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みんな本当にこんなにつらいのか?

彼は会社に行くのがつらくて仕方がなかった。

「明日会社行きたくないな」
と彼はつぶやいた。
高校の頃からの友人の家で酒を飲んでいる時だった。
日曜日の夜だった。
発した声はつぶやきだったが、本当は心の底から叫ぶような気持だった。
すると友達は笑って、「まあ日曜日のこの時間、勤め人はほとんどみんなそう思ってるだろうな」と軽く答えた。
彼は自分の心からの叫びが軽く扱われたようで、ひどく嫌な気持ちになった。
それと同時に、「本当にそうなのだろうか」と思った。

みんな本当にこんなにつらいのか?

彼の会社は契約先の会社の給与計算や、社会保険・労災保険の手続きを代行する会社だった。
彼は傷病手当金や労災保険を主に担当していた。
傷病手当金は、労災以外の傷病で休職した場合に社会保険から給付されものである。

彼が処理する傷病手当金の書類の半分以上が精神疾患によるものだった。
うつ病、適応障害、抑うつ状態、パニック障害。
彼の仕事では、実際に休職している人と接することは無かったが、そういう人の症状に関しては詳しくなった。


仕事の途中で急に涙が止まらなくなった、という人がいた。
(彼は人前で泣くことは無かった。最後に人前で泣いたのは小学生の時だった)

どうしても朝ベッドから起き上がれなくなった、という人がいた。
(彼は会社に行くのが嫌でたまらなかったが、ベッドから起き上がれなくなることは無かった)

交通量の多い道路にふらふらと足を踏み出してしまった、という人がいた。
(彼は自殺を考えたことがなかった。
死ぬのは怖くてたまらなかった)


みんな本当にこんなにつらいのか?
と思っていたが、そうすると自分はまだそれほどではないのか。
そう彼は思った。
しかしちょっと信じがたかった。
みんな本当にこんなにつらいのか?
あるいはこれ以上に?

そのうち彼は、あまり眠れなくなり、ほぼ慢性的に下痢をするようになり、頻繁に吐き気がするようになった。
肩と首がガチガチに凝り固まるようになった。
医者にかかり、胃酸を抑える薬と、腸内の水分を調整する薬と、抗不安剤を処方された。
体調は良くもならなかったが、それ以上ひどくもならなかった。

相変わらず、涙が止まらなくなるようなことは無かった。
ベッドから起き上がれなくなることもなかった。
死にたくなるようなこともなかった。
嫌で嫌でたまらなかったが、仕事ができなくなることは無かった。
彼はある程度「仕事ができる」という評価は受けていた。
積極性は足りないが、任された仕事はきちんとこなす、と。
やる気はなかったが、やらなければいけないことは仕方がないのでやった。
すると、責任と仕事量だけがどんどん増えていった。

高校時代からの友人がうつ病になった。
彼が「明日会社に行きたくないな」と行った時に「まあ日曜日のこの時間、勤め人はほとんどみんなそう思ってるだろうな」と軽く答えた友人だった。
彼は驚いた。
その友人は、自分よりもずっと精神的にタフだと思っていたからだ。

みんな本当にこんなにつらいのか?

みんな本当にこんなにつらいのか?

それともこれ以上につらいのか?

涙が止まらなくならない、ベッドから起き上がれなくならない、死にたくならない自分は、まだ大したことはないのか?



ある朝、通勤時、彼は自宅の最寄り駅で電車を待っていた。
まだ夜も明けきっていない早朝の時間だった。
次に来る電車は急行で、その駅は止まらずに通過する。
彼はふと、その電車の前に飛び込めば死ぬだろうな、と考えた。
でも自分はそんなことはしないだろうな、とも。

その時、空から天使が下りてきた。

美しい女で、白い服を着ていた。
頭の上に光の輪が光っていた。
天使は空から降りて来て、彼の目の前で止まった。
彼はホームの一番前に立っていたので、天使は線路の1メートルほど上に浮かんでいた。

「あなたが一番つらいのよ」
と天使は言った。
優しく柔らかい声だった。
「他の人達はあなたほどにはつらくない、あなたが一番つらい思いをしているわ」

そうか、と彼は思った。
そうじゃないかと思っていたんだ。

「あなたは本当にすごいわ。こんなに頑張っている人は他にいないもの」
と天使が言った。

そう言ってほしかったのだ。
彼は、ずっとそう言ってほしかったのだ。
涙が出そうだった。
やっとわかってもらえた、と彼は思った。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
あまりにもその天使は、彼の中にあるイメージ通りの天使だった。
あまりにもステレオタイプの天使。
だから彼は聞いてみた。
「お前、ほんとは天使じゃないんだろ」

彼がそう言うと彼女は、いかにも心外だ、という顔をして、
「誰も天使だなんて言ってないでしょ」
と言ったが、その言葉の後半は響き渡る警笛にかき消された。
急行電車が警笛を鳴らしながら彼の目の前を通過していった。
思ったよりもホームの端に立っていたことに気づいた彼は2,3歩後ずさった。
あぶないところだった。

次に来た各駅停車に乗って彼は普通に出勤した。
そして退職届を書き、それを社長に提出した。


みんな本当にこんなにつらいのか?

その疑問に対する答えはまだ見つかっていなかった。
ただ、その疑問自体が、もう彼にとってあまり意味がなくなっていた。

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