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夏の秘密基地

花小金井の駅に着いたのは午後1時過ぎだった。
ひどく暑い。
電車から降りる時、むっとする空気に押し返されるような気がした。
この駅で降りるのは何年ぶりだろう。

改札を出ると、中年の男性がこちらをうかがうようにしながら近づいて来た。
「うっちん?」
その男が言った。
小学校の頃のあだ名でいきなり呼ばれて、ひどく妙な気分になった。
それが須賀君だった。
ジーンズに白いTシャツの中年男。
最初は全然分からなかった。
当たり前だ。最後に会ったのはもう40年以上前になる。
須賀君は小学校の途中で転校していった。4年生か5年生の時だったと思う。

小学校の頃のことをほとんど憶えていない。
大学時代とか、社会人になってからも、他の人が小学校の頃のことをずいぶん細かく憶えていることに驚いた。しかしそっちの方が普通で、自分みたいに憶えていない方が珍しいと知って不思議な気持ちがした。
中学校以降についてはそんなことはないので、小学校の頃までの自分は、ずいぶんぼんやりしていたんだろうな、と思っていた。
わずかな記憶しかない小学校時代で、唯一友達として憶えているのが須賀君だった。
たしか「スガちゃん」と呼んでいた。
でもぼくの方は、まだその呼び方をするのは気恥ずかしかった。
お互いちょっと気まずいような、少し探り合うような感じでぽつぽつと言葉を交わした。

ぼくは須賀君が転校した後も、高校を卒業するまでここに住んでいたが、どちらにしてもずいぶん昔のことだ。
駅前はすっかり変わってしまっていた。ばかに広いロータリーができていた。
見覚えのあるものは何もなかった。
ぼくや須賀君の家があった辺りは駅から少し離れていて、歩くと20分くらいかかる。
昔からその辺りに行くバス路線がなく、駅に行くのは歩きか自転車だった。
「相変わらずバスは無いみたいだね」と須賀君が言った。
この暑さの中を歩くのかと思うとちょっとうんざりした。

何度もハンカチで汗を拭きながら歩いた。タオルを持ってくれば良かったと思った。
最初はぎこちない感じだったが、須賀君と少しずつ言葉を交わすうちに、小学校の頃の感覚、「スガちゃん」と話していた感じがおぼろげによみがえってきた。
それと同時に、憶えていないと思っていた小学校時代のことが、だんだん思い出されてきた。
桜井君、山ちゃん、スガちゃん、そしてぼく。
それがいつも一緒に遊んでいた顔ぶれだった。
他にも誰かいた時もあったが、とにかくその4人はだいたいいつも一緒にいた。
桜井君がリーダー格で、だいたい何をして遊ぶにしても決めるのは桜井君だった。
山ちゃん(山形という名前だったと思う)がサブリーダー、というか、いつも桜井君にくっついている子分みたいな感じ。
そしてスガちゃんとぼく。
思い出したのは、あまり楽しくないことばかりだった。
親たちは仲のいい友達、と思っていたのだろう。
ぼく自身がどう思っていたのか、それは思い出せなかった。

桜井君に誰かの飼っていた犬をけしかけられたことがあった。
犬としてはじゃれているだけだったのかもしれないが、ぼくは小さな頃から犬がすごく苦手だったので本当に怖かった。泣きながら犬に追われて走った。
桜井君と山ちゃん(たしか他にも誰かいた)は笑っていた。その時、スガちゃんがいたのかどうかは思い出せなかった。
桜井君がぼくとスガちゃんを「戦わせる」と言って、むりやり取っ組み合いをさせられたことも思い出した。
もっと色々なことを思い出せそうな気がした。
もっと嫌なことを。

「ここら辺はあまり変わっていないね」と須賀君が言った。
たしかに、ぼくたちの家があった辺りに近づいてくると、見覚えのあるものが多くなってきた。
大通り沿いのゴルフ練習場が見えてきた。
「あのゴルフ練習場、まだあるんだ」
「よくあの横の方でゴルフボール拾ったよね」
そんな話をした。
けっこう歩いたから、もう汗びっしょりだった。

大通りに出た。ゴルフ練習場の隣に中古車屋(ここも昔からあった)があり、その間に細い道があった。
舗装されていない砂利道。
須賀君はその道に入っていく。

スガちゃん、そっちに行っちゃだめだよ。

ぼくが立ち止まっていると、須賀君が振り向いて「こっちだよ、おぼえてるでしょ」と言った。まるで小学生みたいなしゃべり方だな、と思った。
その道はもちろん憶えていた。
その道の奥には廃材置き場がある。
コンテナが1つ置いてあり、コンテナの扉は開いていて、いろいろな廃材が入っている。
コンテナの周りにも自転車や木材、壊れた電化製品などが山積みになっていた。
めったに大人の姿を見ることは無かったので、ぼくらはここを「秘密基地」と呼んで良くここで遊んでいた。
クリーム色の冷蔵庫。

「そっちに行くのはやめよう」とぼくが言った。
「ぼくだって行きたくないよ」と須賀君が言った。
暑くて頭がぼんやりする。
少しめまいもした。
スガちゃん、そっちに行っちゃだめだよ。
でも須賀君はどんどんその道を歩いていく。

「秘密基地」はまだそこにあった。
40年以上経っているのに、その廃材置き場は何も変わっていなかった。
ありえない、とぼくは思った。
コンテナの横には木材がたくさん積み上げられていて、その上に斜めに立てかけるように置かれた冷蔵庫までそのままだった。
クリーム色の冷蔵庫。
夏休み。
たしかあの時、山ちゃんはいなかった。
ぼくとスガちゃん、そして桜井君の3人だった。
今日みたいに暑い日だった。
桜井君はひどく機嫌が悪かった。山ちゃんとケンカでもしたのかな、とぼくは思った。
桜井君は、ぼくとスガちゃんにいろいろと命令した。
それから、ぼくは桜井君に何かひどく嫌なことを言われた。
何を言われたのかは思い出せない。
ただその時の、本当に嫌な気持ちだけははっきり思い出せた。
スガちゃんが気の毒そうにこっちを見ていて、それもとても嫌だった。
それから桜井君は、コンテナの向こう側にある大きなタイヤをこっちに運んで来い、とスガちゃんとぼくに命令した。
すごく重いタイヤを二人で苦労して運んで戻ってきたら、桜井君の姿がなかった。
何処へ行ったんだろう、と不思議に思った時、近くにあったクリーム色の冷蔵庫の中から、どんっ、と大きな音がした。
ぼくとスガちゃんは顔を見合わせた。
また、どんっ、と音がした。
それから桜井君のくぐもったような声が、クリーム色の冷蔵庫の中から聞こえた。何を言っているのかは分からなかったが、ひどく怒っているような声だった。
冷蔵庫の中に入って、出られなくなっちゃったんだ、とぼくは思った。

「ぼく、帰る」とぼくが言った。
スガちゃんはポカンとした顔をしていた。
また冷蔵庫の中から、どんっ、と大きな音がした。
ぼくは砂利道を大通りの方へ駆け出した。
「待ってよ」と言って、スガちゃんも後からついてきた。
大通りに出ると、ぼくとスガちゃんの家は別の方向だったので、それぞれの家の方へ走って帰った。

桜井君の遺体が見つかったのはその翌日の夕方だった。
一人で遊んでいて、冷蔵庫に入って出られなくなってしまったのだろう、ということになったらしい。
その夜からぼくは熱を出して1週間ほど寝込んだ。
だから葬式にはいかなかった。
友達が死んでショックだったんだろうと、みんな同情してくれた。
その後、山ちゃんともスガちゃんとも一度も遊ばなかった。
ほとんど言葉も交わさなかった。
半年くらい後にスガちゃんは転校していった。
桜井君のことが原因なのかどうかはわからない。

ほとんど一瞬の内に、そんなことを思い出した。

「ほんとにみんな忘れてたの?」とスガちゃんが言った。
そう、本当に忘れていた。
「ぼくは一度も忘れたことなんかなかった」
スガちゃんは今にも泣きだしそうだった。
もう50代だというのに、まるで小学生みたいだな、と思った。
「まるで小学生みたいじゃないか」と言って笑おうとしたが、のどの奥に何かが詰まったようで、うまく声が出せない。
クリーム色の冷蔵庫の中から、どんっ、と大きな音がした。

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