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二人の父が見た戦争

戦後78年、50代の私が知っていること

私は今50代前半、年の割には戦争の話に触れる機会が多かったのではないかと思う。
母方の祖母に連れられて、防空壕の跡を見に行ったこともある。
そして母は戦中戦後の話を度々私達に語っていた。

父少年が感じた後ろめたさと悲しみ

ところで、人生残り少なくなったせいなのか母とは違って、これまで戦争の話をしなかった父が最近当時の話を語るようになった。

私の祖父は国の役人でもあり、戦中日本にはいなかった。
終戦直後、父家族には複雑な感情があったことや、子どもながらも周囲の目を気にしながら暮らしていたと話してくれた。

戦後亡くなった祖母

さらに父は戦後しばらくして母を亡くしている。今で言う心筋梗塞だったそうだ。
「体の弱い人だったから疲れていたんだろうな」と父は少し優しそうに話した。
祖母を亡くした頃、父はまだ中学生だった。
父から祖母の話を直接聞いたのは、50数年生きてきて初めてのことだった。

もう一人の父、義父

そしてもう一人の父は亡き私の義父。
夫の家に初めて挨拶に行く時、夫から「父が戦争の話をすると思うので驚かないでほしい」と言われていた。

私は自分もそれなりに聞いてきた方なので、驚かない旨夫に伝えたと思う。

義父が語る戦争

そして、やはりお初に会ったその日に義父は私に戦争の話をした。
自身は戦時中、馬の世話係をしていたという。結核で招集されなかったそうだ。

その後義父は亡くなるまで、事ある事に何度もその話をした。80歳ほど離れた孫達にも語ってくれたが、彼らは覚えていないと思う。

義父はとても知的で、家では静かに本を読み外では地域の方々とも交わえる人だった。
亡くなる1年程前に少々の認知症状が出たが、
馬の世話係の話だけは最期までしていた。

義父の持つ大きな後ろめたさ

私は思っていた。
義父は終戦の頃、東京の大学に通う20代。健康だったら招集されていただろう。
自分が戦地には行かなかったことを後ろめたく思っていたのでは?
招集された仲間の中には帰ってこなかった人もいたのではないだろうか。
それは夫も同じ様に感じていたようだ。
義父は96歳で亡くなるまで、どこかに重い荷物を持ったままだったのかもしれない。

もっと義父に話を聞きたかった。

社会の進化に順応し、生きてきた父達

戦後は恵まれていたのか教育も受けられ、それぞれ順当に生きた父と義父。普段はそこに戦争の影などなかったが、何らかの葛藤を抱えたままだったことは間違いない。義父については亡くなるまでずっとだったと思う。

そして、共通に願ってきたのは穏やかに暮らすことだったと思う。

父も母も。そして義父も必ず終戦の日には黙祷を捧げてきた。
私も15日正午、夫と2人黙祷を捧げた。

作曲家が歌ういのちの歌〜ピアノが美しい



私と夫は歳が離れています。しかも夫は末っ子。義父は大正生まれで、私にとっては優しいおじいちゃんでした。

ところで、私は全く見えない人ですが実はこの義父、亡き後に私を助けてくれた事があるんですよ。
スピリチュアルではないですよ。私は物質主義な人間です。
でも確かに義父はやって来た!

またの機会に書きます。











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