歴も、自分の身の回りの人間でしか図れなかった。狭い世界で生きるという事は、もしかしたらある意味で幸せなことだったのかもしれないと思う。

 テレビが普及した時、「芸能人」という顔を売る商売の人たちが姿を現した。私たちは自分の視野を少し広げられたような気がした。「こんなに面白い人がいるのか」「こんなに頭のいい人がいるのか」「こんなに美人がいるのか」と。
 その頃のテレビは「非日常」の風景をたくさん見せてくれていた。専業主婦の奥さんも、サラリーマンの旦那さんも、学生の子もみんながテレビを必要とした。ありふれた生活の中で刺激を求めたからだ。
 そんなテレビの存在を否定する人だって確かにいた。テレビでマーケティングが行われていると知っていたのだろうか。いつでも自分たちの局が視聴率が取りたいから、人気の芸能人や俳優を出演させて、過激なニュース報道をして情報操作していた。テレビの存在を否定する人たちはそのようなことが行われていることを知っていたから止めていたのだろうか。
 けれど私たちはテレビのおかげで生活に豊かさが生まれた。時にテレビショッピングの高い布団を買って、時に嘘の情報に踊らされて、それでも私たちは楽しかった。

 時は過ぎて、現代はSNSの時代へと進化した。今まで、「選ばれた人」しか全世界に顔出しすることが出来なかったけれど、近年では誰もが自分自身を全世界に発信することが可能になった。
 故にテレビを必要とする人はあまりいなくなってしまった。現在テレビを見ているのは所謂団塊の世代よりも上の人たちだろうと思う。つまり、現代に適応できない人たちだ。
 果たして、彼らが現代に適応できなくなってしまったのか、私たち若い世代が彼らを置いて自分たちが住みやすい世界を作っているのかは分からない。けれど、確かに現代社会において若い世代(電子機器に対応できる世代)と高齢者世代(電子機器が苦手な世代)の格差は確実に広がっている。

 
 話が脱線してしまったが、現代がsnsや動画中心の時代になり、YouTubeが世の中に出てきた。そう、まだ初期のYouTuberが活躍していた頃の話だ。
 昔のYouTubeはコンプライアンスががばがばだったので、これを私はYouTube暗黒時代と言ってる。
 炎上系の動画とか、平気で人に迷惑をかける動画とか、超ドえろい動画とか、そういった過激な情報をゲットできた。
 そうすると、どうしたことかYouTubeがとても受けた。まだ、テレビが普及し始めた時に人々が感じた「非日常」を再び感じるときが来たのだ。
 現在のテレビ業界っていわゆる、表向きは道徳を重んじる感じなので「嘘でもクリーンな内容を報道しよう」としているんじゃないかと思う。コンプライアンスがばがばだった頃のばか殿様とか、金田一耕助とか今じゃ絶対無理。
 
 けれど、人間なのでそんなクリーンな情報ばかりを見るのにも飽きる。初期のYouTubeはそんな私たちの心に響くものがあったのだろう。
 私がこのYouTube暗黒時代と呼ぶ最たる理由はそのコメント欄の内容にあった。誹謗中傷がまだ世間で浸透していなかった時代だったから、コメント欄は心無い言葉であふれた。本当に、本当に同じ人間か?と思うほど過激な発言であふれていた。
 今は、「誹謗中傷いけないよ」という動きが多くみられるようになりYouTubeのコンプライアンスも厳しくなった。
 それでも、厳しくなったのは動画投稿者に対してなので、コメントをする人を規制するようになったわけではない。
 悪意あるコメントは動画主自らが消していかなければならない。
 ショート動画とかでよく見るのだが、コメント欄の3割ぐらいが批判コメントだと、ずーっと批判コメントが続く。悪意あるコメントには多くのグッドボタンが付けられている。
 別にそのショート動画が非常識なものかと言われたらそうでもない。寧ろ普通の動画だけれど、出てくる女の子の人中が長いとか、離目だとか、眉毛の剃り跡があるとかそんなしょーもないことだ。
 あの空気感は、凄く不気味だなぁと思う。

 人間て残酷な生き物だよなぁと思うのだ。私、この世で何が恐ろしくて何が怖いかと聞かれたら「集団」って答える。あの誹謗中傷の嵐はまるで火車のようだ。

 多分、陰口ぐらいが丁度いいんだと思う。浮気はバレずにやれと同じように、悪口は本人のいないところで言えということ。
 難しい話であるが、人格否定するみたいな暴言吐くんだったら陰で言ってて欲しい。
 その人に直接言うもんじゃない。
 皆んな誰かに不満を持って生きているけれど、悪口なんて本人に言えないから表向きはニコニコしている。けれど、それで良いと思う。
 
 誰もの心がきれいなわけじゃないし、悪口だって言いたくなるけれど、それが容赦なく表立って言える場所(SNSのコメント欄とか)が提供されると、地獄絵図みたいになる。
 私たち、皆汚い心を持っている。
 それが、嫌だって人も怖いと思う人もいるだろう。けれど、それは怖いでも何でもなくて優しさなんだと、私は最近思えてならないのだ。

 誰かに「ブス」と言われたから、整形してしまうように
 誰かに「バカ」だと言われたから、知能障害を疑ったり
 誰かに「キチガイ」と言われたから、発達障害を疑ったり
 誰かに「デブ」「ガリガリ」と言われたから、拒食症や過食嘔吐を患ったり、そんな世界が当たり前になってほしくないから。
 皆、ルッキズムだとか境界性知能だとか新しい言葉を使い始めて、「普通」である事を決めたがるから。

 整形をしている美容系YouTuberの方の動画を見ていると、これでもかとばかりに自分に来たアンチコメントを取り上げて、それについて語っている。 
 いくら彼女らを応援している人たちが「美しい」と「かわいい」と言っても、その言葉は届かない。悲しいけれど、多くの賞賛よりもたった一言の「整形してもブス」という言葉に縛られてしまうのだ。彼女たちはとても傷ついている。
 そりゃそうだ。大金払って痛い思いしてまで造形美に没頭して手に入れた物否定されちゃ、アイデンティティ崩壊しちゃうよ。

 つまるところ、この話は「誰かに悪口を言われなければ、私たちは平和でいられた」という事だ。
 多くの情報が行き交う現代社会。顔を売る人たちは、自分を美しく見せるためにガリガリになるまで痩せ、顔面にメスをいれ、カメラの前でニコニコ笑っている。そんな彼らも、いやそんな彼らだからこそ、誰かの言葉に傷ついて生きている。

 実際私も、誰かに「軽度知的」やら「アスペ」やら「変な奴」やら言われながら生きている。そんな自分のコンプレックスを見たくなくて、某高学歴YouTuberの動画をみている。裕福である事も頭が良い事も、自分が絶対に到達できない境地にいる彼らを羨望の眼差しで見る。
 生きにくい世の中だけれど、囲いだけを集めて生きてはいけないから。いい気分で仕事なんてできないから。

 下を見て生きる事は、簡単に自己肯定感が上がるけど、それも結局誰かを傷つけてしまっているから嫌で、上を見上げると自分の愚かさを認識してしまうから悲しくて。だからこそ、いつだって自分だけを見つめていけたらいいなって思っている。それがわたしの理想。

 






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