見出し画像

予定通りに行かなくても良いおおらかな暮らし

(旧暦9月1日新月)

予定通りにことが進むのは気持ちがいいし、思い描いた形で成果で積み上げられていくのを見るとモチベーションが上がるものです。一方で、折角組み立てたプランが何かの事情で狂ったり、うまいこと進行しなかったりするとストレスを感じる人も多いのではないでしょうか?

しかし何事も予定通りに生活をすることは、田舎で自給的な暮らしをするとなると難しいことに気づきます。

晴れれば外仕事は円滑に進みますが、雨となればそうは行きません。まさに晴耕雨読。晴れの日と雨の日でできることが違います。と言ってもカンカン照りであまりに暑い日にはとてもじゃないけれど外作業は難しい。

夏の日中は暑すぎるから休憩でしょう。地中海地方のシエスタに限らず、温暖な地域では当たり前のことです。インドなんかでは商店主が店番しながら寝てしまっているのも珍しい光景ではありません。

ならば夏は早朝や夕暮れが動きやすいと言うことになりますが、田舎の早朝の草地は露で濡れていますし、涼しい時間帯はブヨが多い。一方、夕方になってやっと過ごしやすくなってきたかと思うと蚊が出てくる。だったら汗だくで灼熱の中で作業した方が良いと思えることもあります。このように晴耕とは言っても、その時間帯によって適した作業は変わってくるわけです。

週間天気予報を見れば大まかな作業日程を組めますが、見る度に雨予報が変化していくものですし、全く雨予報のない日に急に降り出すことだって少なくありません。雨雲レーダーにも感知されない雨雲というのもあるわけです。僕が住んでいるような山間部ではその傾向は顕著です。

つまるところ、予定なんて暫定にすぎず、管理できない自然環境の中で慎ましく柔軟に自己管理するくらいしかできないのだということに気がつきます。そして自身の管理を自らに委ねられているというのは、ある種責任重大でありながら、別に誰にも責任を負う必要のない、おおらかさというのがあると思うのです。

自分で管理するか、はたまた管理されるか

一方で都会的な仕事をするとどうでしょう。基本的には9時17時の平日勤務だろうが、シフト制だろうが、気象条件にかかわらず働いておられるかと思います。

多くの場合全天候の環境が用意され、暑さ寒さもエアコンによって平準化されており、自然環境の影響を受けることなく業務は遂行されて行きます。

それはとても効率的な勤務形態であることは間違いないです。従業員を機械的に管理して、仕事の進捗をより高い制度で組み立てることのできるシステムと言えるでしょう。

しかしそのシステムにおいて、その構成員の個々の事情はないがしろにされがちな気がします。機械的に管理されるというより、もはや機械として管理されるのです。体調が芳しくなくても決まった日時に出勤しなければなりません。そこには元気になってからやろう、とか、翌日にまとめてやろうなどという柔軟さはなく、管理された組織としての進捗が優先されます。

そんなシステムが社会一般となった現在、道路工事だろうが農業であろうが、雨が降ろうが槍が降ろうが、決まった日程の中で行われるのが普通となってしまっています。優先すべきは工期であり、取引先との契約です。まあ、他の業態よりは確実に天気によって作業が左右されることの多いことは間違い無いですが。

都会的システムは変化を続ける自然現象を何が何でも制しようとしますが、それゆえ、巨大な台風が接近していても会社に出勤することが求められ、挙げ句の果てにはダイヤの乱れた交通網によって帰宅困難者を生み出します。そうなる可能性が高いとわかっていても、システムに追従することが求められるということでしょう。

それは想定外が起きるということを想定しないということでもあります。予定ありき、上手く行くという前提で、物事が進行することが求められます。だからこそ、一大事が起きたときの脆弱性は計り知れません。

まさに原発事故がその良い例ですが、あまりに旧来のシステムが強固すぎて、いかに原子力や放射能と上手く付き合えるかという前提が、事故後も以前と変わらず続いているように見受けられます。一度設定したゴールがあれば、イレギュラーが起こっても何が何でも向かわなくてはいけないというような凝り固まった体質は、何も原発産業だけに限るものではなく、この国全体に巣食っているように思えます。なるほど、原発問題は、日本の旧態依然としたシステムの問題なのでしょう。

管理される人は、他者を管理しだす

かのようにしてシステムに管理されている人たち、すなわち、組織が予定通り円滑に進むための構成員たる人たちは、その進行の妨げになる人や、同じように行動しない人たちに不快感を示しがちなように感じます。

誰かが何か新たなアイデアを閃いた時、それがこれまでの業務やプロジェクトを改善するものであったとしても、出る杭として叩かれてしまうことはよくあることではないでしょうか。

確かに、一度動き始めたプロジェクトが1からやり直しとなったらストレスなのもわかりますが、作ることありきで誰も利用しないものを作ったってやっぱり仕方がないでしょう。地方には行政主導のそのようなプロジェクトの残骸が遺産のように残っています。

しかし何か違ったことをする人は異物と見なされる現実があります。8時間の業務内容を4時間で終わらせて4時間早く帰るのがダメな一方、その仕事を10時間で終わらせる人が残業代をもらえてしまう。

決められた時間は働かなきゃいけないし、いなくてはならない。5分遅刻しただけで給料から天引きされるのに、30分余計に働いてもサービス残業だったりする。システムが要請する基準を満たすことが優先され、仕事の実際の成果は二の次ということなのでしょう。

管理のできなさを管理する

話は田舎に戻ります。

日本中いたるところがこれまで語ったような予定ありきの社会なわけですから、そこから田舎で自給的な暮らしに抜け出したところでなかなか簡単にその癖は抜けないものです。

晴れ予報だったのに突然雨が降ったりして予定が狂うとそれなりにうろたえますし、例えば家の工事で外作業の必要があるときに、雨が一週間も続くと焦りがないこともありません。冬になると雪が降ってできることもできなくなるというタイムリミット感もあります。

しかし、そんな焦りと同時に、ある種の諦めの気持ちが育って行きます。

雨が降って外作業ができないのなら、どうあがいたってできないのですから、悩んでも仕方がないわけです。意味がない。だったら他にできることを探せば良いし、なんなら骨休めをする良きタイミングだと捉えれば良い。

日々としては予定を管理するというより、自分の心を管理するというような暮らし方になって行きますが、週間や月間などの中期的なものや、一年以上といった長期的な予定となるとまた違います。そこには日々の流動的な営みとは違って、目指すべき計画が必要になるかと思います。

むしろ長期計画があるからこそ、一日一日の行程が不安定でも良いのです。その意味でも、近視眼的ではなく、未来的な思考がより一層求められるのが、自然と共にある暮らしなんだと思います。そこでは管理のできなさまで含めて管理する必要があるからです。

「管理のできなさ」というのはとても大事なポイントだと僕は思っていて、それは「わからないことがある」ということを分かる重要性にあります。

例えば他者の語る言葉ひとつとっても、僕と同じ定義で使われることがない以上、100%相手を理解することは絶対にできませんし、それは僕が他者に語る場合についても同じです。

自分の気持ちを言葉に変換する際にも劣化が生じると思いますし、そもそも自分で自分の気持ちすら完全に理解できるものではないと僕は考えていますから、コミュニケーションの精度というものは良くて3割くらいなんじゃないかと思ってすらいます。

つまり、物事はわからないことだらけで、とてもじゃないけれど管理できないのです。そのことを常に念頭においていることが、管理のできなさを管理することなんだと僕は考えています。

変化の止まない自然現象に即して暮らしていて興味深いのは、その中には循環する決まったサイクルがいくつも存在しているということです。つまり不確定要素の中にも、とっかかりがいくつもあるということです。

それは一日24時間だったり、一年が365日で循環すること。季節が巡ること。そして、月が29.5日で一巡することなどがそれでしょう。

月のサイクルは月間の予定を立てるのにとても役立ちます。潮の満ち引きを作り出すくらいの力ですから、自然環境への影響は馬鹿にならないはずです。女性の生理現象とリンクすることは月経というだけあってよく知られていますが、新月の時は根っこに水分と栄養が行くので、木を伐採するのに良い時期でもあるのです。

このような月のリズムは当然畑にも影響を及ぼしますから、漠然とした中期日程は決まってくるわけです。しかし漠然としていなくてはならないのは、何度も語っているように、一日一日は不確定要素で満たされているからです。

今は未来

今を生きる、とか、Be here nowなどとも言われますが、向こう1ヶ月の月の巡行や、太陽の一年周期、そして向こう数年の未来も同時に頭の中にあって、その未来が現在と切っても切れない生活こそが、今を生きるっていうことなのではと思っています。

それは過去もまた同様で、全ての時節が今を構成しています。今という刹那の連なりにしかいることがが出来ないのもまた事実です。そして今の行動がそのまま未来を創って行きます。未来を考えるということは今を考えるということに他なりません。

ただ今日のことを考えるということがが、この24時間のことだけなのか、数年先の未来を内包するのかによって、生き方というものは全く別のものになるはずです。

前者のような暮らしは、24時間の短いタイムリミットの連続をひたすらに乗り越え続けるような脅迫感があり、もはや間違いを挽回する時間的余裕すらないカリカリしたものに思えます。

その一方後者のような未来を見据えた価値観を持つことで、失敗しても明日がある、そしてその失敗を挽回できる未来まで想定できるという、おおらかで、骨の据わった生き方ができるのではないかと考えています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?