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“台湾版『百年の孤独』”──「五人の神童」を通じて足を踏み入れる不思議な世界(倉本知明)

「倉本知明の台湾通信」第10回
五囝仙偷走的秘密』(2013年)著:謝鑫佑

近頃、墓について考えることが多い。自分が死んだ後、遺骨はどこに埋葬されるのか。外国人の遺体は現地で火葬された後、それぞれの母国へと送り返されるのか。すっかり疎遠になってしまった日本の故郷には、果たして自分の入れる墓が残っているのか。異郷で暮らす人間なら誰しも一度は考えたことがあるはずだ。

10年間、僕はこの島国で暮らしてきた。それも日本人とはめったに顔を合わせることもない南方の都市で。アパートと職場が郊外の工業区に隣接していたために華やかな都市生活とは縁遠く、煤で曇った工場と灰色のアパートが交錯する国道を毎日エレベーターで上下するように往復してきた。どこにスピード違反の自動取締り機が設置されていて、どの小巷子(路地)にある肉燥飯が美味しいのか、細く伸びる海岸線から見える夕日が一番赤く見えるのはいつ頃なのか、10年という歳月は僕の身体をこの異郷にすっかり溶け込ませてくれた。

郊外に連綿と立ち並ぶ工場を走り抜ければ、そこには蜘蛛の巣のように入り組んだ高速道路網が広がっていて、その先にはパイナップル畑と火葬場が点在している。歴史的に仏教が国家行政の一端を担ってきた日本と違って、台湾の墓地は寺院の境内には設置されておらず、郊外の幹線道路沿いに並んでいることが多かった。墓は沖縄にあるような墓室の屋根が亀甲型をしていたが、異なる民族の集合国家である台湾では、必ずしもすべての墓が同じ形式をとっているわけでも、また同じ方向を向かっているわけでもなかった。

ある時期から、僕は台湾にある墓地を観察するようになっていた。観察すると言っても、少し郊外まで足を延ばせばいくらでも墓地は広がっていて、幹線道路の両脇に広がるパイナップル畑に寂しげに立ち上る火葬場の煙を見つければ、近くに墓地があるのが分かるのだ。灰色の日常の隙間に垣間見えるこの景色を寂しく思う反面、僕はそのなかに溶け込める人間をひどく羨ましく感じていた。ある外省人の二世作家がかつて肉親の墓がない場所を「故郷」と呼べるのかと言っていたことをふと思い出した。異郷での暮らしが長くなって、自分の生まれ育った場所を素直に「故郷」と呼べなくなってきた異郷人たちは、多かれ少なかれこうした行き場のない望郷の念を感じてしまうものなのかもしれない。

こうした墓と人間の関係を台湾の民間伝承や信仰を交えて描いた『五囝仙偷走的秘密(五人の神童に盗まれた秘密)』は、高雄市郊外にある覆鼎金墓地を舞台とした謝鑫佑の長編小説で、2020年には『魂顛記-臺灣在地魔幻事件』として舞台化もされた作品だ。台湾のコンテンポラリーダンス集団「雲門舞集」の創設者で作家でもある林懐民は、本書を読んでガルシア・マルケスの『百年の孤独』を想起したと述べているが、物語にはラテンアメリカ文学に見られるようなマジック・リアリズムの要素が強く現れている。

覆鼎金(フディンジン)はかつて金獅湖と澄清湖、高雄を代表する二つの人工湖に挟まれた丘に広がっていた公共墓地で、地表だけでも1.6万基以上もの墓が立ち並び、その地下には1000年以上前から埋葬されてきた6万基以上の遺骨が眠るとされていた。埋葬者も本省人に外省人といった漢族は言うに及ばず、日本人や西洋人、仏教徒にキリスト教徒、イスラム教徒まで、実にバリエーションに富んでいる。

「かつて」と言ったのは、数年前この地域にあった墓地はすべて撤去され、現在ではどこにでもある普通の公園に変わってしまっているからだ。2010年、台湾で市町村の大合併が起こった際、この歴史的墓地は都市の再開発を名目に墳墓の全面的な撤去が決められ、地元住民や歴史的建築物の保存を求める運動などの反対に遭いながらも、2018年には完全に撤去が完了した。かつて白砂糖に群がる蟻のように丘一面を埋め尽くしていた大小様々な墳墓も、現在ではその面影すら留めていない。

あり得たかもしれない未来と、五人の不思議な子供たち

物語の主人公、王勝邦は30代の小学校教員で、黄淑華との間に一人息子である王聖任をもうけて幸せな日々を送っていた。しかし、ある日息子が不慮の事故でなくなってから、その幸せは音を立てて崩れてゆく。可愛い息子を失った黄淑華は精神を病み、やがて夫婦は離婚、傷心の王勝邦も遠く高雄の小学校への転勤を願い出る。

ところが、覆鼎金小学校に転勤してきた王勝邦は、そこで不思議な能力を持った五人の子供たちに出会う。優しい心を持った郭韋瑄、天才的な頭脳を持った梁育廷、超人的な力を持った孫宏軍、哲学的な魅力を持った呉子淳、美しい過去を留める力を持った洪嘉枝。生と死が奇妙に入り組んだ覆鼎金の墓地で育った五人の子供たちは、王勝邦に亡くなった息子の存在を思い出させ、王勝邦は複雑な家庭環境の下で暮らす彼ら五人を優しく見守っていく。

ところが、政府による突然の強制立ち退き命令で揺れる覆鼎金で、ある日五人の子供たちが突如失踪する事件が起こる。王勝邦は失踪した子供たちを探そうとするが、時を同じくして台北への帰還辞令が下る。後ろ髪を引かれる思いで台北に戻った王勝邦であったが、そこで彼が目にしたのは、事故で亡くしたはずの息子と、あり得たかもしれない幸せな未来であった……。

物語は大きく三部構成となっている。第一部では、傷心の王勝邦が高雄の覆鼎金小学校へ赴任し、五人の不思議な能力を持った子供たちと心を通わせる部分で、王勝邦は五人を通じて覆鼎金の不思議な世界へと足を踏み入れることになる。そして続く第二部では、そうした不思議な世界を作っていた五人の子供たちが失踪した結果、彼は息子の死ななかったもう一つの世界で80歳まで長寿をまっとうすることになる。幸せな人生を送っていた王勝邦であったが、その記憶は徐々に薄れてゆき、かつて自分が覆鼎金で過ごしていた記憶すらなくしてゆくのだった。

王勝邦は生まれてきた子供たちにそれぞれ薇玄(ウェイシェン)、裕汀(ユティン)、鴻俊(ホンジュン)、智村(チーツン)と名付けるが、それは覆鼎金で出会った五人の子供たち、韋瑄(ウェイシェン)、育廷(ユティン)、宏軍(ホンジュン)、子淳(ツーチュン)と同音異義語になっている。さらに物語では、亡くなっていたはずの息子と妻は永遠に歳を取らず、老境に入った王勝邦のそばには常に小学五年生のまま大きくならない息子が侍っており、彼の感じる幸せが現実ではないことが暗示されている。

第三部では、80歳になった王勝邦がある日突然中年になって再び覆鼎金へと舞い戻るが、覆鼎金に暮らしていた人たちはすべて老境に入っていて、彼は浦島太郎さながらに一人若い身体を引き摺りながら、すっかり変わってしまった覆鼎金で五人の子供たちの安否を尋ね歩いてゆく。しかし、彼らの両親を含めて住人の誰一人として子供たちの存在を覚えている者はおらず、王勝邦は自分がすでに死者としてこの世界を漂っていることに気付くのであった。

夢と現実、生と死の境界が揺らぐ場所で

本書を読む読者はおそらくいったいどこからが現実で、どこまでが夢なのか困惑してしまうはずだ。浦島太郎の例を挙げたが、あるいは荘子の「胡蝶の夢」を例に挙げてもいいかもしれない。自分の生きている世界が生の領域にあるのかはたまた死の領域にあるのか、すべては胡蝶の見た一夜の夢に過ぎないのかもしれない。こうした生と死の境界線がぼやけた世界を描くにあたって、数千年の死が積み重ねられていた覆鼎金は、まさにうってつけの場所であった。

数年前、未だ取り壊しが行われていなかった頃に覆鼎金を訪れた僕は、その独特の雰囲気に圧倒されたのを覚えている。覆鼎金の住民たちは先祖代々この巨大な墳墓の群れと共生していて、その住居の多くも数百年前から積み上げられた墳墓の中にあった。とりわけ僕の目を引いたのは、国共内戦で台湾へ撤退してきた回教徒軍人とその家族たちを弔ったイスラム式墳墓と、戦前台湾で亡くなった日本人たちの遺骨を集めて作られた日本式納骨堂だった。

物語では、本納骨堂は日本の敗戦時に切腹した軍人の霊が現れる場所とされていたが、おそらくここには人種も民族も宗教も超えた共生状態が、生者と死者との協力状態の下に成り立っていたのだろう。今思えば不思議な話だが、人種や民族の違いもなく、また生者と死者の境界さえ曖昧な覆鼎金を初めて訪れた僕は、いずれここに自分の遺骨を埋葬してもいいと思ったほどだ(もちろん、それは現在の覆鼎金ではない。無限に膨張する資本主義は死者の居場所さえも無慈悲に奪い去ってしまった)。

物語では様々な時代や国家の死生観が語られているが、とりわけ強く印象に残ったのは、古代台湾の埋葬方法について語る箇所だ。80歳になった王勝邦が再び中年に戻った際に墓の中で横たわっている自分を発見するが、その枕元には空っぽになった壺が置かれてあった。南台湾における先史時代は新旧石器時代と鉄器時代に分けられ、前者はおよそ7000年前に生まれた大坌坑文化、牛稠子文化、大湖文化を含み、後者は蔦松文化と呼ばれ、今から1800年から500年前に嘉南平原から高雄平原にかけて栄えたと言われている。当時この島に暮らした人々は、死者の枕元に水を注いだ壺を置くことで、その魂が蒸発した水分を通じて自由に現世と黄泉を往来できると信じていたらしい。死は人生の通過儀礼であって、壺の中の水が枯れない限り、死者は常に生者とともにあったのだ。こうした壺を崇拝の対象とする信仰は現在シラヤ族と呼ばれる台湾南部の平地原住民の一部にも残っているが、作品では各種の伝承や伝説、神話や歴史的事件をモザイク状に組み合わせることで、この島にかつて生きていた人間と死の向き合い方が随所に描き込まれている。

刺々しいパイナップル畑に昇るひとすじの青い煙を眺めながら、僕は今はなき覆鼎金の地下で無数の死者たちとともに、水の注がれた壺を枕元に眠る自分の姿を想像してみた。すると、スモッグで曇るこの都市の空が、不思議と騒がしく思えてくるのだった。

執筆者プロフィール:倉本知明
1982年、香川県生まれ。立命館大学先端総合学術研究科卒、学術博士。文藻外語大学准教授。2010年から台湾・高雄在住。訳書に、伊格言『グラウンド・ゼロ――台湾第四原発事故』(白水社)、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、王聡威『ここにいる』(白水社)、高村光太郎『智惠子抄』(麥田)がある。

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