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桜にまつわるいい話①

桜の季節になると思い出す話がいくつかある・・

日本人ならば知っておきたいエピソードの其の一です。

少し長くなりますが ・・では・・

第二次世界大戦の終戦直後、ポーランドからの避難難民にあふれたその街では、疫病が蔓延していました。

街の90パーセントは破壊され瓦礫と化してしまいました。

医薬品もベッドも食料も、水さえも無い・・全てが不足していました。

衰弱した患者が大勢横たわり、患者は栄養失調のため手足は枯れ枝のように痩せこけ、照明の無い暗室でボロ布をまとってひしめきあいながら、うめき声をあげ、生死をさまよっている地獄のような惨状でした。

まさに、もののたとえではなくこの世の地獄でした。

この街にいた多くの医師は軍医にとられ、そのまま戦場から帰ってくる事はありませんでした。

わずかに残った医師も、疫病の展覧会のようになったこの街の惨状に身の危険を感じ、この地を去って行きました。

しかし、それを責める事など誰にもできません。

むしろ医療の知識がある医師だからこそ、薬も機材も清潔な環境も何も無いこの街で、疫病に感染してしまえば自分の命が助からない事を誰よりも分かっているからです。

そこに一人の東洋人医師がフラリとどこからともなく現れ、この街に住み着いたのは、ちょうどその頃のことでした。

ドイツ東部、ポーランド国境に近い街 古都リーツェン。

この街では、彼に救われた年配の住民は当然のこと、大人も子供も彼の名前を知っていました。

各家庭では代々語り継がれ、この地の誰もが彼のことを尊敬していました。

1989年ベルリンの壁崩壊、東ドイツの秩序や体制が崩壊すると、地元の郷土史家ラインハルト・シュモーク博士は40数年間に渡り封印されてきた彼に関する住民の証言を集め、歴史に埋もれようとしていた彼の功績を公開しました。

ドイツの新聞に報道され、ドイツでは彼の身寄り調査が大々的にはじまりました。

彼が自らの命と引き換えに多くの命を救った日本人の医師だという事は住民の誰もが当然のように知っていました。

しかし、彼の経歴を知る人はただの一人もいませんでした。
彼は生前、自ら自分の事を話すことはほとんどありませんでした。
どうやらベルリンから来たらしい・・それ以外は何一つわかりませんでした。

1945年3月18日、ヒトラー政権崩壊が濃厚になると、当時ドイツに在留していた日本人に日本政府から帰国命令がでました。

何故?終戦直後の瓦礫と化した古都リーツェンに日本人が居たのか・・不思議です。

リーツェン市長は彼の生涯と業績をぜひ記録に残したいと願いました。

しかし、彼がどこの誰なのか・・わかりませんでした・・

彼の名は肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)、この物語は『戦争秘史・リーチェンの桜の木』というノンフィクションの大作となっていて読む事ができます。

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ドイツの東側、ポーランドとの国境近くに、リーチェンという街があります。

リーチェン市には、市内各所にたくさんの桜の木が植えられ、毎年春には、きれいな桜が咲きほこります。

また、毎年3月には、ドイツ、ポーランドの少年少女たちの柔道大会が行われています。

なぜこのようなことが毎年行われているのでしょうか?

第二次世界大戦のあと、ドイツは東西に分断されました。

リーチェン市のある東ドイツは、ソ連の支配下に置かれ、共産主義の厚い鉄のカーテンに阻まれて、ある出来事が隠蔽されてしまったのです。ある日本人の物語です。

その日本人というのが、医師の肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)氏です。

彼は、明治41年に、東京の八王子で外科医肥沼梅三郎氏の次男として裕福な家庭に生まれ育ちました。

幼いころから成績優秀で、東京府立二中(現立川高校)を卒業後、日本医科大学に進学、そこから東京帝国大学(現東大)放射線研究室へと進みます。

彼の若い頃のあだ名は数学の鬼。

尊敬する人は当時売り出し中のアインシュタイン博士です。

昭和12年、29歳になった肥沼信次は、憧れのドイツに渡ってベルリン大学医学部放射線研究室で学びました。

同大学で東洋人としては初の教授資格を取得します。

昭和14年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻します。

いわゆる第二次世界大戦の始まりです。

9月3日には英国とフランスがドイツに宣戦布告。

9月17日にはソ連が東からポーランドに侵攻。

翌昭和15年には、ドイツ、イタリア、日本が三国同盟を締結し、昭和16年には大東亜戦争が開戦となりました。

そんな激動の時代の中、ドイツは国内の全職業集団のナチ化をすすめます。

ナチス思想に忠誠を誓わない学者や官僚、教師らは、次々と公職追放となります。

このとき、ベルリン大学だけで数百人の学者が職を奪われ追放されている。

昭和19年2月15日には、ついにナチスが肥沼博士にも、ナチスへの宣誓を強要してきました。

もう待ったなしです。

やむなく肥沼博士がナチスに提出した宣誓書が残っていました。

そこには次のようにあります。

「私はドイツ職業組合に所属せず、純潔な日本人であり、日本国籍を有する。」

肥沼博士は、ヒトラーへの忠誠を示す宣誓をあくまで拒みました。

宣誓書で、自分は日本人であると堂々と宣言したのです。

当時、日本とドイツは同盟関係にあったとはいえ、これはものすごいことです。

殺されてもおかしくないかもしれません。

肥沼博士がいかに意思の強さと勇気を持つ人であったかがわかるエピソードだと思います。

翌昭和20年1月、ベルリンは連合軍の大空襲を受けます。

街は焼け野原となりました。

ベルリン大学も粉塵に帰してしまいます。

同年3月、ドイツにあった日本大使館は、ナチスの敗北必至とみて、日本人在独者に帰国命令を出します。

このとき約300人の日本人が、ドイツ南部からチェコスロバキアを経由して日本に帰ってきました。

ところが肥沼博士は、日本大使館の避難勧告と帰国命令を無視し、誰にも告げずに、反対方向の、まさにソ連が攻めてくるポーランドの国境の街、エバースパルデに向かったのです。

当時、肥沼博士を助けていた人に、シュナイダー夫人という人がいました。
肥沼博士35歳、シュナイダー夫人32歳です。

婦人は軍人だった夫を亡くし、5歳になる一人娘のクリステルを育てていた。

幼い子供を抱えたシュナイダー夫人に同情を寄せた肥沼博士は、シュナイダー夫人が妹の住むエバースパルデに疎開すると聞いて、医師である自分がそこに行けば、何かの役にたてるかもしれないと考えたのです。

エバースバルデでの疎開生活がどのようなものだったのかは、いまとなっては知るすべもありません。

ただ、肥沼博士ら一行がエバースバルデに疎開していたとき、そこから25キロほど南に下ったところにあるリーチェンという街で、発疹チフスが蔓延してしまうのです。

発疹チフスというのは、高熱を発し、全身に発疹ができて、脳症状まで起こる伝染病で、いまでも国際監視伝染病のひとつに数えられている病気です。

シラミによって媒介される病気で、戦争、貧困、飢餓など社会的悪条件下で流行し、第一次世界大戦では、対戦中にヨーロッパで数百万の死者を出しています。

リーチェンという街は、中世から栄えていた歴史のある人口5000人ほどの古都なのだけれど、戦争によって市街地の9割の建物が灰燼に帰し、そこにポーランドから追放されたドイツ兵やドイツ難民、被災民が押し寄せ、人口が数倍に膨れ上がっていました。

下水も壊れ、衛生環境も極度に悪化した中で、敗戦後であり極度の飢餓がそこを襲ったのです。

人々の生活環境が最悪の状態となったところへ、法定伝染病の発疹チフスが大流行したのです。

リーチェンを制圧していたソ連軍は、市内にあったナチスの戦車隊訓練学校の跡地を利用して、そこに「伝染病医療センター」を作ります。

要するに、伝染病に罹った人を、そこに隔離したわけです。

ところが、医療センターとは名ばかりで、医師が一人もいないのです。

そこで白羽の矢が立ったのが、25キロ北にいる日本人の肥沼博士だったわけです。

法定伝染病の蔓延する街の、しかも衛生環境も最悪の医療センターに行く。

医者なら誰でも嫌がるはずです。

現に、ソ連軍が依頼した医師たちは、だれひとりその要求をのむものはいなかった。

リーチェンの街の医師たちも、全員戦争に駆り出され、誰一人のこっていなかったのです。

そんな中、肥沼博士は、たったひとり、リーチェンの医療センターに向かいます。

肥沼博士が医療センターに着くと、そこには医師は肥沼博士ただ一人で、赤十字から派遣された助手が一人と、看護婦が7人、調理師が3人だけでした。

しかも看護婦のうち5人はチフスで亡くなっていました。

患者は、病院のベッドだけでは足りず、毛布の代わりにワラを敷いて、廊下にまで患者たちが寝かされている。

吐瀉物や排便による悪臭の中で、患者たちは病気だけでなく飢えにも苦しみ、そのうえ薬や消毒液、ガーゼなどの医療用品も不足、患者は次々に死んで行くのを待っていました。

看護婦たちでさえ嫌がる汚くて臭い不衛生な所へも、彼は平気で往診に出向き懸命に治療にあたります。

このとき、肥沼博士に命を助けられたマルサ・クラスケさんが、平成5年に取材に答えて話してくれたときの模様が、「大戦秘史、リーツェンの桜」という本に書かれていますので、紹介します。

『当時、私の70才になる舅のヴィルヴァルトが発疹チフスにかかってしまった。
1945年夏に、主人が戦争から帰ってきていたが、体が弱まっていてすごく衰弱しておりました。

村にはシュモレーさんという頭の病気を治す医師がいただけです。

そんな時、暮れに舅が発疹チフスにかかり大変困ってしまいました。

村人に相談したら、リーツェンに日本人医師がいて、その医師に治療して貰った人がこの村にいる、その医師はドイツ語をよく話すチフス専門医なので、是非治療して貰ったらと勧められました。

その話しを聞いて、父もその日本人の先生に診てもらおうと思いました。

でも夫も衰弱しており、どうやってリーツェンまでいくか悩みました。

鉄道は爆撃でやられていて、隣の駅までしか動いていなかった。

家には馬を一頭飼っていましたが、非常に弱っていて、しかもこの馬は役所に内緒で飼っていたのです。

当時、馬は役所に徴発されていたのですが、農家ですので一頭だけ隠していたのです。

見つかると取り上げられてしまいます。

でも馬でいく以外にないと引っぱり出して、主人が病をおして肥沼先生を迎えに出かけて行きました。

弱い馬だったので途中で倒れてしまい、そのあとは歩いて、やっとのことで肥沼先生のところまでたどり着いてお願いすることが出来ました。

肥沼先生は主人にすぐ行きますからといってくれました。

本当に肥沼先生は来てくれたのです。

たった一人で寒い中を。

おじいさんは、生まれて初めてお医者さんが家まで往診に来てくれたと大変喜びました。

これまで家に来てくれるお医者さんはいなかった。

先生は診察したあと持ってきた薬を全部置いていってくれました。

その後2回、治療にやってきてくれました。

私の舅は比較的高齢にもかかわらず、治療を受けて治りました。

その後、10年も生きられたということは、それだけでも奇跡ですね。肥沼先生のおかげです。

実は、肥沼先生のところに頼みに行く時、最初ためらいがあったのです。

というのは、この辺りにもソ連軍の兵隊がいて、日本人の医者と関わり合いをもったら、と心配したからです。

でもその心配は無用でした。

肥沼先生は診察料のことを口にしませんでした。

うちだけでなく、他の家ででもです。人を慰め、握手を求め、薬を運んで救助を急いでくれて・・

すべてが狂乱・興奮状態であった時代にですよ。

本当にそういう先生がいたのかと、今の人には信じられないでしょうけど、大変素晴しい尊敬できる人なんです。』

当時、マルサさんが住むこの村には、30軒の農家があったのだそうです。

そしてどの家にも一人以上の発疹チフス患者がいた。

肥沼博士は、この村にまで、荷馬車で治療に幾度も通ったのです。

取材のとき、クラスケ夫妻は肥沼博士のことを、子々孫々伝えていくとおっしゃられたそうです。

そしてその取材のとき、おさげ髪の、目の澄んだ優しい表情に満ち満ちているお孫さんが、「小学校、中学校でも先生が肥沼先生のことを話してくれます」と、話してくれたそうです。

肥沼博士が勤務した伝染病医療センターから、5キロほど離れたところには、難民収容所がありました。

そこでも発疹チフスが流行した。

この難民収容所は、ポーランド領地から逃げてきた多数のドイツ人の収容所です。

そこでは発疹チフスだけでなく、マラリアや赤痢まで流行していました。

そのため難民収容所には大勢の衰弱した患者が横たわり、栄養失調で手足は枯れ枝のように痩せこけ、暗い部屋のなかで、苦しくてうめき声を上げていたそうです。

さながら地獄のような惨状だった。

最初に肥沼博士が診察のためにこの収容所を訪れたとき、同行した若い看護婦は、あまりに悲惨な状況を前に、怖くて部屋に入ることができなかったといいます。

ところが肥沼博士は、何のためらいもみせずに部屋に入って行った。

博士は感染に怯える様子もなく、患者一人一人の手をとって優しく声をかけ、患者を励まし、治療にあたった。

当時、日本人はドイツでも勤勉な民族として知られていました。

また武士道の精神を持つ勇敢な民族としても知られていた。

肥沼はそのような日本人をイメージさせるかのように、不眠不休で、それでいていつも優しく患者に話しかけていたといいます。

そして患者や看護婦たちから見た肥沼博士は、勇敢な日本のサムライそのものに見えたといいます。

伝染病に感染したのは大人たちだけではありません。

子供たちも数多く感染しました。

肥沼博士は、子供達にもできる限りの治療をつくし、おかげでこのとき何人もの子供が助かった。

治療に欠かせない医薬品は、肥沼博士自身が、あちこち走り回ってようやく調達しました。

ソ連の野戦病院へは、寿司詰めの汽車で2時間、そこから徒歩で2日の距離を進み、何度も断られながら辛抱強く頼み込んで薬を手に入れています。

そして抱えられるだけの医薬品を持ち帰ると、惜しみなく患者に薬を与えた。

また栄養失調に苦しむ患者のために、食料を求めてバルト海沿岸までも奔走しています。

何百人ものドイツ人が、こうして肥沼博士の献身的な治療で危機を脱します。

彼は不眠不休で働き、自宅に帰ると服を着たままソファーに倒れ込んだ。

こうして献身的な治療を続けた肥沼博士なのだけれど、彼はいつも笑顔で患者たちを励ましながら、個人的なことは何も話そうとしなかったといいます。

なぜここにいるのか。

なぜここまでして治療に打ち込むのか。

肥沼博士が話したことといえば・・

「日本の自然はとてもすばらしい。富士山は美しい山で、特に桜はたいへん綺麗だ。桜の花をみんなに見せてあげたい」というようなことだけだったそうです。

しかし疲労が重なった肥沼博士は、ついに難民収容所からの帰り道で発疹チフスに倒れてしまいます。

自宅で療養にあたったけれど、昭和21年3月2日には、悪寒と発熱の症状で起きあがることさえできなくなってしまったのです。

心配して看護婦たちがやってきたけれど、彼は、自分にチフスの治療薬や注射を使うことを拒否します。

そして、看護婦たちに言いました。

「はやく患者さんのところにもどりなさい!そして貴重なクスリは他の患者さんに使いなさい!」

昭和21年3月7日、博士の症状はますます悪化していきます。

ちょうどその日は、家政婦のエンゲルさんの16歳の誕生日だったのだそうです。

肥沼博士は、額の汗を拭き取ってくれるエンゲルさんに、

「誕生日おめでとう、誕生祝いを やれずにごめんね」と弱々しい声で言ったそうです。

そして、ひとこと・・

「桜が見たい」

とつぶやいたそうです。

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翌3月8日午後1時、肥沼信次博士は、シュナイダー夫人、家政婦のエンゲル、病院の看護婦たちに看取られながらリーツェンの自宅で亡くなります。享年38歳でした。

遺体は粗末な棺に納められ、冷たい小雨の降る中を市民に囲まれて、自宅からフリート広場の墓地まで運ばれました。

戦争が終わり、ソ連に占領された東ドイツ、ブランデンブルク州のリーチェン市では、伝染病医療センターの建物は、猛威を振るった発疹チフス沈静後に閉鎖され、リーチェン市の市役所となります。

ソ連の衛星国となった東ドイツでは、市内のいたるところに秘密警察がいて、市として肥沼信次博士を公に賞賛することはできませんでした。

けれど、肥沼医師に助けられた多くの人々は、彼の功績を決して忘れず、肥沼医師の墓を建て、四季を通して花を絶やさなかったそうです。

肥沼医師に助けられたリーチェンの市民たちは、命と引き換えに自分たちの救ってくれた肥沼医師への感謝の心を忘れなかったのです。

それから43年後の平成元年、ベルリンの壁が崩壊し、東ドイツの共産主義者ホーネッカー大統領が失脚しします。

そして東西ドイツは統一されました。

リーチェン市では、43年間封印されてきた肥沼信次医師に対する感謝の気持ちを、晴れて公にできるようになったのです。

リーチェン市では、地元の郷土史家のシュモーク博士が、肥沼信次に関する住民の証言を集め、歴史に埋もれようとしていた彼の功績を公開します。

シュモーク博士の調査は、ドイツの新聞で報道されました。

それをきっかけにドイツでは、肥沼の身寄り調査が始まりました。

彼が日本人であることは、住民たちはみんな知っています。

けれど彼の経歴は、誰も知らない。

どうしてリーチェンに来たのかもわからない。

そもそも肥沼医師が、どこの誰なのかさえわからない。

ドイツ・アカデミー会員の長老で、フンボルト研究所所長のピアマン博士は、肥沼信次という人物に強い関心を寄せます。

そしてドイツ大学の客員教授で、当時ドイツに駐在していた桃山学院大学の村田教授に肥沼信次の調査を依頼しました。

村田教授は肥沼信次医師の遺族や家族を捜そうと、日本大使館や文部省などに照会するけれど、どこもまるでわからない。

やむなく村田教授は、朝日新聞の尋ね人欄に肥沼信次の名前を載せます。

そして平成元年12月14日、肥沼信次の弟さんである肥沼栄治氏が、東京で見つかります。

弟の栄治氏は、兄の死を日本赤十字社から知らされていたのだけれど、どこでどのようにして亡くなったのかは、まるで知らなかったのです。

肥沼信次の身元発見の知らせが、村田教授からピアマン博士、ピアマン博士からシュモーク博士、シュモーク博士からリーチェン市長へと伝えられました。

リーチェンの人々は自らの感染という危険を恐れず、自分たちの生命を守ってくれた肥沼の過去を初めて知りました。

平成5年、リーチェン市役所の入り口に肥沼信次の記念プレートが飾られます。
そこには、『肥沼信次はこの建物で自ら悪疫に感染し、倒れるまで多くのチフス患者の生命を救った。』と刻まれました。

平成6年、リーチェン市議会は、満場一致で、肥沼信次博士の功績をたたえ、彼を名誉市民とすることを決定します。

肥沼信次博士は、リーチェンの名誉市民となり、彼の墓は、市が永遠に責任もって管理することになったのです。

平成6年、弟の肥沼栄治氏がリーチェン市を訪れます。

そしてリーツェン市長をはじめ多くの人たちの温かい歓迎を受けました。

栄治氏は、兄の墓に花を捧げました。

その日、リーチェンの当時の生き残りの人達から、兄の信次が最後に「桜を見たい」と語ったという話を聞きます。

日本に帰った栄治氏は、リーチェンの市民から預かった寄付金で、リーチェン市に100本の桜の苗木を送ります。

その苗木のひとつは、肥沼信次医師の墓にも植えられました。

「桜を見たい」と語った兄の夢は、ようやく48年ぶりに叶えられたのです。

そしてリーチェン市は、市内の各所にたくさんの桜の木を植えます。

その桜は、いまでは大きく育ち、リーチェンの街中で桜が見られるようになったのです。

平成12年7月1日、リーチェン市は、市役所前の広場に、肥沼信次の記念碑を建て、その除幕式を行います。
式には多くの人々が参列しました。
ドイツの新聞は、この除幕式を大々的に報道しました。

そして郷土博物館には、肥沼信次の胸像とその生涯を説明した碑が建てられました。

また肥沼医師の墓も建て替えられました。

高さ1メートルの大理石に、ギリシア神話に登場する医術の神アスクレピオスが持つ「蛇の巻きついた杖」が彫られ、肥沼が医師であることが示され、墓標には「伝染病撲滅のため自らの命を捧げた」と刻まれています。

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さらにリーチェン市では、毎年、肥沼信次が亡くなった3月に、ドイツ、ポーランドの少年、少女たちの柔道大会が行われることになりました。

この大会は「肥沼記念杯」と名付けられ、数百人の参加者が試合前に彼の墓に花をささげます。

柔道着に身を包んだ少年少女たちが墓前に整列し、自分たちの祖父母を救ってくれた大恩人の冥福を祈る。

少年少女が通う学校でも、肥沼信次医師の物語は、学校の授業で取り入れられ、人としての立派な生き方として紹介されています。

遠い異国の地で、肥沼信次博士は、自分の命と引き替えに多くのドイツ人の命を救いました。

彼は学者として優秀であっただけでなく、それ以上に人間として素晴らしい日本人でした。

医師として、患者救済の責任をはたし、人間として愛と倫理観を持ち、日本人としての勇気と正義を実践した。

リーチェン市の人々の心の中には、肥沼信次の名は未来永劫永遠に生き続けることでしょう。

・・おしまい・・

【参考ブログ】『チャカポコ♪の愛国戦闘詳報』

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