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大学四年の冬。モラトリアムの現場より。

12時ごろに起きた。朝食を食べて、身支度をしてから、15時のおやつにとクリスピー・クリーム・ドーナツを電車に乗って新大阪駅まで買いに行った。オリジナル・グレーズド2こと、チョコスプリンクル1こ。オリジナルには丸ぽちを打つのに、チョコスプリンクルには丸ぽちを打たないのはなぜ。教えて、村上春樹。僕が会計をしていると、出張で大阪に来たと思しきコロコロを引いた会社員も、オリジナル・グレーズドを買ってた。わかる。疲れた時こそ、甘いものが食べたくなるよね。頑張ってね、お仕事。そんなエールを込めたテレパシーをおじさんに送る。届いたかな。

家に戻り、紅茶と食べようかとも思ったのだけど、それすらも面倒で、ミネラルウォーターで口内を潤しながら、ふわふわのドーナツを3つ、ぜんぶ食べてしまった。ほんとうは夜に1つ残しておこうと思ったのだけど。そうこうしているうちに、時刻は午後5時を指している。久々に泳ぐか。ココア味の甘ったるいプロテインを一気飲みしてから、ジーンズの下に水着を履き込み、てくてくとスポーツジムまで歩く。

午後6時のスポーツジムはあいかわらず人が少なく、ロビーの端にある観覧席からプールを見下ろすと、そこにいるのは監視員のお兄さんと60代くらいのおばあちゃんだけだった。更衣室で服を脱ぎ、プールエリアに入る。おばあちゃんは、細い腕と脚で、力強く自由形を泳いでいた。途中でひょっこり立ち上がり、ぜいぜいと息を切らしたりもしている。そんなおばあちゃんに、僕はちょっとした好感に似た感情を抱く。限界を突破しようとする健気な姿勢は、なんだって快いものだ。

おばあちゃんの隣のレーンで僕も泳ぐ。ゴーグルと耳栓を装着してから、平泳ぎ、バタフライ、自由形と。ああ、僕のバタフライは半分溺れかけているわけだが、まあ、気にしない気にしない。はじめはゆっくり泳いで体を慣らして、徐々にスピードに意識を向けてゆく。水を腕で大きくかくと、広背筋がきゅっとしまる。その感覚が、なんともきもちい。そうこうしていると、仕事終わりのおじさんがひとり、ふたりとやってきた。

ひとしきり泳いで、息が切れ始めたからプールを出る。短針は8時の方向を指していた。けっこう泳いだものだ。心地よい疲労感に包まれながら、スーパーマーケットでマルゲリータとワイン(GATAO)を買って、パスタと一緒に食べる。パスタをぱくりと頬張る僕の面前、YouTubeの中で平野啓一郎が自己と他者の関係について語っている。ある人は行儀が悪いと言うかもしれないけれど、僕はひとりで食事する時に、何かを観ていたり、あるいは何かを読んでいたりすることが多い。

近くマラソンに出場するため、最近はアルコールを控えていた。久しぶりの酔いがなんともきもちい。慎ましい食事を終えてから、ペンフレンドの女の子から届いた手紙を大切に読む。可愛らしい文字で綴られた誠実な手紙は、僕の心に幸福を与えるだけの力を持つ。ほろ酔い気分で便箋と封筒を引っ張り出し、ボールペンを握って言葉を紡ぐ。ああ、なんて幸せな夜なのだろう。

大学1、2年の語学の講義で出会った友人に、酔いに任せてLINEを送る。「22年間生きているわけだけれども、今の自分がいちばん好きかもしれない」「以前に比べて友達は少ないけど、誰も傷つけてもないし、傷ついてもないし、ユートピア的ないまがいちばん自分らしいなあ、と」。彼は、僕の意見に同意した上で、こう言う。「いまってかかるストレスはないけど、刺激もそこまでなくてなんか老後のような気分」。とても、わかる。実に言い得て妙だ。

働き始めれば嫌でも刺激は湧いてくるだろうから、いまは束の間の老後気分を味わうのも一興なのかもしれない。あるいは、刺激なんていうものはそもそも必要ないのかもしれない。だって僕は、さほど刺激のない人生をいま生きているわけだけれど、まったく退屈していないし、幸福を感じているのだから。刺激があっても、なくても、そんなことは僕にはどちらでもよいことなのだ。自己と他者との間に幸福を見つけられるような、そんなささやかな日常が、どこまでも続いてほしいなあと思う。

はて、この記事(あるいは日記)のタイトルは何にしようか。「大学四年の冬。モラトリアムの現場より」。悪くない。まあ、僕はあまり自分がいまモラトリアムの現場に生きている感覚はないわけだけれども、ある面から見ればモラトリアムの中に生きているようにも見えなくもなかろう。というか、ずっとふわふわと生きていたい。そんな祈りのような願いを込めて、「モラトリアムの現場より」。

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