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私の花束

えっ。何これ。むっちゃキレイ。

インスタグラムを何気なくスクロールしていた。「あなたに興味がありそうなもの」で突然、花束の画像が現れた。私は目を奪われた。体中に血が駆け巡るような興奮、胸いっぱいに広がる感触、言葉では表せない高揚感が、一瞬で私に来た。

スマホの画像をタップし、詳細をみた。
私をイメージした花束を作成し、パリにて撮影してくれるという、見ず知らずの花屋さんの企画だった。jardin du I'llonyという日本の花屋さんだった。過去の写真が見本として、インスタグラムに現れたのだ。

私は過去に花屋さんどころか、花を検索したこともない。なんでまたインスタグラムに現れたのだろう。不思議だった。
花とは全く縁がなかった私だからこそ、この花束とは巡り合うべくして会ったのだと思った。値段を調べた。なかなかの価格だった。逡巡した。
いや、やっぱり欲しい。お願いしたい。値段を飛び越えても、私の花束を見たい。強く思った。私は申し込みボタンを押した。

数日後、申し込み手続きの詳細と、簡単なアンケートがメールできた。このアンケートからフローリスト(注:1)の谷口さんが、私をイメージした花束を作製してくれる。花束を作る前も、作ってからも、お会いすることはない、不思議な企画だ。

そのときに私が送ったメールの一部を、以下に記す。

「谷口さんの作品のなかに、凛と佇み、静かにそこにいるのだけれど、生命力に満ち満ちている姿を感じました。
ただ在ることの凄さです。

豪華絢爛で目を惹く花も、無邪気な可憐さのようでいて、計算しつくされた可愛さの花もあることを知っています。
そんな花を見て、美しいと感じていました。そうなりたいと恋願ってきたし、願っていました。

私がなりたい姿は、豪華絢爛なのだろうか。もてはやされる可愛さなのだろうか。
谷口さんの作品をみたとき、はっとしました。

パリの風景が醸し出すものなのでしょうか。哀愁も感じました。
哀愁はマイナス材料じゃない。むしろある方が、美しさを輝かせる。
すくっと立つように、ただそこに在る美しさ。
私がなりたい美しさは、ここにあるじゃないか。

谷口さんにお願いしたい。
すぐさま申し込みました」

簡単なアンケートにも関わらず、私は思いの丈をとても盛り込んだ。私は、使って欲しい花の指定も無い。撮影場所の希望もない。でも、思いはこんなにある。そんなメールにした。

されど、初めて見たときの感動をこのメールでは、伝えきれていないと思った。私という人間を知って欲しい。私の花束のイメージを広げたい。切実に思った。

アンケートに「やっているSNSがあれば教えて下さい」とあった。
私は専ら見るばかりで、何ら発信はしていなかった。

「noteしています」
まだ始めてもいなかったのに、アンケートへ書いた。noteに投稿する文章から、私のイメージを膨らませてもらおうと企んだ。
発信が怖く、二の足を踏んでいたnote。その怖さを吹き飛ばすほど、花束は私へ突き進む力を与えた。

アンケートに答えてから、数日後のことだった。
フォローし始めたフローリスト谷口さんの、インスタライブ告知が流れてきた。告知をタップしてみる。花束を作製している実況映像に切り替わった。普段よりも早い時間で始まったらしい。
「〇.〇様の花束」
私と同じイニシャルだ。もしや私の花束か。誰に確認することもできない。スマホをぎゅっと握りしめ、食い入るよう画面に見入った。
谷口さんが花の説明をしている。流れるようにどんどん花束ができていく。でも、なぜこの花を選んだとは、一切おっしゃらない。小一時間、あっという間だった。息をのむ花束が出来上がっていた。

後日お店へ確かめた。あの花束は私のですか? そうですと返信がきた。

花束作製から数日後。スマホへ再び、インスタライブの告知がきた。私の花束の撮影へ向かおうとする実況映像だった。
普段の私はさほど、スマホからのお知らせに気づく方ではない。
花束の企画を見つけたときに始まり、タイミングを逃さず、リアルタイムで全てを観れている。この偶然の重なりに、私はますます興奮した。

撮影は風の吹き荒れる嵐のような暴風雨の中、郊外の聖堂へ向かって車で走っているところから始まった。視界不良と思われるなか、数時間かけて目的地を目指しておられた。

撮影場所の聖堂は、外の嵐とは一転、静寂が漂っていた。パリの歴史が醸し出すものだろうか。厳しさと優しさが同居している聖堂だった。
花束を置き、撮影が始まる。聖堂内の場所を変え、位置を変え、その度に何十枚も撮影していく谷口さん。私の花束が丁寧に、思いをもって扱って下さっている様に、心が熱くなった。

ありがとうございます。
決して聞こえるはずがないのだけれど。画面に向かって思わずつぶやいていた。

なぜその花を選んだのか。なぜその撮影場所なのか。何をイメージしたのか。
言葉が欲しいと谷口さんへメールをした。
答えはこうだった。
「どういうイメージだったのか? 言葉にはしないことにしています。
ぜひこの花の写真を飾って毎日鏡を見るように花束の中に自分を見つけてもらえれば幸いです」
言葉はいらないのだ。すごい。私の考えの及びもしない答えだった。

こんな花束買ったんだ。なかなか人に言えなかった。値段ゆえだった。
値段以上の価値がある。花束にかけて下さった谷口さん達の姿を見て、十分に納得している。でも、なんでか言えない。

何でも話せる知人へ、私のありのままの気持ちを話した。すると彼女はこう言った。
「自分にはそれだけの投資をする価値があると、自分自身が認めてる証だよ」

ああそうか。自分のためという理由で、そんな額を使うとは不相応だと、心のどこかで思っていた。だから買ったんだと人様へ簡単に、言えなかった。納得だった。

でも表面の気持ちとは裏腹に、私はこの花束を受け取っていいんだと、十分に自分を認めていた。
私以外にこの花束を受け取る人間はこの世にいるのか。いや、いない。
堂々と私はこの花束を受け取る。そう決めた。心が、すーっと通っていった。

たまたまのご縁で巡り合った、この花束。日常生活の中で置き去りにしていた、私の感情を大きく揺さぶった。谷口さんの言葉を借りるなら、言葉じゃ表現しきれない情動だ。
この情動は、とても心地よかった。私、生きてる。力がみなぎった。
この感情、この感覚が大好き。私は、これを味わいたい。認識させてくれた。

この感情、感覚を大切にする。後付けで言葉を持ってくるように、感情、感覚を優先でなんとかすればいい。
ガッチガチの私の思考をひっくり返した。

そして、もうひとつ。発見があった。
自分と向き合うために、始めた文章書き。忘れていた感覚を思い出した。
「文章ひとつで、こんなに心を動かすんだ」
それは、作家さんでもない、ごく普通の方が書いた文章だった。当時、私の心は揺さぶられた。
いつか私も、こんな文章を書けたらいいな。文章書き始めの私は、そう思った。

ここから書いていく文章には、いつか、誰かの心へ届くようにしたい。
花束との縁が届いた、私のように。どこかの誰かへ届けたい。
気持ちを新たに、書いていこうと思う。

花束の写真。一番のお気に入りは、額に入れて、私の部屋へ飾る。二番目のお気に入りをnoteの私のアイコンにする。
この花束のように、言葉を越えた生命力を体現できるよう、文章を続けていきたい。

この花束の写真を見て、あなたは何を感じましたか。
良かったら、教えてください。

〈終わり〉


注1:「花屋さん」と言う意味だそうです。

jardin du I'llony 

https://www.illony.com/

パリであなたの花束を

https://www.illony.com/taniblog/cat136/

谷口 敦史


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