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猫のぬけがら

ひどく暑い夏の日だった。

いつものようにその若い女と二人で、近所の公園に散歩に行った。
いつものようにその若い女と二人で、近所の公園に散歩に行った、とはいうものの、この若い女が誰なのかどうしても思い出せない。
今日は特に暑くて、陽射しも強かったので散歩はやめておいた方がいいんじゃないかと言ったが、若い女はどうしても散歩に行きたがった。
毎日やっていることを止めてしまうと、そこから全部がおかしくなってしまうような気がする、というのだった。
この若い女が誰なのか思い出せなかったが、私はその女の体調がとても心配だった。
少しでも具合が悪くなったらすぐ帰る、と約束させて散歩に出た。
公園は家から歩いて5分くらいの所にある。
さほど大きくない公園で、真ん中あたりに池があった。
猫がうるさいくらいに鳴いていた。

公園の大きなクスノキの根元に猫のぬけがらを見つけて、女はそれを拾い上げた。
まだ脱皮してからそこまで時間が経っていないらしく、持ち上げてもへなへなとしおれてしまわずに猫の形を保っていた。
だから女が猫のぬけがらをお腹の辺りに抱えていると、生きている猫を抱いているように見えた。

あまりきれいなものじゃないよ、ノミがいるかもしれないし、と私は言ったが、女はしっかり抱えて離そうとしなかった。
内田さんは猫のぬけがらを拾ったりしないんですか、と女が訊いた。
子供の頃はね、と私は答えた。
自分の部屋が一杯になるくらい拾ってきて、母親からひどく怒られたことがあったな、ノミがひどくて。
若い女はくすくす笑い出した。
そんなにおかしいかな、と私が言うと、
ごめんなさい、内田さんの子供の頃って、どうしても想像ができなくて、と女が言った。
いつになく若い女が元気そうだったので私も嬉しかった。
まあ、半世紀ちかく前のことだからね、と私が言うと、若い女は、半世紀か、すごい、と言って笑った。

公園の池はそんなに大きな池ではないのだが、いつでも釣りをしている人が4、5人いた。池の真ん中あたりに「釣り禁止」という大きな赤い看板が立っていた。

池のまわりにいくつかベンチが置いてある。
日陰のベンチはみんなふさがっていたので、日の当たっているベンチに腰掛けた。
暑くてかなわないな、と思ったが、女は涼しげな顔をしている。
猫のぬけがらを膝の上に乗せ、池の方を見ながら女は話し始めた。

猫は一週間の命でその一週間を精一杯生きるとかって言うじゃないですかでもあれって違うと思うんですよ土の下で長い年月を過ごしてそれが猫にとっては幸せだと思うんです夏は涼しいし冬は暖かいし食べ物の心配はないし天敵もほとんどいないし土の下でぬくぬくと過ごせていたわけじゃないですかそれが本能のせいか何かわかりませんけど土から出なきゃならなくなってずっと土の中でぬくぬくしていた猫が外に出たら外の世界の光も音も暑さも地獄の火みたいに神経に突き刺さるんじゃないかと思うんです次から次へと休む間もなく神経にヤスリをかけられるような苦しみが一週間絶え間なく続いてそれでやっと死ねるのかなって

一息でそこまで言うと女はふっと言葉を切った。
そして、ああ涼しい風、と言った。
私には風は感じられなかった。
若い女は人形あそびに飽きた子供のように猫のぬけがらを足元に放り投げ、ベンチから立ち上がった。
つられたように私も立ち上がった。

女は遠くの空を眺めながら、もう夏も終わりですね、と言った。
それでやっと思い出した。
もう二十年以上も前、この若い女とこうして散歩したことがあった。
二十年以上もたっているのに若い女はその時のままだった。
それほど近しい間柄ではなく、こんな風に散歩したのも2、3回だけだったし、その後少し経ってこの若い女が自殺したということも人づてに聞いただけだった。

急に日がかげった。
あたりが夕方のように暗くなった。
冷たい風が吹き始めた。
涼しいというより肌寒かった。
猫がいっせいに鳴き止んだ。
若い女の姿はどこにもない。

夏が終わり冬がやって来るのだった。


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